八方塞
拍手小話No.10
あり得ないはずのことが起こってしまった時、どうすればいいのだろう。
憎々しいまでに青い空、長閑な牧場を背景に、背の高い、黒ずくめの男が立っている。
男……といってもその容貌はひどく中性的で、もし真面目に女装したら、女にしか見えなくなるだろうという線の細さである。
(ウィステリア……?)
慣れ親しんだ名が、脳裏をよぎる。
疑問系になったのは、実在するはずのない人物だったから。
不機嫌な視線が私を射抜き、形のいい唇が弧を描く。
「よくものこのこと帰ってきたわね、このバカ女」
低い声に不似合いな口調で、辛辣な言葉を吐く。
私の知る、彼そのもの。
「ムカつくから……いっぺん死んじゃってくれるかしら?」
物騒なことを言うなり、どこから出したのか、短剣の刃が日を受けて煌いた。
瞬きの間に、その輝きが目前に迫る。……私は動けなかった。
「――っ」
「……………… 何やってんの、アンタ」
ぴたりと首元で凶刃が止まる。
一瞬の沈黙と、呆れた声がすぐ近くで聞こえて、私はへたりと地面に座り込んだ。
「ちょっと、ロータス?」
魅力的な声が、訝しげに『私』の名を呼ぶ。
のろのろと顔を上げると、予想以上の近距離に黒い瞳があり、『私』が映りこんでいた。
耳の下の辺りで切り揃えられた烏のように黒い髪と、意志の強そうな眉と。
しかし普段ならきつい印象を与える切れ長の目は、今は途方に暮れたように見えた。
嗚呼、元々の私とは違うこの顔は、確かに――。
「ねぇ、何とか言いなさいってば。何なのよ」
私の前に膝をついて、顔を覗き込んでいる彼、ウィステリアは見た目通り暗殺を生業にしていた。
『私』とは、何というか、会うたびに殺し合いになる仲である。
正確には、私が仕事の邪魔をして、怒らせては戦闘になり、そして返り討ちにするという、ある意味逆切れ的な展開を何度も何度も繰り返していた。
だからもし私の知るウィステリアが目の前の彼なら、多分普段通りにしただけだ。
『私』もこんな異常事態でなければ、普通に返り討ちにしていただろう。
でも。
でもっ。
(私は無理だからっ!!)
平和に生きてきた日本人らしく、殺し合いなんかしたこともありませんから!
状況が既にいっぱいいっぱいなのに、喉元に短剣とか普通に腰抜けちゃうから!
返り討ちどころか、反応もできませんから!!
私は必死で考えた。
考えて、考えて。
やっと口から飛び出した言葉は、
「あ、あなた誰ですか?」
――だった。
言った瞬間、自分でも「やっちまったよオイィッ!」と思ったのだが、それ以上に。
……その時のウィステリアの顔を、私はいつまでも忘れないだろう。
ウィステリアはきょとんと目を見開き、それからいくらかの瞬きの間に顔が強張らせて、眉を寄せた。
いつもの艶っぽい表情も、意地悪な雰囲気も消え失せて、唇が震える。
「なに……言ってるの。あ、頭大丈夫? ねぇ」
失礼なことを言いながら、強い不安を感じているのが伝わってくる。
仕方がないといえば、その通りだった。
最初のやり取りで反応できず黙って殺されそうになったところで、もう彼の知る『ロータス』を演じることが不可能になってしまったのだから。
かといって、『ロータス』として戦闘に応じることもできなかった。
だから仕方ない。
……仕方ない、のに。
「……私のこと、忘れちゃったの……?」
そんな震える声を聞いて、ひどく後悔した。
――それからどうしたって?
死ぬほど後悔している、現在進行形で。
「ここはどこ、私は誰」なんて、生きている中でやる羽目になるとは思っていなかった。
今ならあんなお遊び的な攻撃くらい、簡単に対処できると思う。
この世界に慣れてきた今なら。
でもあの時は本当に無理で、だからあの嘘はどうしようもなくて……でもあのウィステリアの顔と、今の彼の態度に罪悪感だけが募っていく。
優しいのだ。
かつての辛辣さなど欠片も見せることなく、ただ優しくしてくれる。
記憶を失った、大嫌いな女を、見捨てずに面倒を見てくれるから。
私は『ロータス』にもなれないまま、哀れで気弱な女を演じている。
「ロータス? 何してるのよ、そんなところで。風邪引くわよ?」
「ウィステリアさん……」
多分本来のロータスなら、ウィステリアにさん付けなど絶対しなかっただろう。
強気で強引で、女らしさなど欠片もない男装女だったのだから。
弱々しく名を呼ぶたび、悲しげに目が細められることに、私は気づいている。
振り返りかけた肩に毛布がかけられ、礼を述べる前に、長い腕が体に回される。
私も相当長身のはずなのだが、それでもすっぽりとウィステリアの腕の中に納まってしまった。
毛布を押さえようとした手をとられ、握りこまれる。
「ほら、もう。こんなに冷えて。中にお入りなさいな」
「は、はい」
腰を抱いて誘導してくる腕は、本当に優しくて、言葉にも態度にも気遣いが感じられる。
その優しさと、不意に見せる切ない表情とが私の内に罪悪感を募らせ続ける。
締め付けられるような痛みを訴える胸元を、私はぎゅっと握り締めた。




