■陰謀の中で
盛大なドラムの音がプンハベウロ城の上層から響き渡った。
「来るぞ! 魔王軍が来るぞー!」
張り裂けそうな叫び声に、ざわりと城全体が揺れた。
城壁の上で見張り台にいた兵士が海を渡って来る魔王軍を見つけた。まだ船体は麦穂程度しか見えていないが、魔王軍達が使う船は非常に速く進む。人間が造る船と魔族達の造る船は耐久性からしても速度からしても全く比べ物にならない。魔族の船は非常に精密な設計で造られていた。
明日にも魔王軍達が上陸して来るはずだと当たりをつけた騎士団団長や王立軍の指揮官達は、その旨を迅速に兵士へと伝達した。
疾風のような素早さですぐに交戦の準備へと兵士達は入る。砲弾を魔王軍の船へ打ち込むという策も出ているようだが、まだ射程距離には入っていないらしい。
そんな慌ただしい城内に、リリーの姿もあった。
リリーが魔王軍の第一将軍――軍の指揮系統を預かる最も地位の高い将軍――スティレットを倒してまだ一ヶ月経ってない。
前例のない出来事だ。
一度攻め込んできたら、数十年の間、魔族達がこの地に訪れることはない。なのに、こうして魔王軍は時を置かずにピアグレス国へやって来ようとしている。それだけ、スティレットを倒されたという事実に魔王は怒り心頭しているのだろう。
「英雄さんよ、今回もよろしく頼むぜ」
「おいおい、そんなプレッシャーかけるなって」
一般兵達は大声で笑いながらリリーの前を歩いて行く。
リリーはなんの感慨も浮かばずに黙々と剣を磨く。やっかみにはだいぶ慣れた。
ゲートハウス付近にある厩舎の前で座り込んでいる彼女に、気安く声をかけてくる者はいなかった。決して人通りが少ないわけではないのだが、好んでリリーと会話しようと思う者は少ない。
リリーは浮いていた。
女だてらに騎士となった者の前例はあまりない。それは中途半端な地位にある者達の感情を逆撫でする要因となった。
『あいつら、殺してやろうか』
軽やかな調子でスティレットが囁いた。
彼はリリーの脳髄に直接語りかけてきた。
リリーは首を横に振った。そして、心の中で念じる。
『いや――いい。気にしてない』
『そうか』
声を出さずに答えたリリーに、スティレットはそう呟くとカメオ・ブレスレットに自らの魂を移す。
スティレットが体から離れる度、ふっと目の前が眩んだ。彼が入っている間はどうやらスティレットの身体能力がリリーにも発揮されるようだった。もちろん、人間と魔族の体力や視力の差は歴然としている。なので、人の域を超えた身体能力を得られることはなかったが、それでも超人に近い視力や体力を得ることが出来た。
魔族とは、どれだけ優れているのだと内心毒づく。
リリーはスティレットと出会ってから改めて、人間が魔族に勝てない理由がわかった。人間は魔族に遥かに劣っている。
スティレットは厩舎の影で、人目につかないよう配慮してから具現化した。
……もっとも、本来の姿だったら皆が卒倒するだろうから仮の姿だ。銀の長髪ではなくブラックオニキスの短髪に垂れ目がちの大きな瞳。何も言葉を発さずに微笑んでいれば、淑女達は皆、彼に魅了されることだろう。
彼は鷹揚に腕を組んで厩舎の壁に寄りかかった。尊大な態度さえ様になるのが癪に障る。
「ブレスレットは所持しておいた方がいいぞ」
ちらりとリリーはスティレットを見て、再び剣を磨き出す。沈黙はすなわち了承の証である。ブレスレットを持っていないと不便だということは、ここ数週間で身を以って体験した。
まず、頭痛が酷い。一度ブレスレットを忘れて騎士団の訓練に臨んだことがあったのだが、あまりの痛みに訓練を中座して大慌てでブレスレットを取りに行ったくらいだ。
リリーは嘆きの溜め息を零す。
リリーの中にスティレットがいると、彼の言葉がリリーに直接響いて来て非常に煩わしかった。考えているを読まれたりするのも鬱陶しいことこの上ない。
仕返しとばかりにスティレットの意思を読もうとしたら弾き返される。格の違いだとスティレットには鼻で笑われた。
(どうにかして追いだせないものか……)
そんなことを考えていたリリーの手から、スティレットは剣をふわりと自分の方へ引き寄せた。
