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■居場所


「おい、リリー。お前も明日、夕方まで半休だろ?」

 夕闇が迫る中、邸宅に帰ろうとしていたリリーはパルに声をかけられて振り向きざまに頷く。

 騎士達は週に二度、休息の日が与えられている。

 そのうちの一日は完全な休み――完休――で厳しい訓練もその日ばかりはない。ただ、自主的に演習を行う者もいるが、そんな者は稀だ。もう一日は夕方までの休み――半


休――だ。夕方からは通常通り訓練が行なわれるが、その前は自由行動を取れる。

 どの日が休みかは騎士によってバラバラだが、新人は同じ日に休みを与えられる。市街の見回りやその他の任務がないため、新人騎士達の休息の日は基本的にかぶる。

 パルやモースが騎士団に入ったのはリリーが入団するちょっと前だったため、彼らとリリーは同期と言える。だから、休息の日もほとんど同じだった。

「俺達、明日休みの奴らと今夜酒場に行くんだけど……お前も行かねえ? パーっと気晴らしにさ」

 並びの良い白い歯を見せて、パルは言った。その顔に下心はない。彼の横にいるモースも同意を示して頷く。しかし、リリーは首を横に振った。パルは拍子抜けした顔で口を尖らせる。

「付き合いわりいなあ」

「ごめん、団体行動はちょっと」

「まあいいさ。気が向いたら来いよ。『グリーン』って酒場にいるから」

「……わかった」

 そうは答えたものの、行く気はさらさらなかった。騎士の中にも、一般兵と同じようにリリーに反感を持っている者もいる。パル達は好意的だが、酒場に来る他の者達がリリーをよく思っているとは限らない。酒場にリリーが行くことによって、気分を害する者もいるだろう。あからさまに嫌な顔をされればリリーだって傷付く。

 城の中で、リリーは孤独だった。ただ、魔族を倒したという称号だけが異様に浮いていた。

 リリーはパル達に別れを告げて帰路に着く。爪の形をした月が空に寂しく浮かんでいた。

『どうして、いつも一人でいようとする』

 理由を問うスティレットにリリーは「他人が信じられないから」と、坦々とした答えを呈示した。

 結局、酒場に足を運ぶことはなかった。


 ◆


 その翌日。

 リリーは必要最低限のものを購入するために城下町へ繰り出した。使用人は自分達が用意すると申し出てくれたが、丁重に断った。

 リリーが買いたかったものを彼らに頼むのは気が引ける。皮紙に殴り書きしたメモをポケットに突っ込んで、彼女はは邸宅を出た。

 ホース・ブリッジという巨大な陸橋が、城下町には架けられている。その陸橋の両側には、建物が所狭しと建ち並んでおり、一見普通の街並みだ。

 リリーは陸橋の下まで迷うことなく歩いた。そして、路地に面した小さな建物の扉の前で立ち止まる。周囲の人々の中で、リリーに注視する者はいない。邸宅を出る時は簡素ながらも仕立てのいい服を着込んでいたものの、リリーは扉前に到着するや否や、なめした皮で作った袋の中からボロボロの外套を取り出して全身をすっぽりと覆った。そして、扉に手をかける。

『これは……』

 スティレットが感嘆の声を上げる。

 リリーは黙々と石段を下った。地下からは微かに人の声がする。真っ暗闇の中、ちらちらと明かりが漏れている。

『地下都市か!』

『うん。都市ってほど大きくないけど、闇市場みたいなもんかな』

 巨大な橋げたは中が空洞になっていた。天井は低く造られており、慣れないうちは光も射さず、風もない圧迫感で胸が詰まる。いつ頃造られたかは定かでないが、もとは城下町に溢れ返った浮浪民の住居スペース兼地下倉庫として設計されたという。

 窓一つない穴倉では、ランプが必需品だ。リリーは石段を降りてすぐ脇の露店でランプと火付け石を購入した。

 露店の主は愛想もなければ目つきが悪い。地上でこのような者がいれば、即刻不審人物としてマークされるに違いない。地下には、ならず者や魔術師、犯罪者や貧困層の人々でごった返している。誰もが陰惨な雰囲気を醸し出し、隙あらば金品を盗んでやろうと目論んでいる者がひしめいている。

 リリーがボロボロの外套をかぶったのは、地下では高貴な格好をしていると悪目立ちしてしまうためだ。金目のものを持っていると判断されれば、身ぐるみ剥がされてしまう。ならず者と戦うことなど面倒以外の何でもない。最初から目をつけられないように仕立てのいい服を外套の下に隠してしまうのが得策だ。

