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■英雄・リリー


 リリーは青いマントを翻し、プンハベウロ城の中庭を闊歩していた。

 擦れ違う人々はリリーを見るなり腰を曲げて会釈する。

『そなたは、このピアグレス国の救いじゃ』

 アリービーデ宮殿で拝謁した国王からもらった言葉が、耳にこびりついて離れない。

 スティレットという魔族を倒したリリーは、すぐさま兵士達に引きずられて国王の住まうアリービーデ宮殿へ連れて来られた。

 国王は軍の指揮官より事情を聞くや否や、リリーを騎士団の一員として召し抱えると言い出した。

 国王の言葉を受けて、すぐに側近が騎士の証である青いマントを持ってくる。

 拒否しようと口を開きかけたリリーだったが、鬼のような形相で首を横に振る指揮官の顔に恐怖を覚えて押し黙った。

 ピアグレス国は、世界地図で見て北西に位置する小さな国で、対岸を隔てた先にある魔大陸との距離がどの国よりも近かった。

 両者に交流があるかと問われれば、誰しも即座に否定するだろう。

 魔大陸は、魔族達の住む地。

 何人たりともそこへは立ち入れず、内陸の様子は闇に包まれている。

 魔大陸には常時薄紫色の靄がかかっており、緑が存在するかどうかさえ定かでない。

 ただ一つわかっているのは、魔大陸に住む魔族達が人類に害を為すことだけ。

 魔族の王――魔王を筆頭に、彼らは数十年に一回の頻度でピアグレス国へ大軍を成して攻め込んでくる。魔族達が攻め込んでくる理由は定かでないが、その度にピアグレス国は疲弊し、国庫は常に乏しい。

 数ある国の中でも、数十年に一度魔族が攻め込んでくるピアグレス国は、とても貧しい国だった。

 魔族を人の大陸に侵入させぬよう、他国がピアグレス国に兵力や食糧などの援助を行なってくれているから崩壊せずに済んでいるようなものだ。

 魔法を扱える魔族達に対し、人間はとても無力だった。

 永劫の刻を生きる者もいると言われる程、魔族の寿命は極めて長い。それに肉体も強靭で、余程のことがない限り魔族は死なない。

 ――魔族は優れた容姿をしている者が多い。スティレットは、そんな魔族達の中でも一際群を抜く強さを誇る魔族だったらしい。彼は強さだけでなく、銀髪にシャイニーバイオレットという極めて珍しい色合いを持つ魔族としても有名だった。

 美しい容貌をして、非情に人間を殺すさまは数多くの書物に記されている。魔王と同等に恐れられ、数多くの文献に名を連ねる魔族の一人だという。

 リリーはそんなこと、全く知らなかった。国王や王立軍指揮官にスティレットに関する情報を聞かされて、ようやく事の重大さを理解したくらいだ。

 宮殿に来るまでも、兵士達が口々にスティレットを倒したリリーを褒め千切っていたが、まさかここまでの大物だったとは思わなかった。

 リリーは今年十六になったばかりである。魔族に会ったこともなければ、魔族の噂話に花を咲かせるような性格でもない。殺してしまった魔族がそこまで高名な魔族と知っていようはずがなかった。

 国王との謁見中、スティレットを殺したのは偶然だったと告げられるような空気など微塵もなく。要らぬ言葉をリリーが発さないように指揮官の威圧的な視線を背中に浴び続け、蛇に睨まれた蛙状態だった。

 こうして意に反し、リリーの騎士団入りは軍の上層部と議会のどちらも満場一致を以って受け入れられることとなったのである。

(何、この状況)

 頭に鋭く走る痛みを黙殺しながら、リリーはゲートハウス前まで辿り着く。

 何の気なしに、おさまりの悪い茶色い長髪を掻き上げた。

 きゃあ、と黄色い声が聞こえてくる。声のした方角を見れば、城下町に暮らす娘達数人が、リリーを見て赤くなってはしゃいでいた。何人かは、リリーのことを男だと勘違いしている雰囲気だ。それを察したリリーは柳眉を跳ね上げる。

 その様を見ていた門番は苦笑を洩らした。

「良いなあ、英雄様は。モテモテだ」

 女に人気があっても困ると言いかけたが、羨望の眼差しを娘達から送られたリリーは口を噤んだ。

 期待がこもった瞳を見ていると、何も言えなくなる。

 リリーは娘達に少しだけ微笑み、城門を抜けた。後ろから甲高く、興奮気味な叫び声が上がったが、立ち止まらなかった。

 ゲートハウスを横切って尖塔の階段をのぼって辿り着いたのは、花崗岩で出来た城壁の上層部だった。

 リリーはそこから市街を見下ろした。

 切り立った岩山に建造されたこの城の頂からは、遠くまでよく眺望出来る。市街は、ぶ厚い二重の壁に囲まれている。

 プンハベウロは要塞都市として誕生し、発展してきた。その中心にあるのがプンハベウロ城である。文書記録は王の御代で数えて十七代に遡り、長い歴史を持った城だ。

 当時の国王の名前を冠して建築された城は海岸沿いにあり、国内で最北に位置している。

 プンハベウロは、ピアグレス国内有数の大きな都市である。ここはピアグレス国の長い歴史の中で、戦争――特に魔族との戦争――の舞台としての役割を果たして来た。この城は幾度となく魔族との戦争によって破壊され、その度に再建された。プンハベウロこそ、魔族から人類を守る贄として存在していると人々は云う。