リリーの眉間に深い皺が刻まれる。
「返せ」
リリーは胡坐を崩して立ち上がり、乱暴に剣を取り返そうとした。
スティレットはそれを事もなげに避ける。彼は肩を竦めた。
「こんな剣で魔族と戦う気なのか?」
「……皆、同じ剣だ。いいから返せ」
リリーはひったくるようにスティレットから剣を奪い返した。
この剣は騎士団団長より直々に賜ったものだ。他の騎士達も同じ剣を渡されていた。柄の部分にパンブレーズの花をあしらった王家の紋章とルビーが填め込まれている。極限まで研ぎ澄ました刃は白銀に光沢を放っており、斬れないものなど何もないと思えた。
「お前は皆と同じ剣では駄目だ」
ぴしゃりとスティレットは断言した。
リリーは訝しげに彼を睨んだ。
スティレットの目は真剣だった。彼は壁から背中を離してリリーの正面に佇んだ。逆光の中、スティレットの表情を窺い知ることは出来ない。
「お前は、俺を倒したことで魔族達に目をつけられている。必ず囲まれるぞ。下級魔族だったらまだいい。その剣で何とか切り抜けられるだろう。だが、中級以上に当たってみろ。ものの見事に殺されるだろう。そんな何の効力も持たないただの剣など、すぐに折られてしまう」
ぞくっとリリーの背筋に冷たいものが走った。
「……でも、魔族達は私の顔を知らないはず」
リリーの反論に、スティレットは目を細めた。
「記憶がある」
「記憶?」
そう、と言ってスティレットは自らのこめかみを指差した。
「魔族というのは同族が散った土地に行けば、同族が倒れる直前に見た最後の光景を見ることが出来る」
「…………ということは……」
「お前の顔が割れるということだ」
なんと魔族は厄介なものだろう、とリリーは舌打ちする。
どう切り抜けるのが最善か思案した。
いっそここから逃げ出そうかとも考えたが、リリーの身辺には見張りがついていた。ちょっと城を抜け出そうとすると、誰かしらが声をかけてくる。それは門番だったり、一般兵だったり、はたまた騎士達だったりする。
――ようやく手に入れた魔族を倒す切り札を、おいそれと逃がすつもりはない。
リリーには、自分に話しかけてくる者全てが目の奥でそう言っているように思えて仕方なかった。
「お、リリー!」
軽快な足取りで、青年が片手を上げてリリーのもとへ近づいてきた。
「ああ、パル。それにモースも」
パルはリリーにとびきりの笑顔を向ける。その後ろにいるモースも優しく微笑んだ。
二人は騎士団の中で、リリーとまともに話してくれる数少ない者である。
「こんなところで何やってるの?」
「えっと……剣を磨いてた」
モースの問いにリリーが答えると、彼らは互いの顔を見合わせて肩を竦めた。
「ここじゃなくても広間でも出来るだろ。一緒にやろうぜ。皆集まってるし」
パルが厚意で言ってくれていることは理解出来たが、リリーは首を左右に振った。
「ここがいい。……皆、私がいると殺気立ってしまうから」
「そんなことは――」
「パル」
なおも食い下がろうとするパルをモースが制止した。リリーはモースに申し訳なく思い、眉尻を下げる。
どうしても、リリーは広間に行きたくなかった。冷たい視線や蔑む視線に慣れたと云っても、気が滅入るのは変わらない。あの中にいるくらいなら、まだ臭い厩舎の前に一人いる方がマシだった。
「オーケー、わかった。……と。あれ、おまえ誰だ?」
今頃気がついたのか、パルはスティレットに訊いた。
スティレットは人好きのする笑顔を振りまき、大げさに会釈した。
「お初にお目にかかります。つい先日、リリー殿に命を助けて頂いた者で、名をレイ・ブラウンと。魔王軍と交戦されるとの報を聞いて飛んでまいった次第でございます。皆さんにはこの国を必ず守って頂きたくて……それをお伝えしに参りました」
丁寧な身のこなしは貴族然としており、リリーも含めた三人を圧倒した。完璧に仮面をかぶったスティレットをパル達が疑う余地はなかった。
「そうなのか。いやぁ、リリー。おまえも騎士団に入って一ヶ月ぐらいしか経ってないってのに、人助けしたなんて……騎士らしくなったなぁ。それとも、見目が良かったから思わず助けたのか?」