 毒分別粉や爆薬、暗殺具。それに非合法のクスリ。闇市場には何でも揃っている。通常の価格よりも吊り上げて販売している店が大半を占めるが、リリーには馴染みの店があるため、ぼったくられる心配は無用だった。

 馴染みの店で、毒分別粉と手榴弾、丈夫なロープ。そして店主一押しの短剣を買った。

 リリーは買ったばかりの短剣の刃を撫でた。鈍色に光る刃はランプの光を受けて重く光る。

「……見たことがない短剣だね」

「おう。それはなあ、おれが死にもの狂いで魔族から奪った短剣なんだぞ」

 ぴくりとリリーの目が変わる。スティレットに会ってからというもの、魔族という単語に過敏に反応してしまう。店主はキセルに刻みタバコを詰めながら、自慢げに話を続ける。

「両刃が使える短剣ってだけでも珍しいのに、湾曲になったラインがまた何とも肉をよく抉れそうでいい。ほら、握り手は細いが片側に鍔がついてるだろ? 柄頭まで延びてやがるからナックル・ガードも兼ねてる。素晴らしい一品だ」

「そんな良いもの、こんなはした金で売っていいの?」

「いいさぁ、リリーが久々に帰って来てくれたんだからな」

 リリーが訊くと、店主は歯の抜けたあばた面で答えた。ありがとう、とリリーは礼を言うと看板も出ていない店を出る。

 じめじめした空気に汚染された人々、汚い路地。

 ――ここが、リリーの居場所。

 と、いきなりスティレットが具現化した。彼は羽織っていた外套のフードで美しい銀髪を隠す。

「ちょっと……」

 断りもなく公衆の面前で具現化したスティレットに、リリーは焦った。

 スティレットは飄々とした顔で「安心しろ。誰も見ていない」と、クスリや狂気に取り憑かれた人々を指差した。彼らはうつろな目で何がおかしいのか手を叩いて笑っている。露店の番をしている人々も他人に興味は示さず、自分達が売っているものを拭いたり値札を作ったり、キセルをふかしている者ばかりだ。

 誰もリリー達を見ていない。それが今のリリーには嬉しかった。最近は城にいても宮殿にいても家にいても、常に誰かから注目されていた。

「……嬉しそうだな」

「うん」

 リリーは短く答える。

「ここでは皆、自分が生きるために存在してる」

 変な矜持や意地など何もない。まっさらなまでの生。死と隣り合わせにあるからこその躍動感。策略渦巻く高い階級の人々とは違う、潔いまでの殺意や化かし合い。

 リリーは久々に肩の力を抜いて笑った。


 ◆


 買い出しが終わったリリーは地下から表通りに出た。地上へ続く扉を開ける際、誰にも見られてはならないという決まりがある。リリーは用心深く人の気配を読みながら扉を開いた。眩しい太陽がリリーの網膜を焼く。朝に出かけたので、まだ昼過ぎになったばかりだ。太陽は天の頂上にあった。

 スティレットはいつの間にか銀髪からブラックオニキスの髪に変えていた。彼のごとく自在に姿かたちを変えることが出来たら誰にも知られることなく国を抜けることだって出来るのに、と思う。そうすることが可能ならば、どんなにいいだろう。

 リリーがそんな羨望を込めた眼差しをスティレットへ送っていると、スティレットは肩を竦めた。

「なんだ。この格好はおかしいか?」

「ううん」

 慌ててリリーは否定した。スティレットは「ならいい」と簡素に言うと、目にかかる前髪を鬱陶しげに払う。

 誰もが美しいスティレットを振り返る。

「あんたのこと、皆が見てるよ」

 リリーがぽつりと口にすれば、スティレットは皮肉げに嗤った。

「別に、赤の他人に興味はない」

 スティレットは事もなげに一蹴した。ここが、リリーとスティレットの違いである。リリーは人を怖がっているが、スティレットは関心がないだけだ。

「それにしても」

 ちらりとスティレットは周囲にいる女達を見回してリリーを見る。

「あらためて女達を見て思ったが、お前は本当に飾り気がないな」

 さらりとリリーの髪に触れるスティレットにムッとする。

「自らを飾り立てることなど、興味がない。そこらのお姫様達と同じにするな」

「だが、せっかく髪を伸ばしているんだ。髪飾りの一つくらいすればいい」

 リリーを一端の女の子扱いするスティレットに、ムッとする。

 リリーは騎士だ。望んだ地位でなくともそれは女として身を飾ることなど許されない地位である。

 もっとも、騎士となる前からリリーは自分の身を飾ることなど皆無だったが。

 装飾品を買うくらいなら、生きていくことに必要な食料や武器を購入することを選ぶ。流浪いの旅をしている最中にリリー以外にも旅をしている女はいたが、彼女達はリリーと人種が違った。皆、砂漠を行く時でも化粧を欠かさなかったし、いつも身綺麗にしていた。たまたま女達と一緒に行動を共しなければならない時は面倒臭くてたまらなかった。まず、彼女達の化粧に時間をとられる。男達から声をかけられれば愛想良く返事をして、その場で立ち話をする。

