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■甘い囁き


 赤茶レンガの邸宅――ローザ・ヴェール邸が視界に入った瞬間、リリーは安堵の溜め息を洩らした。

 昼間から行なわれたエディゴス湾近辺での演習は、一人の騎士がへばったために通しで夜まで続いた。街灯のない道を馬で駆けながら、リリーは舌打ちして腰をさすった。夜風が冷たくリリーの頬を切る。

(あの野郎……)

 心の中で悪態を吐く。歩くより馬に乗った方が筋肉に負担が少なかろうと思ったが、馬が駆ける度に背骨から腰にかけて鈍い痛みが走る。ほふく前進の速さを競ったり、砂浜でも足を取られることなく剣を振るえるように、重い鎧と銀のブーツを装備の上で走り回ったりしたのだ。体の節々が痛まない者の方がおかしい。

 リリーは邸宅の前で下馬した。その際、首が鳴った。痛みはなかったが、全身がだるかった。

「お帰りなさいませ」

 馬の蹄の音を聞きつけたのだろう。メイド達が一列に並んで、リリーを出迎えてくれる。彼女達に愛想を振りまく余裕もなく――いつもだって、そんなことしないが――、馬をメイドに預けると自らは一目散に家の中へ向かった。

 玄関口には執事頭であるバレッダが立っていた。彼は柔和な笑みでリリーをねぎらってくれる。

「お帰りなさいませ、リリー様。今日は遅かったですね」

「うん。騎士の一人が団長の怒りを買ってしまって……長引いた」

 バレッダは胸を張って、それからすぐにリリーへ右腕を差し出す。リリーはそれが羽織りやマントを預かる合図なんだとつい最近まで知らなかった。リリーはコートを脱いで青いマントを外し、それらを執事頭に渡す。彼はそれを綺麗に折り畳むと、一礼した。

「それはさぞかしお疲れでしょう。お食事は寝室へお運びした方がよろしいでしょうか?」

 必要以上のことを訊かれるのが、リリーは嫌いだ。それを、この執事頭は出会ってすぐに理解してくれた。半年経った今、バレッダの細やかな気配りはリリーを安心させる。

「いや、軽食を城で摂ってきたから、食事は要らない。コックには私が今から謝りに行く。……用意、してくれていたんでしょ?」

 バレッダは首を横に振った。

「そんなお気づかいは無用にございます。リリー様、いつも言っておりますが、わたくしども使用人達は主人の希望を叶えるのが役目。まあ、あのコックはへそ曲がりですからね。わたくしから伝えるより、リリー様が直に言った方がいいでしょうな。明朝にでも、一言話しかけてやって下さい。それだけで、機嫌が良くなるはずですから」

「わかった」

 リリーは微かに笑みを洩らした。この邸宅に仕えるコックは、国一番と言ってもいい腕を持っているのだが、とても偏屈な男だ。その偏屈さは国王の前でも変わらず、国王が料理に対して不満を口にした途端、コックは国王に対して料理を作らないと宣言した。普通ならば不敬罪で処罰されるところだが、ピアグレス国王はとても温和な人柄である。ならば、とコックをリリーの邸宅へ投げて寄越した。

 コックは少し、リリーと似ている。

 あまり会話が得意でなく、他人と一線を引いている。だからだろうか。リリーに対しては最初から当たりが良かった。人間、誰しも自分と似た者には親近感を覚えるものだ。コックはリリーの好き嫌いや食べる時間帯、栄養面にまで気を配って食事を準備してくれる。彼がここへ来る前の一ヶ月間、豪勢な食事ばかりを出されて内心滅入っていたリリーの心を察してくれた彼は、あっさりした庶民の食事を出してくれた。

 そんなことがあったため、自分を気遣ってくれるコックに不快な思いを抱かせたくない。決して、コックの作る物が食べたくないわけではない。演習が長引いたのが原因だ。リリーの眉間に皺が寄る。

(あの馬鹿が……)

 何度愚弄しても、怒りは収まらない。他の騎士達もリリーも、一人の脆弱な騎士のおかげでこんな時間まで演習を続けさせられたのだ。一人の失態は全員の失態。

 男だったら、泣くなと言いたかった。彼が泣いた瞬間、自分の横で騎士達を指導していた団長のこめかみに青筋が立つのを、リリーはこの目でしかと見た。

 貴族だから――お飾り騎士だから、こんなきつい訓練は免除されてしかるべき。

 そんな言い訳が通るなら、パルやモースも演習になど参加していないだろう。

 なのにその騎士ときたら、自らが名のある貴族――たしか、子爵だと言っていた。名前も喚いていたが、覚えていない――だから、こんなきつい訓練は勘弁してくれと言ったのだ。さらに、騎士団は全員訓練を受けているとは知らなかった……それなら騎士団なんかには入らなかったとまで言ってのけた。思い出すだけではらわたが煮えくり返る。