「やめろ、暑苦しい。そんなんじゃない」
うりうりと肘でつついてくるパルをリリーは鬱陶しげに払う。
モースは胸に手を当ててスティレットに会釈した。
「ミスター・ブラウン。この国は僕らが必ず守りますから、安心していて下さい」
「ああ、心強いお言葉……痛み入ります」
スティレットは大げさに両手を広げる。リリーはそんな彼を冷たい目で見やった。
パルとモースは露程も不審に思わなかったらしい。彼らは「それじゃあ、お邪魔しちゃ悪いから俺達広間に行くな」と言い残して去って行った。あらぬ誤解をされた気がする。
騎士達の後ろ姿が完全にゲートハウスへ消えるのを待って、スティレットの表情がこそげ落ちた。
「……よくそこまで性格を変えられるな」
呆れ果てた表情でリリーが言うと、スティレットは不敵な笑みを浮かべる。
「当然。だますのは魔族の得意分野だ」
◆
草原のそこかしこに戦闘中だということを示す旗が立てられている。
リリーはごくりと生唾を呑み込んだ。こうして戦争に参加するのは、リリーにとって初めての経験だった。
各地を放浪中に傭兵紛いのことをやったことはあるが、護衛と戦争とは雲泥の差がある。
戦場はとても嫌な熱気に包まれていた。
まだ魔族達の姿はないが、今にも大軍が攻めてくる気配がある。
リリーを始め、騎士団に所属する者達は団長の前に規則正しく整列する。パル達の姿はない。騎士団の約半数は、城に詰めている。前線が破られた時に初めて、パル達――貴族の子息達は戦う。危険な前線へは決して出されない。
リリーの所属する騎士団は、国王の名のもとに形成された精鋭達だ。貴族の子息以外の者達は誰しも高い実戦力を有している。騎士団の団員は魔族相手にも、その実力をいかんなく発揮することを皆に望まれる。中でも、魔王軍大将・スティレットを倒したリリーには並大抵でない重圧がかかっていた。
団長は一しきり騎士達を鼓舞すると、すみにいたリリーへ目を向ける。
「いいか、リリー。いくらお前がスティレットを倒したと言っても、今回の戦闘……単独での攻撃はやめておけ。魔族が束になってかかってきたら、迷わず助けを呼ぶんだ。誰も来ない時は、いったん退却するように」
「はい」
騎士団団長の言葉にリリーは硬く返事をした。
『ほう。この男はよくわかっているな』
『当たり前でしょう。団長なんだから』
面白げに呟くスティレットに、リリーは素っ気なく返した。
各人定められた配置につき、息を殺して魔族達の来訪を待っていた。
日が沈む頃、赤く染まるエディゴス湾から魔族達は上陸して来た。その光景は、血に染まる戦いを予感させた。
彼らは猛然と船を降りて兵達の間を縫うように駈け出した。港に待ち構えていた重歩兵達は突然の彼らの行動に動揺して列を乱す。戦場の統率を担う指揮官が、声を荒げて平静を保つようにと叫んだ。
「列を乱すな! 魔族を追え!」
重歩兵の後ろに控えていた騎士団も団長の命令を受け、慌てて馬の手綱を引く。
リリーは魔族達が向かっている方角に何があるかを悟り、目を見開いた。
「――――!」
『ほうら、言った通りだろ』
スティレットは薄く笑いの色を含ませた声で囁いた。
魔王軍はスティレットがリリーによって倒された、エディゴス河の近くにある町へ向かっている。魔族はスティレットの記憶の中にあるリリーを見つけ出すつもりだ。
(逃げ出したい)
そう思いながらもリリーは一心に剣を振るって奮戦した。利口そうでない魔族を狙って剣を薙ぐ。
『右だ』
「言われなくてもわかってる!」
リリーは必死だった。スティレットから指示を受けながら、懸命に魔族達の行く手を阻もうとしていた。
国のためなどではない。己自身を守るため、リリーは魔族達を戦っていた。
スティレットが倒れた地へ魔族達が足を踏み入れれば、リリーの顔は割れてしまう。そしたら、いっせいに魔族達はリリーを襲ってくる。考えるだけでも鳥肌が立った。
周りを気にせず戦っていたためか、随分と隊から離れていた。
『次は後ろ』
スティレットの声を受けて、リリーは振り向きざまに剣を垂直に振り下ろす。
『案外どうして。腕が立つじゃないか』