 ――戦うことなど出来ない女は、こうするしかないの。男に媚びへつらうことしか出来ない。

 誰だったか忘れたが、流浪の旅人の女に言われたことがある。彼女は悲しげに睫毛を伏せて泣いた。女は弱い。悔しい、と。彼女の涙が、リリーからますますアクセサリーなどの装飾品への興味を喪失させた。身を飾り立てるのは、己の弱さを隠すためだ。

 リリーはぐっと拳を握ってスティレットに反論を試みる。

「だから、私は――」

「待っていろ」

 勇んで言葉を紡ごうとするリリーの頭に手を置き、スティレットは颯爽と近くの露店に足を進めた。慌ててリリーは彼の後を追う。そして、少し距離をとってスティレットを動向を見守った。とぎれとぎれに聞こえてくる会話は、どれもスティレットらしくない甘いものだった。

「領主の娘にプレゼントする」やら、「このような素晴らしいアクセサリーを作れるのも、あなたご自身が美しいからだ」やら、歯の浮く科白を吐いていた。どの口で、そんな美辞麗句が出てくるのだろうか。いつも他人を見下した言い方をするスティレットにはおおよそ不釣り合いな会話がリリーの耳をくすぐる。露店の女主人は、スティレットの言葉と笑顔に骨抜きになっている。目がうつろだ。

(こうやって、魔族は他者を騙すのか)

 リリーはスティレットに騙されないようにしなければと気を引き締めた。

 巧みな話術を使った華やかな言葉の応酬の末、女主人はスティレットの手に何かを握らせる。彼女の手をスティレットは包み込み、何やら囁いた。女主人は真っ赤になって顔の前で手を振っている。

 少しして、スティレットが満足げにリリーのところへ来た。女主人が興味ありげにこちらを窺っているのをリリーは目撃してしまった。女主人はニヤニヤと笑っている。彼女の頬はまだ微かに赤かった。

「手を出せ」

「嫌」

 つっぱねるリリーを予期していたのか、スティレットは溜め息一つ吐いて強引にリリーの髪を梳かす。首を振って逃れようとするリリーだったが、「動くな、めんどくさい」と低く言われて、動くのを止めた。スティレットはリリーの髪を一つに結い上げると髪飾りをつけた。彼はリリーの両肩に手を乗せ、くるりと反転させた。ガラス窓に映ったリリーの顔にスティレットは笑いかけた。

「ほら見ろ。似合うじゃないか」

「…………」

 リリーは少し顔を傾けて、右側に寄せられた髪を止めている美しい乳白色の石がついた髪飾りに触れる。繊細な鳥をモチーフにしているようだった。

 心が波立つ。

「――あんた金持ってないはずでしょ。どうやってもらったの?」

 お礼の言葉は口に出ない。とても気恥ずかしかった。少しでも気を抜けば、露店の女主人のように顔を真っ赤にしてしまいそうだ。スティレットはにやりと笑った。

「野暮な奴だな。代金のことなんて訊かなくていい。男からの贈り物は素直に受け取っておけ」


 ◆


 半月が空に顔を出す時刻。

 プンハベウロ城の一角にある食堂は大賑わいだった。王立軍と王宮騎士団の合同訓練が遅くまであったのだ。

 皆、死ぬほどしごかれてヘトヘトで――もちろん半休をもらっていたリリーも参加していたため例外でない――とてもじゃないが、そのまま邸宅へ帰るまで食事を摂るのを我慢することは無理だった。

 食堂の料理人達が慌ただしく動き回っている調理場の前に、大皿がいくつも並んでいる。入り口の端には白い皿が積んであり、これまた慌ただしく配膳係の娘達がそれを補充していく。しかし、その補充した皿もすぐになくなってしまう。これだけ兵士がいるのだから、当たり前だ。飲み物は樽で用意されており、全て自分で取りに行かなければならなかった。配膳係の人数の十倍の兵士が食堂には詰めかけている。そんな中、配膳係が注文を取る余裕などないのが一目瞭然のため、文句を言う者は誰もいない。