 二代前までの国王はプンハベウロ城に居住して城とともに骨をうずめたのだが、その後の国王は、魔族が攻め込んでくるのを恐れてプンハベウロ内に建造した豪奢な宮殿・アリービーデ宮殿移り住むようになった。

(プンハベウロ城へ私を押し込めたということは、魔王軍と戦えということか)

 建築当初、王の根城として使われていたプンハベウロ城は今や、軍人達の詰め所としての役割を担っている。

 すっと目を細め、リリーは腕を組んでエディゴス湾を見据える。

 エディゴス湾から魔王軍は攻め込んでくるのだと他の騎士が教えてくれた。魔族達がピアグレス国――プンハベウロへ侵攻するには、一旦エディゴス湾に上陸しなければならない。

 湾は内陸に進むにつれて次第に幅を狭くし、エディゴス河となる。エディゴス河が大きく婉曲する平野部に広がる町で、リリーはスティレットを殺した。

 因縁の地は干拓により、広大な農地と住宅街が広がっている。

 数十年に一回、必ず魔族との争いの焦点となるそこら一帯は、あまり人が定住しない。いつ何時攻め込まれても良いように、お金をかけずに簡素な造りの家を建てている。粗野な造りのあばら家が多い町に活気はなく、浮浪者やならず者で溢れ返っていた。

 皮肉げな笑みをリリーは浮かべる。

「うひゃあ、あの一帯の住民も、難儀なこったな」

 城壁の上には、城が攻撃される合図となるドラムが設置されており、その番をしている兵士がいた。彼は渋面でそう言うと、首を回して肩を鳴らす。

「……きみも、難儀なこった」

 憐憫を含んだ声色に、リリーは鼻を鳴らした。

「別に、どうということもない」

「へえ、たまげた。女らしくない奴だなあ」

 厭味は一切含んでいない素直な言葉を兵士が洩らす。

「どうも」

 女らしくない、という科白は聞き飽きていた。

 リリーは背が高い。なまじ男より高いため、女達からは相当持て囃されて成長した。反対に、男達からは邪険にされることがしばしばだった。

 ヒヤシンス色をした切れ長の瞳に長い睫毛、精巧に作られた人形のようだとよく噂されたものだ。日に焼けて蜂蜜色になった肌も、男らしく見える原因の一つだった。

「黙ってれば、べっぴんさんなのになあ」

 ぼやく兵士に一瞥をくれ、リリーは踵を返した。


 ◆


 リリーは親指の爪を強く噛んだ。

 ひそひそとリリーを指差し、口許を隠して噂話に興じる貴婦人達が目の前にいた。

 ――あのひとが、魔王軍の将軍を倒した方よ。

 ――へえ、女の人じゃない。

 ――そうなの。何でも、捨て子だったらしくて、各地を放浪していたらしいわよ。剣技もその中で身につけたのでしょうね。素晴らしいわ。

 ――魔王軍も彼女が自分達の将軍を殺したことを知って、おめおめと逃げ帰ったとか。ああ、彼女は我が国の希望ね。顔も綺麗だし、言うことなしだわ。

 丸聴こえである。

 アリービーデ宮殿では、盛大な夜会が開かれていた。

 もちろん、リリーのために開催されたものである。誰もがグラスを持ってリリーに挨拶しに来る。

 スティレットを倒したことで、一躍リリーは英雄として祀り上げられた。

 リリーは用心深く、広間の隅々に目を配っていた。

 観察していてわかったのだが、この広間には壁の一部に若干スペースがある。その隙間に入り込んで、互いの情報を盗み聞くためのスペースだと見当がつく。

 策略が渦巻いている。

 皆、相手の腹を探り合って自らの地位を上げようと目論んでいる。

 ――――頭が、痛い。

 リリーは目を伏せ、こめかみを強く押した。頭痛はひどくなるばかりで、いっこうに鎮まらない。

 ここでは、リリーの取るに足らない境遇が素晴らしいことのように華々しく語られ、称賛される。

 国王に召された吟遊詩人も得意げにリリーのことを謳う。



 たおやかな風に遊ばせた 大地の色をした御髪

 そっと 朝露に濡れたヒヤシンスが佇んでいるように可憐な瞳

 一人の少女が ピアグレス国を救った

 いたいけな少女は 華奢な体を張ってスティレットを退けた

 ああ 何という美談!

 頼るべき肉親もおらず 各地を放浪し続けた少女が 誰もが畏怖するスティレットを殺したのだ!