低く笑うスティレットにリリーは眉根を寄せる。
『……長く一人旅をしてきた。これくらいは……』
そう心の中で答えていたリリーだったが、刹那、殺気を感じてその場を飛び退く。
一瞬の気の緩みが祟った。リリーは物の見事に魔族達に囲まれてしまった。
辺りに素早く目を配れば、リリーとスティレットが出会った場所の近くだった。魔族達の目が血走っているのを見る限り、リリーがスティレットを倒したとわかっているに違いない。
だが運の良いことに、リリーを取り囲んでいる魔族達はどれも強そうに見えなかった。防具に包まれた体は外から見てもわかる程に痩せており、軽装である。大方、特攻要員だろう。リリーは腕に込めていた力を抜く。
(少しだけ怪我を負って、逃げ帰ろう)
そう思った。怪我を負えば、戦線を離脱してどさくさに紛れて城から逃げ出せるかもしれない。上手く攻撃をかわして、少しだけ肩か腕に傷を負う。この短時間で、リリーはそう算段を立てた。
魔族達の目が光った。
『…………リリー』
どっと背中を押される感じがしたと思ったら、体の自由が利かなくなった。
自らの意思に反して剣が水平に閃く。リリーに槍を突き刺そうとしていた魔族が真っ二つになった。赤紫の血がリリーに降り注ぐ。生温かい血によって、視界が曇った。瞬きして目をこする動作さえも、自分がしているようには感じられない。
「な、なに……」
周囲にいた魔族達が瞬く間に死んでいく。
リリーの兜や鎧に多量の返り血が飛んだ。何が何だかわからず、いきなりのことにリリーは恐怖した。こんな優れた剣の腕をリリーは持っていない。勝手に腕や足が動く。リリーの大ぶりな立ち回りで、次々と敵は事切れていった。
――スティレットだ。
彼がリリーの体を操っているのだ。
「いや……やめて、スティレット!」
悲鳴に似た声で叫ぶ。
しかし、手は緩まない。
地面に這いつくばりながら脱臼した右肩を押さえ、魔法を放とうとする魔族の頭を、鉄のブーツで押さえつけて踏み潰した。
嫌な音と感触がする。
周りを囲んでいた魔族達が一人残らずいなくなって、ようやくリリーの体は自由になった。すぐさま魔族の頭に乗っていた己の足をどける。
足から駆け上がって来る嫌悪感に、リリーは口を押さえた。その場に倒れ込んだリリーは胸がムカムカして吐きそうになったが、胃に何も入っていなかったため、胃酸が上がってきただけにとどまった。
『スティレット……あんた何てことを……!』
リリーの中にいるだろう魔族は、何も答えない。
スティレットは何も言わずにリリーの体を使って魔族を……同族を殺した。
そこには一片の情けもなかった。
◆
「あの女……魔族の包囲を単独突破したらしいぜ」
「マジか。じゃあ、スティレットを殺したのも本当だったってことかよ」
「馬鹿。嘘ついてたわけないだろ。あいつはおれ達みたいな下っ端とは違う」
「でもさあ、じゃあ今までどうして国王軍にお呼びがかからなかったんだ。そんな腕が立つなら噂の一つや二つあってもおかしくないだろ」
「そりゃあ、そうだけどさ。もしかしたら地下にもぐっていたかもしれないじゃないか」
「うーん、そうか……その可能性があるか」
わざと声を潜めたふりをして立ち話をしている一般兵達の横を通り過ぎながら、リリーはギリッと歯軋りした。
別段、彼らが好き勝手リリーのことを言っていることに対して怒っているわけではない。リリーはスティレットに対して言いようもない怒りを抱えていた。
適当に手負いとなって戦線離脱しようと目論んでいたのに、スティレットのおかげで、とんだ災難だ。
また一人で魔族を何人も倒したと噂になっている。
リリーは人気のないプンハベウロ城の前庭から見て南側に位置するキープの影で足を止めた。
「スティレット」
憮然と名を呼ぶ。スティレットは音もなく姿を現した。リリーはキッと彼を睨み据える。
「どうして邪魔した!」
拳に力を入れて、リリーは叫んだ。怒りに頭が沸騰しそうだ。
スティレットはリリーの思惑を見事に潰した。怒らずにはいられなかった。再びこうして英雄と呼ばれ、その一方蔑まれ続ける暮らしなどリリーは微塵も望んでいなかったのだから。
