裏事情という名の黒歴史
異変直後のライカリスと双子の話。
動けなかった。
手も足も力が入らず、木に背を預けていなければ、きっと体を起こすこともできなかっただろう。
思考は鈍り、ただただ視線だけが一ヶ所へと向かう。
(リコ……)
彼女の牧場があった場所。
常には、穏やかで賑やかで、生気に溢れていたはずのそこは、今は何もない。
ただ広大な空き地だけが広がる空間は、今のライカリスとどちらが空虚だろうか。
(リコ……)
もう、その名前を音にすることもできなくて、頭の中だけで虚しく繰り返す。
どこにもいない、ライカリスを置いてきぼりに、消えてしまった女の名を。
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この世界を支えていた牧場主の全てが消え、世界中がパニックに陥った。王都も地方都市も、人でない種が住まう地域でさえも。
ライカリスも例外ではない。
いつもと変わらぬはずの朝日に起こされてみれば、共に宿泊していた宿からリコリスの姿は消えていた。
宿の誰に尋ねても、彼女が出ていく姿を見た者はおらず。宿どころか、町の誰も分からないという。
途方もなく嫌な予感がして、ライカリスはスィエルの町へと引き返した。
その異変を象徴するかのように全ての転送装置が機能を停止し、帰る道すがら視界に捉えた人々も、何事かと騒ぎ始めていた。その中に、大勢いたはずの牧場主らしき姿は1人としてなく。
そうして、走って、走って。
ようやく辿り着いたそこに、リコリスの牧場は存在しなかった。
草ひとつ生えない、見渡すかぎりの更地を前に。
世界から切り離されたように全ての音が遠のき、自身の鼓動だけが響く。寒いはずがないのに、凍えたように手足が痺れ、歯の根が合わなくなって、背を流れる汗だけが妙に冷たく不快だった。
あの時の感覚を、おそらく人生で初めて感じた恐怖を、ライカリスは今も忘れられない。
最初はただ呆然とした。
それから、動きの鈍った体を叱咤して町に走り、姉を始めとする住民たちにリコリスの所在を訊いて回った。
所在は分からないまでも、せめて何が起きたのか、無事でいるのかだけでもいい、少しでもいいから情報を。
スィエルの町で駄目ならと、他の町にも行った。方々を走り回って、しかしやはり何も分からず、誰もが沈鬱な面持ちで首を振るばかり。
異変からどれだけ時間が経ったのか、混迷を深めるばかりの世界で、ライカリスの焦燥は絶望へと変わっていった。
リコリスがいない。
どこにもいない。
「ライカ」と呼ぶ声も、少し生意気で悪戯っぽい笑みも、髪に触れてきた細い手も。
何もなくなって。
……これはきっと罰だと思った。
リコリスと時間を共有する中で、あんなにも鮮やかに思えた世界は、今は彼女と出会う以前よりも色褪せて見えた。
否、もう何も見えていないのかもしれない。
だって、リコリスのいない世界に、何を見ろと言うのか。視界に入れる価値もない。
リコリスの牧場の入り口であった場所に座りこんで、彼女が甘味好きのライカリスのためにと作ってくれていた飴をぽつりぽつりと口にしながら、どれだけの時間が経ったのか。
そうしている間にも、町の内外から入れ替わり立ち替わり、大勢の人間がライカリスを訪ねてきた。町の住民はライカリスを心配して、外の人間は牧場主たちの情報を求めて。
それら全てが煩わしく、ライカリスはいつしか、近づく者全てに無意識でナイフを投げつけるようになっていた。
無論、本当に当てるつもりはなく、ただ近づかないでくれればそれでよかった。当たっても別に気にはしなかっただろうが。
スィエルの住民はそれでも遠巻きにこちらを窺うのをやめなかったが、外の人間はライカリスの威嚇の鋭さに恐れをなして逃げていった。
リコリスはいつだってライカリスに遠慮なく近づいてきたし、今のこの強さも彼女がいて手に入れられたもの。
結局何をしても、何を考えても、あるいは何もしなくても周囲の反応だけで、リコリスを思い出す。
目を閉じて、次に開いた時に全てが元通りになってくれていたら。
眠ることなどできなかったが、それだけ願ってライカリスは瞑目する。
何日目のことだったか。
土を踏む音がして、ライカリスは反射的にナイフを投じた。
彼の望む気配でなければ、何者であっても関係ない。