「リリー様?」

「ん? ああ。ごめん、バレッダ。私、今日はもう寝る。シャワーは寝室のを使うから、浴室の準備はしておかなくていい」

 かしこまりました、とバレッダはほっとする口調で言ってくれる。

「おやすみなさいませ、リリー様」

「おやすみ、バレッダ」

 リリーは銀のブーツを必死で引き上げて二階へ上る。ブーツを脱ぎ捨てて上がろうかとも考えたが、はしたないのでやめた。

 最初は亡き先王の愛人の好みである深紅の絨毯が階段に敷いてあったが、いつの頃からか、絨毯は淡い紫色に変わっていた。リリーの好きな色だ。リリーが頼んだわけではなかったが、何かのついでに好きな色について執事頭に訊かれた折、薄紫と答えたことがある。それから、邸の中は少しずつ様相を変えていった。邸宅からは華美なものが取り払われ、しっかりした作りの置物や最低限の物しか置かれなくなった。花瓶に飾る花一つとっても、薔薇や大ぶりの花ではなく小さな花が束ねられて上品に飾られるようになった。

 リリーのために執事頭達が心を砕いてくれたのだ。その結果が、今現在の邸宅の居心地良さに繋がっている。

 リリーはようやく寝室の前に辿り着いた。鍵を開けると勢いよくドアノブを回し、用心深く鍵をかける。そして、ベッドへ倒れ込んだ。弾力のあるベッドのスプリングが音を立てて軋んだ。間接照明が灯った部屋は暖かい。

「遅かったな」

 リリーはベッドに寝そべったまま、頭を暖炉の方へ向ける。本来の姿をしたスティレットが暖炉に薪をくべていた。

「…………また、ここにいたのか」

 嫌そうに顔を顰める。リリーの表情を見たスティレットは首を竦めた。さらさらと彼の銀髪が流れる。暖炉から弾ける火の粉が、スティレットの見事な銀髪をより美しく見せた。

「心外だな。帰宅した時に寝室が寒いことほど嫌なことはないだろうから、こうして暖炉を見張ってやっていたというのに」

 スティレットは従者として部屋を与えられていたが、ほとんどリリーの部屋に入り浸っていた。

 彼は城の使用人達に引っ張り回されるのを嫌がって、リリーが訓練を受けている間は一人どこかに行っていることが多い。こうして部屋に大人しくしていることは稀だった。いつもリリーより遅く帰って来ることがままある。

 ……まあ、今日に限ってはリリーの帰りがべらぼうに遅かったから、こうして部屋で待っていたのかもしれない。

 スティレットは、リリーの部屋の中ではのびのびと本来の姿で具現化している。

 リリーは決して、寝室に使用人をいれない。出かける時は鍵をかけ、マスターキーもリリーが持ち歩くという念の入れようだった。使用人達を信じていないわけではないが、手放しで信用も出来ない。