スティレットが余計なことをしなければ、城から抜け出せていたかもしれない。魔族が追って来たとしても、今のこの状態より悪くなることはないだろう。
ここにいる限り、リリーは国のためにと祀り上げられ、強制的に魔族の前に差し出される。まるで、生贄のように。
「逃げてくれれば、まだ良かったものを」
怒りに目元を染めるリリーとは反対に、スティレットは冷静な怒りを灯した。彼が唸るように低く呟いた言葉は、リリーを責めているように聞こえる。威圧感があるスティレットの物言いに、リリーは少しだけ怯んだ。
スティレットはリリーをキープの壁に押しやると、彼女の顔のすぐ横に手を置いた。
朝の陽射しが東から強く射し、スティレットの右顔半分を照らす。
――禍々しい。美しいはずの朝陽とスティレットの顔が合わさり、どこか得体の知れない恐怖を感じさせた。ブラックオニキスの色彩を持つ、柔和そうな青年の面差しはなりを潜めている。漆黒の闇を纏う魔族が、リリーの前にいた。柔和そうな顔に化けているにも関わらず、視線が鋭く刺さる。思わずリリーは彼から視線を外した。
「お前を取り囲んでいた魔族は、上級魔族だった」
スティレットは汚物でも吐き出すように表情を歪めて言った。リリーの瞳孔が縮まる。
「しかも、俺が配下に置いていた手練れだ。そんな奴らに手を抜いて、ただで済んだと思うか?」
「あ……」
「よくて今頃昏睡状態だろうよ」
鼻を鳴らして酷薄な笑みを浮かべるスティレットを前に、リリーは俯く。彼女は実力の違いを、魔族達が纏っているオーラで見分けたつもりだった。しかし、本当に実力がある者はオーラなど隠せるに決まっている。短慮な自分の行動を深く恥じた。
スティレットは興味を失ったかのように壁から手を外し、少しリリーから距離を取った。
「あ、スティレット……」
謝罪の言葉を口にしようとしたリリーを、スティレットの手が制止する。彼は前庭の方を顎でしゃくった。
「陳謝の言葉を聞くのは後だ。誰か来るぞ」
スティレットの言ったとおり、前庭にある木々の合間からパルとモースの姿が見え隠れしている。彼らはリリー達に背を向けて何やら叫んでいた。忙しなく辺りを見回しているから、何かを探しているのだろう。
「リリー! おーい、リリーやーい」
「おいおいパル。犬じゃあるまいし……そんな呼びかけに返事があるわけが――」
彼らが自分を探していることがわかったリリーは、こっそり二人の後ろに回った。そして、いきなり声をかける。
「どうした」
呼びかけに応えたリリーに、パルとモースは飛び上がった。まるで幽霊に会ったかのような驚き具合だ。
「うわっ、ビビらせるなよ。はぁ……まさかお前がこんなとこにいるとは思わなかったぜ」
「……呼んだくせに」
リリーは仏頂面でパルとモースを見つめる。
「ま、運よく見つけられて良かった。団長がお呼びだぜ。ちょっと一緒に――おやおや」
パル達の目がスティレットに向く。スティレットは彼らに向かって優雅に微笑んだ。
「おう、レイ。また会ったな。また逢引き中に邪魔してわりぃな。コイツ、ちょっと団長に呼ばれててよ。借りてくぜ」
「ちょっと。逢い引きじゃないから」と眉根を寄せるリリーを黙殺し、スティレットはにこりと微笑む。
「どうぞ、お構いなく」
そう答えるスティレットをリリーは力いっぱい睨んだ。
「お許しが出て良かったぜ。ささ、行くぞリリー。さっさと用事終わらせればレイとイチャついても誰も文句言わねえから」
「…………」
否定しても無駄だと悟ったリリーは沈黙する。そんなリリーとパルの様子を、モースは面白おかしそうに、目をくるりとさせながら見守っていた。
リリー達はキープから離れて、団長が城で寝泊まりするのに使っている部屋があるノーゴ塔へ足を向ける。
スティレットのもとから去って行くリリーの体に衝撃が走った。リリーはげんなりと溜め息を吐く。スティレットがリリーの中に入ったのを察知したのだ。
『おおかた、先の交戦に関することだろうな』
呑気に言うスティレットにリリーは答える気すら起きず、唇を噛み締めた。