 リリーは強引に兵達の合間を割って入り、骨付きの肉とたくさんの香辛料で味付けされた野菜炒めを手早く皿に盛って、一旦人垣から脱出する。額に伝う汗を手の甲で拭った。長くあの中にいれば、押し合いに弾かれて折角得た食事をこぼしてしまうことになり兼ねない。

(あとは、パンと……飲み物を……)

 ぐっと歯を食いしばって、リリーは再び熱気の塊の中へ飛び込んだ。手を伸ばしてもぎ取った、出来立ての香ばしい匂いがする大きなパンを二つ口に咥え、右手には大皿、左手にはジョッキに注いだ赤いベリージュースを持ったリリーは、大部屋全体を見回した。

 普段ならだだっ広い食堂が、今は狭く感じる。たくさんあるテーブルはどれも兵士達で埋まっており、リリーはあからさまに顔をしかめる。

『……くそ。生身の体であれば、出来たてのベリージュースが飲めるのに』

 スティレットは、そういって盛大な溜め息を吐く。ベリージュースはピアグレス国の特産品で、赤い宝石とも呼ばれている。ワインのような熟成した芳しい香りと深い味わいがくせになって、好む者が多い。

『魔大陸にもベリージュースってあるんだね』

『ああ。ピアグレス国に攻め込んだ時の戦利品だがな。魔大陸にはベリー自体がないから。……十年も経ったベリージュースは酸味が増して飲めたものではないんだ。リリー、俺はお前が心底うらやましい。いつも甘いベリージュースがすぐ飲めるお前が』

『ああ、そう』

 リリーは肩を竦めた。

「おーい、リリー! こっちこっち」

 雑然とした兵士達の会話に紛れて、聴き慣れた声がした。声のした方を見れば、そこにはパルとモースがいた。

 リリーは颯爽とそっちに足を向けた。一人で食べたかったが、見渡す限りのテーブルは兵士達で埋まっている。リリーはパルとモースが陣取っている窓際の丸テーブルについた。

 パル達はこうなることを予想していたらしく、訓練が終わるや否や脱兎の如くここへ来たという。

「ほら、美しい月も見えるし、中央に比べると熱気もあんまり感じないだろう?」

 モースの言葉にリリーは頷いたものの、内心席につけるならどこでも良いと思っていた。そんなリリーの思考を読んだのか、スティレットは『情緒という言葉をお前は知った方がいい』と偉そうに言ってきた。

 リリーは無言で骨付き肉を引き千切る。格式ばった食事はここには存在しない。リリーも貴族の子息達も身分など関係なく、皆無作法に食事を掻き込んでいる。ようやく腹が膨れたところで、パルは発酵酒を一気に呷った。

「しっかし、お前が国王から邸宅貰ったって聞いて安心したぜ」

 右肩を乗り出してパルは快活に笑った。

「そう?」

「うん。ここは男所帯だからね。女の兵士もいないことはないけど、圧倒的に数が少ない。城に駐屯するのは苦痛だろうって話してたんだ」

 モースの言葉にパルはうんうんと頷く。そう言ってくれるのはこの男達ぐらいだ。皆、どうしてリリーだけがあんな破格の待遇を受けるんだ、とやっかんでいる。

「本当、良かった」

 上品に茶を飲む鋼色の髪を持つモースは、アリービーデ公爵子息に相応しい立ち振る舞いと言葉を使う。彼どんなにが野蛮な食べ方をしても、本質から流れる高貴さが滲み出ているために彼自身が野蛮に見えることは決してない。モースの生家であるアリービーデ家はその名が示すとおり、アリービーデ宮殿を国王に献上した一族である。王族を凌ぐ財を持っているのではと危惧されている程、強大な力を持つ一家。それもあって、彼は騎士団の中でも一目置かれていた。彼に気に入られたいと思う者達は多いのだが、モースはパルやリリー以外を自分に近付けようとしない。モースは人々の媚びやゴマすりに辟易しているのだとパルがこっそり教えてくれたことがある。一躍英雄と呼ばれるようになって、見え透いた微笑やら何やらを体面に貼り付けた人々に辟易させられているリリーは、彼に同情していた。

 モースだけでなく、リリーの前で発酵酒を呷っているパルもロンパッセ伯爵という資産家の末っ子だ。ロンパッセ伯爵はプンハベウロには領土を持っていないものの、ここからそう遠くない土地に広大な領土を有しており、パルとお近づきになろうとするメイド達は少なくない。末っ子だと言っても、パルは父親である伯爵の一番のお気に入りだ。女達の間では、領土のほとんどが彼に与えられる予定らしいと囁かれていた。