 本音としては、信じたい。しかし、それに心の奥にいるもう一人の自分が否を唱える。信用した者に裏切られて涙する者達を、リリーはこれまでたくさん見てきた。

「魔王軍が侵攻を開始したらしいな」

 いきなり、スティレットが言った。

「うん、そうみたい」

 リリーは素直に答える。城内ではその話で持ち切りだった。リリーは答えながら、鎧とブーツを脱いだ。随分体が軽くなる。

 魔王軍は半年かけて軍隊を編成したようで、船も格段に今までより大きく、数が多いという。城壁の上に控えているドラム番からは、そう聞いた。

 スティレットは、くつりと嗤った。リリーは枕から顔を上げてスティレットを見た。

「魔王は躍起になっているだろうな。ほんのお遊び程度の戦争如きで、主要魔族が削れたんだから」

「……私は、今回も狙われるんだね」

 もちろん、とスティレットは言った。

「むしろ、魔族達の目的はリリーだろ」

 少しだけスティレットの声が強張っている気がした。そうか、とリリーは言って仰向けに転がる。天蓋を覆う白い布が妙に目につく。

「今回はもしかすると……いや、どうだかな」

 含みのある言い方に、リリーは引っ掛かりを覚えた。

「どうしたの?」

「……何でもない。杞憂だ。気に留めることでもない」

 そう言って、スティレットはベッドに腰かける。彼はリリーの頭を撫でた。温度のない彼の手が、気持ち良いと感じてしまう。

 この部屋に用意されている薪は湿っていて燃えにくいな、とスティレットはぶつぶつ一人ごちる。

「湿っていようが、火が燃えればいい」

 ぼそりと呟くと、スティレットは盛大に顔を顰めた。

「馬鹿か。それでは寒いだろ」

 リリーは暖炉に明々と燃え盛る炎を見つめる。冬の気配が近づいてきているにも関わらず、この部屋は暖かい。スティレットが湿った薪を使って懸命に火を大きくしてくれたおかげだ。彼は生身の体ではないから、寒くないだろう。なのに、火を燃やしてくれた。リリーのために。

 こうしてスティレットといるのが当たり前になってきているが、この状況がいつまで続くかなんて、リリーにはわからない。ふとした瞬間、スティレットは消えてしまうかもしれない。プンハベウロ城にある書物庫で、魂だけになった者の行く末などが書かれた書物を読み漁ったりしたが、そのどれもが最終的に魂は消滅すると記述されていた。

 魔族にそれは当てはまらないかもしれない。しかし、それを見た時、リリーは目の前が暗くなった。

(スティレットが、いなくなる……)

 考えられなかった。

 出会って半年。一定の距離も何も、二人には最初からなく。常に共にあった。

 スティレットと出会って、リリーの人生は色彩を変えた。良い方に変わったのかは微妙だが、前に比べて自分が向上した気がする。リリーはぐっと口を引き結んだ。

「ああ、私も魔術が使えたらな……。そしたら、魔族にももう少し太刀打ち出来るかも……」

 わざと全く違うことを口にする。それを聞いたスティレットは小馬鹿にした眼差しを送ってくる。

「魔術が使えたところで、魔族相手じゃどうにもならんぞ」

 魔術という話題を出したのが悪かった。スティレットによる魔法の講義が始まる。リリーは目を擦りながら、その講義を聴いた。

 魔法の原理は不明だ。それはリリーも知っていた。魔族や精霊の内にある力が主になっていると思われる。感覚で使うのだそうだ。

「下級魔族は、ほぼ魔力がないために魔術師にやられたりすることもあるんだ」

 スティレットは、そう付け足した。リリーは思わず眠気が吹っ飛んだ。え、という顔をしてスティレットの目を見る。スティレットの菫色をした瞳がだるそうに瞬く。

「人間は、魔族だったら皆が皆魔法を使えると思い込んでいるが、実際は違う。高位にある魔族しか魔法は使えない。お前達だって、剣の腕が立つ者と全く使えない者がいるだろう。それと同じだ」

 そう言われてみれば、戦場で会った魔族の大半は魔法を放ってこなかったことを思い出した。あの者達は魔法を出し惜しみしているわけでなく、使えなかったのだ。

「リリーも知っていると思うが、人の使う魔術は大気に漂っている元素を魔道具に込めてそれを媒体として揮うものだ。魔法とは似ていても同じじゃない。魔術は本来行使出来ない力を使う。そのため体力も気力も半端なく消耗するから、あまり使い手がいないんだ」

 スティレットの講義を傍聴したリリーは、ぽつりと言う。

「あんたって、パーサジェット大陸にいる時、ずっと眠ってるとか言ってたわりには物知りだね」

「お前、結構ズケズケと物を言うな」

 スティレットの表情が引き攣っている。伊達に七百年生きてない、と彼は不満を口にした。

「――ねえ」

 リリーは唇を震わせる。彼女はごろんと転がってうつ伏せになった。

「どうして、魔族は人間の領土を脅かそうとするの?」

 スティレットは、真剣な面持ちのリリーを見つめた。

「あんたの話――魔法の話を聞いて改めて思った。魔族は人間より圧倒的に強い。私達人間を全滅させて世界全土を支配してしまえばいいのに、それをしない理由は?」

 リリーは常々不思議に思っていた。魔族は決してピアグレス国を崩壊させたりはしない。絶望した人間達を見ると、笑いながら去って行くのだ。また十数年経ったら来るからなと捨て台詞を残して。

「知りたいか?」

 歌うようにスティレットは唇を開く。甘い毒が侵蝕していく。リリーは頷いた。スティレットは足を高く組んで、頬杖をついた。

 過去、何度もピアグレス国を筆頭に、人々は人間と魔族が互いに干渉しないよう盟約を打ち立てようとした。繰り返し魔王は持ちかけられた盟約を、何度か了承したという。しかし、いつも魔族達は盟約締結直前になって必ず戦争を起こすのだ。