騎士や兵士達がプンハベウロ城に駐屯する際に寝所として使用しているノーゴ塔の最上階に王宮騎士団団長の部屋はあった。いつもは近寄ることすらしない彼の部屋に、リリーはパル達とともに入った。
部屋には、ただ簡素なベッドが一つと木製のテーブルがあるだけだった。ベッドは敵襲があった時に備えてヘッドボードが高い造りをしていた。無地のカーテンがおざなりに窓にかけられている。ベッド横には磨かれた剣と弓、そして甲冑がある。華美さを感じさせないその部屋は好感が持てた。ちゃらちゃらとした一介の騎士達とは格が違う。
団長は、質素な中に真実があるという騎士の心構えを忠実に守っている。さすが騎士団団長を務めるだけのことはある。見栄など微塵もない部屋からは、戦うことを念頭に置いていることがすぐ見て取れた。
「団長、リリーをお連れ致しました」
「そうか、ご苦労。お前達はもう下がっていいぞ」
「はい」
パルとモースはリリーにこっそりウインクを送ると、その場を後にする。騎士団団長はリリーを見るや否や破顔した。
「いきなり呼び立ててすまない。今から国王に今回の魔王軍との戦いについての首尾を報告に行くんだが、お前も連れて来いとお達しが来てな。さあ、行こうか」
団長に促されてリリーは城を出た。国王の居住地であるアリービーデ宮殿へは馬の足だったら十分以内に到着する。団長は自分用の白馬を持っているが、入団したばかりのリリーに愛馬がいるわけもない。リリーは厩舎で適当な馬を見繕って、それに鞍をつけた。団長には吟味して良いぞと言われたが、リリーは正直、暴れ馬でなければ何でも良かった。
道すがら、いつもは顰め面の団長が珍しくずっと笑顔を絶やさずに、リリーへ話しかけてくれた。
「単独行動に走ったことは褒められた行為じゃないが、お前はこうして騎士団の名に懸けて見事魔族を倒した。……国王陛下に謁見する前、お前はスティレットを倒したのは偶然だと言ったそうだが、実力だと証明されたじゃないか。これで兵たちのやっかみも減るだろう。良かったな」
馬に揺られながら、リリーは小さく頷いた。手綱を少し強めに引く。
――別に騎士団のために倒したわけでも、実力で倒したわけでもない。
そう言ってやりたい。言ってやりたいが、口にすれば団長は不愉快になるだろう。だから何も言えない。この呪わしさと言ったら例えようがない。
アリービーデ宮殿に着いた二人を待っていたのは大勢の廷臣達からの会釈だった。着飾った彼らは、へつらい顔でリリーや団長に賛辞を贈る。団長は慣れているのか廷臣達を器用にさばき、国王がいる謁見の間へリリーを導いてくれた。
謁見の間の壇上にある座り心地が良さそうなイスへ腰かけている国王は、至極ご満悦な表情で髭を撫でる。でっぷりとした腹が目立っている。国は貧しいというのに、国王の住まいは何と豪華なことか。
一足先に宮殿に到着していた戦場指揮官は間の中央で傅いている。その横に進み出て頭を垂れる団長に倣い、リリーも同じように頭を下げた。
面を上げよ、と言う国王の声に合わせて頭を持ち上げる。リリーと国王の視線がかち合った。豊かな髭を膨らませ、国王は目じりを下げた。
「リリー。こたびの魔王軍との交戦においての働き、誠に見事であった。もう今や王都中そなたの噂が匂い立っておる。わしは、そなたならやれると信じておったぞ」
「はっ、ありがたき幸せに存じます」
ハキハキと答えるが、リリーの目は据わっている。
「さて、戦場指揮官・コモン、団長・ハドモーデ、並びに英雄・リリー。魔王軍を撤退させたそなたらに褒美を取らそう」
国王が二度手を打ったのを合図に、廷臣達が一斉に入って来て宝剣やら金やらをリリー達の前に置く。司令官も団長も丁重な礼を国王へ述べた。
信じられないぐらいの量――山積みという言葉が一番ふさわしい――にリリーは目を剥いた。立派な品々である。こんなことに贅を尽くしているから国庫が枯れるのではとリリーは鼻白んだ。
「リリーよ、驚くのはまだ早い。褒美はこれだけではないぞ」
訝しんでいるリリーが、あまりの豪華さに戸惑っていると思ったのだろう。にやりと国王陛下は笑って、再び手を打ち鳴らした。
◆
プンハベウロ城の近くには人の住んでいない邸宅があった。