 このプンハベウロ城に勤めている娘達の大半は玉の輿を狙っている。女兵士だって、夢は結婚除隊をと思っている者が多い。彼女達にとって、パルやモースは恰好の獲物だった。

「お前以外の女は下働きとか除いてみーんな自分の家に帰るからな。一応、これでも心配してたんだぞ」

 パルの悪意なき笑顔に微笑み返す。

 お金に困っておらず、身分にあまり頓着していない者達。真っ先にリリーを受け入れてくれた二人。

 中流階級の者のうち、ほとんどがリリーを快く思っていない。下層から自分達を飛び越えて地位と名声を得たリリーを彼らは受け入れたくないのだ。自分達は男でリリーは女。彼らのプライドがリリーを受け入れることを阻んでいる。しかも、上流階級に身を置くパルやモースがリリーと仲良くしている。それがまた、リリーに対する兵達の憎悪を膨らませる原因となっていた。

「なんでアイツがあの方々と一緒に食事を摂るんだ……」

「身分をわきまえろって感じだな」

「大体、ほんとうに魔族を倒したのかも怪しい」

「男女が」

 耳にザラザラと入って来る雑音を、リリーは努めて聞こえないふりをする。

 パルとモースの表情が硬くなる。彼らの耳にもリリーの悪口が聞こえているのだ。黙ってベリージュースを飲んでいる間にも、悪口は肥大していく。

「あの身長も女らしくないよなぁ」

「ああ。体格も骨ばってるし、女らしい丸みもない。肌だって、汚らしく焼けてるし」

「絶望的だ」

 そこかしこから残酷な忍び笑いが上がる。リリーは嘆息した。聞き飽きた言葉ばかりだ。真新しい悪口が一つもない。低能ばかりだと冷めた心でリリーは兵士達が喋ることを流していた。

 堪忍袋の緒が切れたのか、パル達は立ち上がって抗議しようとする。それをリリーは止めた。リリーは無表情で首を横に振った。文句を言えば、彼らはつけ上がる。増長させるくらいなら、黙っていた方がましだ。リリーの意図が伝わったのだろう。モースはパルの肩をぐっと押さえて、自らも浮かした腰を落ち着けた。

 その時、リリーの後ろを通ろうとした兵士がリリーの髪を思い切り引っ張った。リリーも驚いて息を呑み、半腰になる。

「おやおや、かわいい髪飾りだな」

 兵士は蔑視をリリーに向ける。彼はたしか、ピアグレス国有数の貴族の息子だったと思う。リリーはあまり自分に関わりのない者のことは把握していなかった。親交がないのに他人を知ることなど、面倒くさい以外の何でもない。

 貴族達は、二つに分類出来る。下層の者に惜しみなく優しさを与えることが出来る者と、自分より下層の者が目立つことを我慢出来ない者。前者はパル達で、後者は今リリーの髪を引っ張っている兵士だ。

 兵士は強引に髪飾りを引き千切った。頭皮に痛みが走る。リリーの髪の毛が縮れた。

 パル達は今度こそ勢いよく立ち上がった。

「スピア……お前というヤツは……!」

 パルが兵士の胸倉を掴む。スピアと呼ばれた兵士は嘲笑を浮かべる。

「ボクは親切で髪飾りを取って上げたんだ。こんなもの、英雄には要らんだろう。女じゃないんだから」

「貴様……。エディゴス侯爵の子息だからと言って、調子に乗るんじゃない。この城から追い出されたいか」

 本気の目をしてモースが言った。いつもゆったりしている彼が鋭く睨むところをリリーは初めて目撃した。微かにスピアの顔に動揺が走る。

「いや……だなあ、ちょっとしたジョークじゃないか。それくらい笑い飛ばすのがボクらの世界の常識だろ?」

 ボクらの常識。それは貴族の常識。

 冗談、と薄っすらリリーは笑んだ。

 スピアが言い訳を始めると同時にリリーは大きくイスを引いて席を立った。聞き耳を立てていた食堂の人々が一斉に沈黙する。空気が張り詰める。リリーはスピアが持っていた髪飾りをぶんどった。そして、鼻に皺を寄せて醜悪な顔を形成する。

