本の背表紙と私は早熟だった
吹き上がってくる風が、目にぎゅうぎゅう飛び込んでくる青が、なによりこの高さが、状況が、私の心臓を舐める。
いきなり呼び出されたと思ったら連れてこられた、廃ビルの5階。
窓外のベランダに降り立つと、隣のビルが直ぐ隣にあってそこは薄暗かった。
「うわ」
下から上から横から吹く風、ビルとビルの切れ間を見ると濃い青、先生と私だけの特別な空間、私は自分の脈がどくどくと音を立てるのが聞こえるような気がした。
まばたきするのがもったいなくて目を見開くと、なんだかすごく興奮して思わず後ろを振り返った。
「せんせえ」
風の音に競り負けないように、叫んだ。
「だーかーらぁ、俺お前の先生じゃねーって」
真っ青なスタンドパーカーの襟に顎を埋めて、先生は私を睨む。
そんなの私だってわかってます。
「でも友達でもないじゃん」
ましてや、恋人でもないじゃん。
少し含みを持たせた私の言葉には答えず、先生は眉根を寄せて煙草をくわえた。
「ねぇ、ここって入って大丈夫なとこなの?」
「お前は俺が大丈夫なところに連れてくると思うの?」
思いません。
ムラだらけの金髪を風に揺らしてタバコに火をつけようとするが、頼りないライターの火はなかなかつかない。
先生は火のついていないタバコをくわえたまま不機嫌そうにしゃがみ込んだ。
あぁせんせい、その顔すごく素敵です。
私の後ろには青い青い世界が広がっているけれど、私は目の前にいる、不機嫌そうに顔を歪めた貴方を見てしまう。
あとどのくらいここにいられるのだろうか。
そう思い携帯を開くと、もうすぐ弟の授業の時間だった。
弟は今頃宿題を慌てて解き先生を待っているだろう。
チャリ、とポケットのバイクの鍵を鳴らして先生が立ち上がった。
「そろそろお前ん家いかなきゃな」
その一言は、先生と私の距離を急につき離したように感じた。
先生は時間を守らなきゃいけない大人なんだという現実が私たちの間に薄い壁をつくる。
「うん、帰ろっか。ありがとね連れてきてくれて」
私は笑う。
帰りたくない帰りたくない帰りたくないもっとここに二人だけでいたい。
「おう、また連れてきてやるから」
「うん」
嬉しい言葉のはずなのに、私の感情は温度を取り戻さないままだ。
フォローの言葉なんて聞きたくない。先生の対応にますます自分のガキっぽさを実感した。
窓枠を越えて先生がビルの中に入る。
一人きりになったベランダ、私はもう一度後ろを振り返ったけど、その青はもう私の胸を高鳴らせなかった。
私も窓枠を乗り越えて床に足をつけた、その瞬間。
「え」
先生に正面からきつく抱き締められた。
目の前にある先生の服の青が私の胸を高鳴らせる。頬が熱くなる。
「好子ちゃんよぉ」
名前を呼ばれて、私は息も出来ない。
「監禁しときてぇなあ、ここに」
頭の上で囁かれた言葉に私はびくりと背を震わせる。
「まぁ俺大人だから我慢しといてやるよ、良かったな」
そう言って私を解放してさっさと歩きだす先生の背中は、クククッと喉で笑って揺れていた。階段を降りる先生の足に合わせて、ポケットの中でチャリンチャリンとリズミカルに鳴るキーの音が遠ざかってゆく。
取り残された子供の私は、そこに立ちすくんだ。
こんな風に先生に惑わされて、それを嬉しいと思ってしまう。
急に見せられた幼い面も計算づくなのかもしれないけれど、私はもう少し子供でいたいと思った。
もう少し、こうやって劣等感に悩まされたり惑わされたりしていたい。
もう一度携帯を開き、時間を確認して電源を切る。
そしてチャリチャリと鳴るバイクキーの音を追いかけて階段を駆け降りた。