 その理由が今、上級魔族であるスティレットの口から明かされようとしている。

 リリーは思わず佇まいを直した。ベッドの上で背筋を伸ばして座る。対してスティレットは詰襟のボタンを外してくつろぐ。少しの沈黙のあと、スティレットは口火を切った。

「魔族は長すぎる己の生に退屈しきっている」

 スティレットの表情は垣間見ることが不可能だ。間接照明の光と暖炉の炎が、ちらちらと彼の口許だけを照らす。薄い微笑からは温かみが感じられない。酷く冷めた目をした魔族は、自らの髪をいじる。

「豊かな土壌があるパーサジェット大陸は食物に困ることもなければ、旱魃に困ることもない。適度に雨が降るし。濃い瘴気は常に蔓延しているが、大陸に自生する植物はとても強い生命力を持っているため、その毒を浄化する。魔族自体も強靭な体を持っているから多少の毒なんて全く効果がない。……魔族からのちょっかいを恐れ、他国からの侵略も恐れるこのピアグレス国よりもよほど、平和なところだ」

「じゃあ、どうして。人間の国を攻撃するの?」

「言ったろう。退屈なんだ」

 短く、スティレットは言った。リリーは頭を鈍器で打たれたような感覚に陥る。スティレットの目はガラス玉のように何も映していない。目の前にいるはずのリリーさえ、映っていない。

「戦争が最高の暇つぶし。だから、暇になったらピアグレス国に攻め込む」

「……なんで、ピアグレス国に? 他の国でもいいじゃないか」

 リリーは俯き加減に小声で囁く。すると、スティレットはそれを一笑にふした。

「理由なんてない。ただ……そうだな、強いて言うなら一番パーサジェット大陸に近かったから、か」

「そんな理由?」

 自然、拳を固く握りしめる。気の遠くなるような昔から絶えず続くピアグレス国と魔大陸との戦争の裏には、何か大きな陰謀が隠れていると思っていた。それがあっさりと打ち砕かれ、リリーは悔しさに歯軋りする。

 退屈だから。

 それを理由にし、ピアグレス国へ魔族達はやって来るのか。彼らの退屈しのぎのために、一体どれだけの人間が死んだだろう。

 リリーは、自分自身を正義感溢れる人間だと思ったことはない。だが――。

「あんたも? あんたも、そういう理由で将軍として戦っていたの?」

「そうだな」

 ショックだった。リリーの目に涙が浮かぶ。

 魔族に殺された家族が泣いているのを見たことがある。あの時は、何も感じなかった。他人のことより、自分が生きることで精いっぱいで、余裕もなかった。しかし、もしリリーが見たのが、スティレットによって殺された者の遺族だったら……。リリーは、彼が他の者に恨まれることが辛いと思った。自身が憎まれるよりも、辛いと思った。

「だが、俺はそれ以上に楽しいものを見つけた」

 魔族は、喉の奥で低く笑う。彼の言葉にリリーは首を捻った。

 スティレットは素早い動作でリリーの手首を掴んだ。リリーは瞠目した。

「わからんか、お前だ」

 かっとリリーの頬に朱が差した。

「なっ!」

 馬鹿なことを言うなと反論しようとしたら、視界が反転する。リリーの目前にはスティレットの顔があった。リリーはいきなりのことに目を白黒させる。スティレットはいつもと全く変わらない飄々とした表情でリリーを見下ろしている。

 スティレットの下から抜け出そうにも、彼がリリーの両手首を拘束しているために逃れられない。リリーの首筋にスティレットの舌が這う。その甘美な動きにリリーの体は敏感に反応した。これ以上ないくらいリリーの肌が赤まった。ふいっと彼から視線を外す。

「リリー」

 優しく名前を呼ばれる。柔らかく顎を掴まれて、スティレットの方を向かされた。こうして見つめ合ったことは、何度かあった。だが、迫力ある瞳をしたスティレットを見たのは初めてで。いつも気だるげで、そうでければ酷薄さが滲んだ目をした彼が、今は真剣な双眸でリリーだけを見つめている。

 思わず見惚れた。

 リリーの顎を掴んでいたスティレットの指が下って、頤に触れる。その動きにリリーの全神経が集中する。彼の唇が寄せられた。リリーは迫りくる圧巻の美貌を前にして、そっと目を閉じた。