「あんたみたいな汚い人間が、私の持ち物に触れるな!」

 食堂全体が凍りつく。皆、リリーが怒鳴ったのをはじめて見たのだ。まだ野菜炒めが食べかけだったが、不快感を露わにして場を後にした。

 食堂を出て人気のない場所まで来た時、具現化したスティレットがリリーの手首を掴む。ブラックオニキスの色彩が目に鮮やかだ。

「離せ」

 リリーの声に覇気がない。

「珍しいな。お前があんなに感情を剥き出しにす――」

 俯いた彼女の顎を上向かせながら、愉快そうに笑っていたスティレットの目が点になった。

 リリーは泣いていた。絶えず頬に伝う涙に触れ、彼女は表情を歪ませる。リリーは涙を拭ってスティレットを見た。スティレットの目が冴え冴えといびつに光る。彼が踵を返して食堂に行こうとするのを、リリーは制止した。リリーの周りには血気盛んな者が多すぎる。いつも彼らの行動を止めなければならないリリーの身にもなって欲しい。

「止めるな」

「嫌だ。止めないとあんた……悪口言った人達殺す気でしょう」

「……生憎この身では他者を殺すだけの力は出ないし、上位魔法は使えない。脅すだけにとどめる。だから、行かせろ」

 リリーはそれでも否を唱えた。

「いい。どうせ、他人なんてそんなもんだって、私は知ってるから」

 言いながら、リリーは悲しくなった。胸の奥に棘が刺さる。

 リリーは、行こうと小さく呟きスティレットの手を引いて厩舎に行って馬を一頭借りると城を後にした。

 リリーの名を呼ぶ、パルやモースの叫びは馬の蹄に掻き消された。


 ◆


 リリーは邸宅に帰宅するなり、挨拶してくるメイドや執事頭に目もくれず、寝室に閉じこもった。何もする気になれない。コンコンと控えめなノック音がする。

「リリー様。アリービーデ公爵ご子息様方が見えております。お会いになって頂けませんか」

 返事はしない。今は放っておいてほしかった。明日になれば、何もなかったように振る舞える。だから、今夜はそっとしておいてほしい。しばらくの間、ドアの向こう側に人の気配を感じていたが、やがて靴音と共に気配は消えた。

 リリーは膝を抱えて暖炉の前に座り込んだ。

 窓がガタガタと軋み鳴っている。風も強いし寒さも強い。爆ぜる暖炉の炎でさえ、リリーを暖めてはくれなかった。涙が止まらない。何故泣いているのか自分でもわからない。

『あんな兵士達のやっかみなど取るに足らないだろうが。結果的に、こんな豪勢な邸をもらえたんだ。俺を倒さねば……いや、再び魔族を倒さねば、この状況は有り得ない。……英雄になれて、良かったんじゃないか』

 リリーの中に身を宿したまま、スティレットが気を遣ってきた。励まし慣れてないのだろう。その言い方はぶっきらぼうだった。

「魔族を倒したのは、あんただ。それに私は、こんな暮らしを望んだことなんてない。ただ、少しの食べ物があれば良かった」

 リリーは鼻を啜り上げつつ呟いた。

 あの時、あの場所でスティレットに遭遇しなければリリーは貧しい生活を送ったままだったろう。それでも良かった。ほそぼそと暮らしていられれば、良かった。

「嘘を吐くな」

 スティレットは強く言った。リリーは思わず唾を呑み込んだ。

「俺は魔族だ。下手な嘘などに騙されるはずがない。お前は、こんな暮らしを望んでいたはずだ。飢えることなき、明日を憂うことなき暮らしを」

 どうやらこの魔族はリリーのことを放っておいてくれないらしい。

 スティレットはいつの間にか具現化していた。彼は腰を落とし、リリーの顔を覗き込んでくる。彼の眼差しは、リリーの心の内部を覗くように強い光を感じさせた。

「そうね、あんたには隠せない」

 もう、何もかもぶちまけてやろうという気になった自分自身に驚きつつ、深呼吸する。

 リリーは少しだけ微笑み、赤くなった鼻を擦った。

「あんたはもう全て知ってるかもしれないけど」

 そう前置きして、リリーは自らの過去を語り出した。


 ◆


 リリーは皆が噂していたとおり、捨て子だった。

 ピアグレス国の城下町に捨てられていたのを、たまたま通りがかった武器商人が拾った。

 彼はとても貧しかったが、心根は腐っていなかった。商人は泣き叫んでいる赤ん坊を捨て置くに忍びなく思い、誰かこの子をもらってくれと道行く人々に聞いて回ってくれた。

 しかし、捨てられていた赤ん坊を自ら進んでもらおうとする者などいようはずもなく¥い。それでも、武器商人は重い武器を背負って人々に声をかけ続けた。

 ようやく、地下に暮らす人々がリリーを育てようかと申し出てくれた。とても引き取ることが出来るような恵まれた暮らしではなかったため、リリーが死なないよう取り計らうことしか出来ないが……と彼らが言うと、武器商人――リリーが闇市場で贔屓にしている店のあばた面の主人だ――は涙ぐんだという。