そこはもともと先王がお気に入りの愛人を囲うために造らせた二階建ての邸宅だったのだが、先王が亡くなってこの方三十年近く、人手にも渡らずひっそりと佇んでいた。愛人の故郷であるノンブラレ地方にある大ぶりの赤い花や蒼い木々が植えられた邸宅の庭園は、一見の価値がある。愛人の生前は、よく王族や貴族やらを招いて茶会が開かれていたという。
白亜の建造物が多いここいらでは珍しい赤茶のレンガで造られた邸宅は、王都の景観を損なわないように、今の国王の命によって小奇麗に整えられていた。
もちろん、内部も細やかに掃除が行き届いており、誰かが住もうと思えばすぐにでも住める状態にあった。現国王は、もしも自分に愛しい妾が出来た時のために整えていたという。しかし、国王は妻である妃だけを愛したために、邸宅が使われる機会は訪れなかった。
亡き先王の麗しき愛人の名を取って、ローザ・ヴェール邸と名を冠するその邸宅の玄関口には、大勢の使用人達がいた。皆、新しき主に頭を下げている。その中でも一際、身のこなしが素晴らしい初老の男が進み出た。
「はじめまして。わたくしどもは、この邸宅でリリー様のお世話をさせて頂く者達でございます。わたくしは執事頭を務めるバレッダと申します。以前は国王陛下の妃様をお世話させて頂いておりました。何かご不便がございましたら、何なりとお申し付け下さいませ」
そう言って、より深く頭を下げる初老の執事を前に、リリーは小さく頭を下げ返す。皆、国王が特別に用意した者達だ。大勢の使用人達は誰しも笑顔を貼り付けている。
「そう」
つんとリリーは冷たく返事をする。
『愛想笑いの一つでも見せてやれ。これからここがお前の家となるんだ』
的を射たスティレットの言葉にリリーはぐっと拳を握る。彼の言うとおりに笑顔を見せる気にはなれなかった。
「リリー様、お加減が悪いのですか?」
一人のメイドが進み出て、心配そうな顔でリリーの肩に触れようとする。それをリリーは素早い動きで避けた。リリーのこめかみに冷や汗が流れる。警戒色が瞳に滲んだ。
赤の他人に触れられることにリリーは慣れていない。使用人達の戸惑いが玄関先いっぱいに広がる。
リリーは自らの肩を押さえ、ぎゅっと目を瞑った。気難しい主人だと思われるのが良くないことだと、リリーにもわかっている。これから寝食をする家に勤める者達と関係が悪くなれば、居心地が悪くなる。言葉にするのは面倒だと思ったが、理由を口にする。
「ごめんなさい。人に触れられるのは好かない」
「ああ、そうなのですね。失礼を致しました」
にっこりと笑ってメイドはピンと胸を張り、スカートの裾を摘まんで軽く頭を下げた。その様は、スティレットがパル達に見せた完璧な仮面の顔を連想させる。誰も本心を見せようとしていない。リリーは無表情で彼らを見つめる。
「疲れたから、部屋で休ませてもらいたのだけれど」
「はい、すぐに。夕食はどう致しますか」
執事頭が尋ねてくるが、リリーは首を横に振った。
「いらない」
「かしこまりました。では、空腹を感じられましたらすぐに呼び鈴にて我々をお呼び下さい。夜食を持って参ります。何か、お嫌いなものは――」
「ない」
執事頭はにっこりと微笑み、リリーを二階にある寝室まで先導した。
使用人達は邸宅の裏手にある使用人専用の宿舎のような場所で寝食するらしい。常時、一階の奥間にて待機している使用人がいるから、気兼ねなくベルを鳴らすよう言い含められた。
リリーは金持ちの家でも貴族の出自でもない。呼び鈴を鳴らされる立場ならまだしも、鳴らす立場になるとは露程も想定していなかった。
「さあ、お入り下さい」
金のドアノブが執事頭によって開かれる。
寝室にはあらゆるものが用意されていた。天蓋付きのベッドに出窓に飾られた華美な花。部屋の中央部には大きめのテーブルがあり、その上に水差しと果物が載っている。おまけに床は大理石で出来ていた。
磨かれた床にリリーの戸惑った表情が映り込む。ぷんと鼻につく香の匂いは、宮殿にいた淑女が纏っていたものと同じものだった。今流行りの香なのだろうか、とリリーは部屋のすみに視線をやった。そこには陶器が置かれている。柔らかなオレンジの炎が揺らめいており、絶妙にブレンドされた香草の煙が漂っていた。