だから、消えろ、と。
これまで通りならそれで済んだこと。……しかし。
「……何やってんの? ライカってば」
「ちょっと予想外です、ライカさん」
ひどく呆れの色濃い、そっくりな声が2人分。ライカリスの威嚇などものともせず、その場に響いた。
ライカリスの攻撃に対応できる者は限られる。
それがある程度の余裕をもってとなると、世界でも数人しか存在しない。
中でも特に面倒な疫病神の来訪に、それでもライカリスは応えなかった。
表情ひとつ変えることなく、再びナイフを投じる。今度は殺すつもりだった。
「はあ? ねぇ、ちょっと馬鹿なの?」
冷静に考えれば、そんな攻撃が当たるはずもない。
だが今のライカリスに思考する余力はなく、そうしている間に、苛立ちを多分に含んだ声は距離を詰めてくる。
目を向けることすら億劫だというのに。
手を変えなければいけないか。のろのろとした頭が浮かべた案は、結局間に合わなかった。
伸びてきた手が、ライカリスの胸ぐらを掴んで引き上げる方が早かったからだ。
「――何してるのかって、訊いてるんだけど」
「ぐっ」
「答えろよ、腑抜け」
強く締め上げられて、息が止まる。
リコリスがいなくなって、息の仕方も忘れたように感じていたが、実際に呼吸を阻害されてみれば意外と苦しい。
意識が現実を認識して、ライカリスはようやく視線を動かした。
瞬きを繰り返す視界に、不本意ながら見慣れた男の、見慣れない表情が映る。
知りたいとも思わなかった、怒りを露にしたリビダなど。
「聞こえない? 面倒臭いなぁ。僕らも暇じゃないんだよ。さっさとしてよね、愚図」
いつになく棘のある言葉を突きつけられて、ライカリスも眉を寄せる。
まるで目の前の男から伝染するように、じわじわと身の内に苛立ちが生まれた。
その久しぶりの感情に任せ、襟を締める手を掴む。骨のひとつでも折れればいいと力を込めて。
「……構ってくれと、頼んだ覚えはありませんよ」
忙しいと言うなら、こちらに構わなければいいのに。というか、忙しくなくても構ってくれるな。
言外の拒絶は、当然のように無視される。
「へぇ、そう。だから?」
「ライカさんらしくないですね。そんなので、兄さんが引くわけないのに」
小馬鹿にした口調が重ねられて、苛立ちが増す。
相当力を入れて剥がそうとしている手も、相変わらずライカリスの胸ぐらを掴んだままだ。
「で? 質問には、いつ答えてくれるの」
「……従う義理は」
「ないって? まぁ、そうだよねぇ。ライカはリコリスの犬だもん。飼い主にしか従わないし? その飼い主が……いなくなったら何もできない」
飼い主だ犬だと、あんまりな物言いに噛みつくよりも、唐突に現実を突きつけられて体が強張る方が先だった。
咄嗟に言い返すこともできないライカリスを、リビダは冷ややかに見下ろした。
「事実、何もしてないでしょ。大事なものが消えちゃったのに、ろくに探しもしないでさ。せめて諦めずに待ってるならまだ忠犬だけど、……ライカは違うよね。だってもう、諦めてるみたいだし」
そう吐き捨てる兄の後ろでは、不思議そうな顔の弟がしきりと首を傾げている。
「……何故、そんなに簡単に諦められるんです? ……ライカさんは、俺たちと同じだと思っていたのに」
ビフィダの声には困惑が滲み出ていて、不可解だと、そして残念だと、はっきり伝えてきた。
双子のどちらもが、ライカリスがリコリスのことを諦めたと決めつけている。
そんな馬鹿な話があるものか。
あるはずがない。あってはいけない。認められない、それだけは。
「諦める、なんて……そんなはず、ないでしょうっ」
「嘘だね。諦めてないって言うなら、何でこんな所で死にかけてるんだよ。僕の手を振り払う力もなくしちゃってさ」
「それは……っ」
「リコリスを探しもしないで、いざという時に動く体力もなくして死にかけてて? これが諦めてるんじゃなくて、何だって言うんだ」
リコリスがいない世界で、どうやって生きていけばいい。
絶望は気力の全てを奪い、ライカリスは確かに自身の生を諦めていた。興味がもてなかった。
それがリコリスをも諦めることだと、リビダが容赦なく斬りつけてくる。まるで吹雪のような冷たさで。