 そのことが縁で、武器商人は地下にある闇市場で店を構えるようになった。もっとも、買付や何やらで一年のほとんど国外にいる男なので、あまり会話をしたことはない。

 子供がいない一組の夫婦が主となってリリーを育ててくれた。リリーの名前も、その夫婦がつけてくれたものである。

 リリーは恵まれていたと言って過言でないだろう。地下道で育てられた少女のほとんどは娼婦として売られる。

 皆、自分達や血肉を分けた子供達を生かすのに必死だった。そんな暮らしの中で、残飯や着古した服にありつけるリリーのことを、彼女と同じ境遇に置かれている少女達はいつも羨んでいた。

 十になるかならないかくらいで、リリーは地下都市を後にした。自分だけおんぶにだっこで生きていくわけにはいかないと思ったためだ。

 初めて一人きりで踏み出した表の世界はとても眩しくて、そしてドロドロしていた。乞食が泣き叫んでいる。ストリート・チルドレンが暗い瞳で行き交う人々をじっと見ている。乾いた空気が外にはあった。

 盗賊まがいのことまでしてリリーは生き延びた。そのため用心深く、慎重な性格になったのだ。いつ殺されるかわからない。いつ飢えるかわからない。殺人には手を染めなかったが、行商人の荷物を盗んだことは多々ある。荷物を奪われた旅人達が生きていけるかと問われれば――十中八九、死ぬ。ピアグレス国は砂漠地帯が多い。その最中で水や食糧、果ては金を奪われたらのたれ死ぬしかない。

 わかっていながら、リリーは悪事に手を染めた。

 国中を回った。もしかしたら安息の地があるんじゃないかと一抹の期待を胸に、砂漠を行った。空腹に死にそうになったことは一度や二度じゃない。何度も何度もどこにいるか知れない神を呪ったし、怨んだ。

「そして、あの日……あの場所に辿り着いた。知ってたでしょう? あの時、私がスティレット達魔族と人間達が争っていたところにいたのは、空腹を満たすためだった」

 ボロボロの衣服を纏い、戦場となっている町を見つけた時は心が躍った。自分が一番長く居着いたプンハベウロにようやく辿り着いた時、リリーは思考も覚束ないくらいの空腹と渇きを抱えていた。煤けた顔で、最後の力を振り絞って町へ入った。

 人々が散り散りに逃げて行く様を見て、縋る思いで民家に崩れ込むようにして押し入る。思ったとおり、住人はいなかった。戦場になっている町に残る者はいない。いるとすれば、正義感の強い者か、動けない病人や老人だけである。

 人間と魔族が交戦しているのはわかっていたが、背に腹はかえられない。

 あばら屋の中で、リリーは必死に食べ物を貪った。罪悪感などなかった。

 そこに、スティレットが現れたのだ。


 ◆


 リリーは話しながら、手を交差させた。

「私ね、あんたを見た時に恐怖は浮かばなかった。ただ、生きたいとだけ思った」

「……知ってる」

 スティレットは真っすぐ前を向き、遠い目をして言った。

「私、生きたい」

 ポツリとリリーが言った。

「絶対に、生きたい。つらいことがあっても、生きてさえいれば、きっと良いことがあるって思うから。でも――」

 リリーは両腕を抱きしめる。

「魔王軍を倒さない限り、私は死ぬかもしれないって思うと、怖い。さっきあのスピアって奴に詰られた時、女じゃないって言われたことよりも、英雄って言われたことに身が凍った。英雄は自分をなげうって国に尽くす者。――ねえ、スティレット。人間って変なものだね。飢餓に怯えないで済むなら他のことなんて怖くないと思ってたのに、このざま」

 リリーは自らを蔑んで、嘲笑する。無様だと思った。

 昔の自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。魔族を前に尻込みする愚かな者とでも罵るだろうか。それとも、よくやった。これで飢えないで済むと笑うだろうか。あの頃に比べたら、今のこの待遇は破格だ。絶対に飢餓などないし、眠るところもある。野宿なんてしなくていい。自分で料理や身の周りのことをしなくても、使用人達がしてくれる。