 軽く唇と唇が触れ合う。じんと何かがリリーの中に入ってくる。そして、それが肥料となってリリーの心に何かが芽生える。スティレットの唇はひんやりとしている。それは前に抱きしめられた時に感じた腕の冷たさと一緒だった。

 なのに、温かい。そう感じてしまう自分が不思議だった。

 恋だとか、愛だとか。リリーにはわからなかった。家族がくれるという無償の愛、友人がくれるという友情、そして恋焦がれる相手がくれる深い愛。どれも、生き残ることに必死なリリーにとっては遠い世界のもので、決して手に入らないものだった。

 心が震え、涙が滲んだ。

 スティレットと合わせた唇と唇の間に、塩辛い涙が流れ込んだ。リリーの睫毛についた涙の粒を、スティレットが払ってくれた。リリーはヒヤシンス色をした瞳を開ける。目の前には、少し戸惑ったような顔をしたスティレットがいた。

「ど……して……」

「お前が初めてだった」

「え?」

 スティレットはリリーの頭を撫でる。

「俺は……ピアグレス国に戦争を仕掛けに行く時は基本的に前線に出ずに後方から指示を出していたんだが。あの時――お前と出会った時は、ほんの気まぐれに前線に参加してみようと思い立った。人間との戦争には魔王も参加しないから、彼を守る必要もない。暇つぶしに人でも殺すか、と」

 物騒なことを言いながらスティレットは、ちゅっと軽い音を立ててキスをして来た。リリーの思考は、だいぶぼんやりしていた。彼の行為に否を唱えることも出来ない。

「俺に向かってくる者は皆、『死ぬかも……』とか『いっそ一思いに殺してくれ』とかいう絶望的な考えが透けて見えていた。まあ、魔王軍第一将軍を前にしてるんだから仕方ないと言えば仕方ないかもしれんが。そんな中、お前は」

 スティレットはリリーの前髪を掻き上げた。シャイニーバイオレットの光彩を持つ瞳とヒヤシンス色の瞳が重なる。

「お前だけは、生きたいと。俺を前にして、生への渇望を全身全霊で醸し出していた。ハッ、柄にもなく惚けたさ」

 ああ、だからあの時――リリーがスティレットを倒した時、彼はろくに携えた剣で戦おうとしなかったのか、とリリーは納得した。スティレット程の魔族がリリーのような少女に殺されるなんて普通なら有り得ない。魔法も使えるのだから、それで応戦することも可能だっただろうに、彼はそうしなかった。

「生きたい、と真実願うお前に思わず魅入ってしまった。だから、肉体と魂が切り離された時、迷わずリリーの体に入ったんだ」

 リリーは弱い力でスティレットの胸を押し返して上体を起こすと顔を背ける。

「また嘘を吐いて……」

 そう言って濁そうとするが、スティレットは逃がしてくれない。彼は手首を握ると再びリリーをベッドに沈めた。濃密な空気に、リリーの胸が噎せ返る。深く口づけられ、自分がとてもいやらしいものになってしまった気がした。リリーは体を震わせた。

 スティレットの冷たい舌。乱れない吐息。熱い吐息はリリーのもの。

「顔が上気してるぞ」

 くすりと笑うスティレットにリリーは卒倒しそうだった。

「ず……るい……」

 リリーは潤んだ瞳でスティレットを睨んだ。

「何が……」

 片眉を上げて見せるスティレットは余裕ありげである。

「スティレットは、赤くなって、ない」

「馬鹿……俺は肉体を所有していないんだから、当たり前だろ。それでなくとも魔族は体温が低いものだ」

 甘い雰囲気がリリーとスティレットの間に流れている。そこへけたたましいノック音が響いた。スティレットは不愉快そうに目を細めてリリーに覆いかぶさっていた体を退ける。ようやく解放されたリリーは俯いた。心臓がうるさい。

 ノックは止まない。それは急を知らせるものに違いなかった。スティレットは顔に手を当てて偽りの姿を取る。リリーとしては姿を消して欲しいと思ったが、そんなことを言っている暇はない。ノック音は段々激しさを強める。

「……はい」

 乱れた服を整えつつ、リリーは蚊の鳴くような声で答えて鍵を開けた。途端、ドアは壊れんばかりに勢いつけて開いた。ドアの向こうには、顔面蒼白となった執事頭・バレッダと騎士団の仲間・モースの姿があった。

「リリー様、魔族です! 魔族の大軍が上陸致しました!」

「計算していたより早く魔王軍の船がエディゴス湾に到着したんだ。急いで身支度してくれ。皆、もうプンハベウロ城に集まってる!」



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