「……俺たちは、絶対にソニア様を諦めたりしません。あの方を取り戻すためなら、何だってします。いつまでだってお探しします。あの方は俺たちを捨てたりなさらない。必ず戻ってきてくださいますから。どれだけでも待つことになっても、それでも」
兄とは真逆に、恐ろしく静かにビフィダが告げる。
正面から刃のごとき怒りを向けてくるリビダと違い、凪いだビフィダの声はひたと背後をついてくるような不気味さがあり。
その声と似合いの、鬱蒼とした森の奥のような瞳は、未だに襟を締め上げられているライカリスを、まっすぐに見つめてきた。
「――ライカさんは、違うんですか?」
「…………っ」
違わない。
……違わないのだ。
そう。リコリスを諦めるなど、絶対にできない。
どれだけかかってもいい。
これが罰だというならいくらでも受け入れるから、だから。
もう一度、この手に。
なのに、そう言えなかったのは、きっとこの変態たちと同じだなどと、口が裂けても言いたくなかったからだ。そうに決まっている。
震えるだけでひとつの言葉も吐き出せない唇の代わりに、ライカリスの目元は熱をもち、止める暇もなく何かが頬を伝う気配がした。
それが何なのか、理解したのと同時に、ライカリスは咄嗟に短剣に手をかける。あれほど動かなかったはずの体は今、面白いくらいにすんなりと意思に従ってくれた。
「……おっと」
「んっ……」
リビダの手が緩み、ビフィダの艶っぽい声が響く。
ライカリスの上半身が解放され、やはり思うように力の入らない体が背後の木の幹に向かって傾ぐと、兄と短剣の間に割って入ったビフィダの手から、刃が抜け落ちた。
貫かれた手の平から甲から、ぱっと赤が飛び散り、ライカリスとリビダに1滴2滴と色を付ける。
手を縦に裂かれた状態で嬉しそうに頬を染めるビフィダは、一歩を下がり、肘に流れ落ちる多量の血液をぺろりと舐めとった。その幸せそうなこと。
主人が消えて、少しだけ真摯に見えたかと思えば、もうコレだ。
「あは。ライカってば、照れちゃって」
両手を軽く上げたリビダが、笑って茶化してくる。
こちらも既に普段通り。先の凍りつくような苛立ちはどこにも見受けられない。
ライカリスは木に背を預けたまま顔を背け、失態を隠蔽するべく頬を拭った。本当に、諸々とんでもない大失態である。
「照れてなんかいません。不愉快なだけです」
「いやぁ、どう見ても過激な照れ隠しでしょ」
「……気色悪い」
ニヤニヤと嗤う悪魔に、ライカリスは心の底から本音を吐き捨てる。
しかし、殺気の滲むそれを気にするわけもない男は、なおも笑いながら振り返り、地面に血溜まりを作る弟の腕を指先で弾いた。
「あ……っ」
「ライカも起きたみたいだし、ビフィダご飯作ってよ。それ、さっさと治してさ」
「ええぇ……、治さないと駄目? 俺はしばらくこのままでもいいんだけど」
ますますもって気味の悪いやり取りに、ライカリスの渋面が更に渋みを増す。
「……あなたたちと食事なんてごめんですよ」
「動けないくせに強がっちゃって。生きる気になったんでしょ? ならまずは食べないと……あっ、もしかして食べさせてほしいとか」
「ありえません」
放置すれば実行に移されそうなリビダの提案を食い気味に否定して、ライカリスは不機嫌に息を吐き出す。
「………………………………………………ビフィダさんの血入り料理は、絶っっ対に嫌です」
「あっははー。それは僕も嫌だから大丈夫」
何がどう大丈夫なのか。
「そんな、全力で気持ち悪がられると、俺もうどうしたらいいか……」
ライカリスとリビダの会話に、身悶えし始めたビフィダは、未だに片手が裂けて薬指から後ろがぷらぷらで血塗れで真っ赤っか。
それを「綺麗に割れたね」なんて言いながら、リビダが広げてみている。
……どうもこうも、こいつらの頭が一番大丈夫ではない。
「はぁ……」
リコリスが戻ってくるまで、何ができるだろう。リコリスのために、彼女を取り戻すために、できること。
つい先ほどまではそんなこと考えもしなかったのに、今は彼女が戻ってきた時のために、その居場所を守ろうとさえ思える。
そうさせたのが目の前のこの双子だというのだから、己の頭も大概どうかしてしまったようだと、ライカリスはげんなりとため息をついた。
ライカリスは不憫系ダメ人間。
リビダは意外と気性が荒い。
ビフィダは一番ストーカー気質。
ろくな奴がいねぇな? というお話。