 望みが手に入れば、次の望みが出てくる。際限なく望みは心に溢れてくる。

 音もなく、スティレットは暖炉の前で震えるリリーを後ろから力強く抱きしめた。何の温かみもない彼の腕に、リリーはそっと触れる。何故か、胸が震えた。

「……体温ないんだから、意味ない」

「お前、少し黙れ」

 憎まれ口を叩きながらも、リリーの中にぽっかり空いた孤独が少しだけ癒された気がした。ぱちぱちと爆ぜる暖炉のオレンジ色の光を無言で見つめていたリリー達だったが、やがてスティレットが口を開いた。

「俺は、死への恐怖がない」

「うん」

 リリーは首肯する。

 スティレットは己の肉体と魂が切り離されているにも関わらず、飄々としていた。面白がっていた。そのことはリリーにとって非常に信じ難かった。

 彼が、いい退屈しのぎになると言った時に垣間見せた、輝く瞳を忘れられない。リリーなら発狂してしまうかもしれない状況下に置かれながら、スティレットはいとも楽しそうに笑って見せたのだ。

「――魔族には珍しくもないが、俺は親の顔を覚えてない。たしか二十になるまでいたとは思うが、忘れた」

 リリーは首を傾げた。人間では有り得ないことだ。神妙な顔をしていたリリーに気付いたのか、ふっとスティレットは笑った。

「お前、俺の年を覚えているか?」

 あ、とリリーは目を見開いた。

「八百歳」

「違う、七百歳だ」

 すぐにスティレットは訂正した。彼は溜め息を吐く。

「まあ、八百歳だろうが七百歳だろうが、どちらにしても大差ないが」

 だいぶ差があるのではとリリーは思ったが、人間の感覚と魔族の感覚は違うだろうから、口には出さなかった。

「俺くらい長く生きていると、知古の者の顔や声、雰囲気をも忘れてしまう。百年ぶりに会った者から、久しぶりだなと言われてもほぼ覚えてなかったりするし。……魔族の中には驚異的な記憶力で覚えている奴もいるが、俺には無理だな。根本的に、他者への興味が薄いから」

「寂しくなかった?」

 リリーは、ふと気になって訊いてみた。魔族である彼に訊くのは間違っているかもしれないが、自然と言葉が口をついた。

 リリーは、寂しかった。他人など受け入れないと意地を張って目を逸らし続けてきたが、心のどこかで孤独に苦しんでいた。誰の傍にも自分の居場所などなく、そしてリリーの傍も他人の居場所はなく。他人を信じて笑い合うことも出来なかった。

 生まれ落ちたその時から実の両親から裏切られたリリーにとって、他人などもっと信用が置けない存在だった。どういった経緯で両親がリリーを捨てたのかなんて関係ない。ただ、捨てられたという事実だけがリリーの胸にこびりついて離れない。それがトラウマとなり、リリーは自然と他人を遠ざけようとする。

 スティレットは刹那、微笑んだ。

「――寂しかったよ」

 儚げな微笑。常に見せるスティレットの表情とは違うもの。思わず、リリーはスティレットの頬に手を寄せる。体温のない肌はくすみ一つ見当たらず、滑らかだ。

 リリーのヒヤシンス色をした瞳とスティレットの菫色をした瞳が合わさった。彼の瞳には宝石を細かく砕いたような粒子が沈んでいる。とても幻想的な双眸に、リリーは魅入られた。スティレットはリリーの手首を掴む。そして彼は瞑目した。

「だから、魔王の傀儡となった」

「え……?」

 やけにスティレットが弱々しく感じられる。

「孤独を感じなくて済むように、魔王の手先となった。だが、孤独感が消えることはなかった……」

 スティレットはリリーが浮かべたのと同じような類の嘲笑を象る。

「いかんな。感傷的な気分になってしまった」

 スティレットはしなやかな指で、床に放っていた髪飾りを拾い上げるとリリーの髪を梳かしつけた。彼がリリーに髪飾りをつけようとしているのがわかったリリーは、慌ててスティレットの手を払おうとした。

「やめて。私……似合わないから」

「いいから」

 リリーの手を問答無用で下ろし、スティレットは丹念に手櫛でリリーの髪を梳り、いくつかの束に分けて捩じって止めた。もう寝るのにとリリーは文句を言ったが、スティレットは「そのまま寝れば、いい具合にクセづいてウェーブがかる」と返して来た。

「ベッドで寝るか?」

 スティレットの低い声が耳元で響く。

「……ううん」

 リリーはスティレットの腕の中で首を左右に振った。

「ここがいい」

 冷たいかいな。でも、何故か温かいと思った。

「そうか」

 スティレットは自らの外套の中にリリーを招き入れた。


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