プンハベウロ城にてリリーが与えられていた部屋も、質素な造りながら住み心地良いものだったが、この寝室とは比べ物にならない。
一つ難点を上げるなら、天蓋付きのベッドだろう。天蓋付きベッドというのは、貴族の娘が何も外敵を恐れないからこそ使えるものであって、リリーのように常に気を張っていなければならない者にとってはあまり喜ばしいものではない。平らなベッドでは、万が一敵に攻め込まれた時、すぐに起き上がれない。
「……ベッドを、ヘッドボードが高いタイプに変えてくれる?」
「申し訳ありません、リリー様。このベッドは亡きローザ・ヴェール様が持ち込んだ品でして、おいそれと運び出すわけには――」
「……うん。それなら、いい」
リリーは唇に指を当てた。
取り敢えずの応急処置として、いくつもある枕で頭部分を高くする。こうしておけば、若干起き上がりやすいだろう。
「もう下がっていい」
冷たくリリーは執事頭に言った。
彼は緩やかに会釈して、ドアの近くにある小さな卓に、持ち手の部分にレースのリボンがついたベルを置いた。そして静かに寝室を出て行く。
リリーは執事頭の足音が聞こえなくなったのを確認してから、嘆息した。彼女はテーブル上に用意されていた水差しを注意深く観察し、一度グラスに水を移す。
リリーはポケットに手を突っ込んで四つに折った小さな包み紙を取り出した。毒分別粉だ。それを振り掛けると、毒が仕込まれていないかすぐ判別出来る。透明なままだったら普通の液体。少しでも黒ずめば、毒物が混入している。粉を水を入れたグラスに注ぐ。コップの中身には何の変化もなかった。
それを確認してからようやく、リリーは水を呷った。
『…………お前は本当に慎重だな』
呆れたようなスティレットの声がしたと思ったら、彼はリリーがつけているカメオ・ブレスレットへ魂を移す。
金具が外れ、カメオが宙に浮いた。一瞬ののち、スティレットが姿を現す。彼は銀の髪を鬱陶しげに掻き上げ、シャイニーバイオレットの鋭い瞳で寝室内を見回した。
スティレットは皺一つなくシーツが張ってあるベッドに腰かける。新しく整えられたのだろうベッドへ我が物顔で座ったスティレットに対して、リリーは眉をひそめた。自分のために整えられたものを他人が先に乱すなど、全く以って喜ばしくない。
「かなり高級なベッドだな。俺が使用していたものと遜色ない」
なかなか趣味がいい、と言っているスティレットをリリーは押しのけてベッドへ寝転ぶ。
天井に煌々と光るシャンデリアを見ていると、初めてアリービーデ宮殿へ行った時にリリーへ取り入ろうと躍起になっていた人々の顔が浮かんでくる。先の争いの功績を知った人々の、リリーを手駒にしたいという感情剥き出しの瞳が思い出され、自然と笑いが込み上げてくる。
「――何がおかしい」
スティレットはテーブルの上にあったハンカチでカメオを拭きながら尋ねてくる。
「……生活の変わりようが、目まぐるしい。国王も、よく私にこんな邸宅をくれたものだ」
リリーの言葉に、スティレットは何も言わない。
「皆、自分が成功するのに必死。そして、人身供養に私を捧げようとしている」
魔王はスティレットよりも強いのだとリリーは城の書物庫にある文献で読んだ。
スティレットに訊いてみても、「そうだな」と返答があった。
何人もの英雄や勇気ある若者が立ち向かい、ダメージを与えてきたが魔王は何度も復活する。それでも英雄達は、魔王を殺せないとわかっていながら深手を負わせるためだけに身を犠牲にして、必死にピアグレス国を守って来たらしい。
魔族に人は勝利することなど出来ない。そのことは国王達も知っているはずだ。それを知った上で、彼らはリリーを犠牲にして縋ってでも魔王軍の侵攻を食い止めようとしているのだ。
――殲滅させなくてもいいから、一時しのぎでもいいから、魔王軍を追っ払ってくれ。
彼らの魂胆は見え透いている。この破格の待遇も、それなら頷ける。
(私は、国に殉ずる気は毛頭ない)
リリーは強く心に描く。彼女の眼光が鋭くなる。スティレットは目を細めた。