 天蓋孤独の困難に挫けず

 苦節を越えて少女は英雄となった

 私は謳おう 少女の唄を

 私は各地へ伝えて回ろう 英雄譚を

 英雄・リリーに幸あれ!



(違う……私の過去は、そんな……美談にされるようなものじゃない)

 泥臭く、闇に蠢くものが脳裏に過ぎる。

 幼い自分の荒んだ双眸がリリーを睨んでくる。幼い少女は、何も言わずに歯軋りした。血の涙が少女の目に滲んだ。

「ああ、お会いできて光栄です。リリー殿」

 はっとして、リリーは脂汗を浮かべて意識を現実に戻した。

 ざわめく広間のすみにいたリリーに、どこぞの貴族の息子らしい青年が愛想笑いを張りつけて美辞麗句を述べてきた。彼の目は笑っていない。

 リリーは自分よりも背丈の低いそれを軽くあしらい、広間を後にした。

 鐘を打ち据えるように激しい頭痛が意識を朦朧とさせる。

 リリーは霞む目で、どうにか場を切り上げた。

 そして、宮殿からプンハベウロ城へと逃げるように馬を飛ばして逃げ帰った。主役の早い退場に国王は立腹気味だったが、臣下が他国の珍しい一品などを献上すると、たちまち上機嫌となった。

 これがピアグレス国を担う王なのか、とリリーは少し落胆した。

 リリーは帰宅後、国王より賜った城の一室にあるベッドへ倒れ込んだ。

『――――――』

 目を閉じたリリーを、嘲るように誰かが嗤う声が聞こえた気がした。


 ◆


 気だるい体を無理に奮い立たせて、リリーは朝陽が昇る前に起床した。

 与えられた部屋には暖かい色合いの間接照明がつけっ放しになっている。昨晩は宮殿から帰ったあと、すぐに眠ってしまった。

 吐き気をもよおす程に凄まじい頭痛に、ぎゅっと目を瞑り耐える。

 魔族の男・スティレットを倒した直後から、頭痛は止まない。

 頭が痛いと軍医に申し出るのは簡単だ。

 しかし、そう申し出たら影で何を言われるかわかったものではない。

 兵士や騎士達の中には、いきなり手柄を掻っ攫って行ったリリーを良く思っていない者もいる。

 このプンハベウロ城へ来てから二週間。

 毎朝欠かさず騎士団の訓練に参加している。

 他の騎士と同様の訓練を受けることが、衣食住と名誉ある騎士の称号という破格の待遇を受けるにあたっての代償だった。

 ――騎士団に所属し、魔王軍を追い返せ。

 昨晩、アリービーデ宮殿で国王がリリーに言い渡したことは、無情な宣告だった。

 土台、無理な話である。

 生き抜くためにある程度は剣を扱えるが、ただの護身術程度しか身に着けていない。

 それをリリーは、国王の近くに控えていた戦場指揮官に訴えたのだが、彼は断固として、スティレットを倒したのだから隠された力があるに違いないと言い張った。

 指揮官の瞳は獲物を威嚇する捕食者のそれだった。

 力強すぎる眼差しに、リリーは立ち向かうことが出来ずに二の足を踏んだ。

 リリーは憂鬱ない気持ちを抱えながらも、想い甲冑を着込んで青いマントを身に纏う。

 部屋を出れば、朝一番の光が目を焼いた。

 小鳥達が朝のあいさつをしている。犬の鳴き声もした。

 天気もとても良く、爽やかな朝だ。

 リリーは鉄のブーツの音を響かせて、ノーゴ塔を下る。

 塔の四階は騎士達の居住スペース、三階は武器庫、そして二階には一般兵士の居住スペースがあった。城内で一番大きなこの塔は、いつも人で賑わっている。特に、一階部分の大ホールは酒場並みに盛り上がっていることが多い。

「おっ、新入りじゃねえか! おはよう」

「おまえ、ちょうどいいところに来たな」

 武器庫のある三階を通り過ぎようとした時、気さくな口調で数人の青年達がリリーへ話しかけてきた。

 彼らは朝の訓練のために白銀の甲冑を身につけて青いマントがはためかせている。それはリリーと同じものだった。

「こんなところで、何をしてるの? もうすぐ訓練が……」

 リリーが尋ねると、彼らは顔を見合わせて後ろ手に持っていた色とりどりの宝石類をリリーの前に突き出した。

「…………何これ」

 半眼でリリーは青年達が両手で救い上げた宝石を一つ手に取って、まじまじと見つめた。

 美しい輝きは、それが偽物でないことを如実に物語っている。

 リリーに宝石を取られた青年は慌ててそれを取り返す。

「おいっ。勝手に取るなよ。あんたの分はちゃんと残してやってるから。さあ、たーんと選べ」

 青年達の後ろには宝石や剣、盾などが申し訳程度に散らばっている。

 どう見ても、ピアグレス国が保有しているものではなかった。

 他国からの供給かとも思ったが、それにしては量が少ないし、武器庫に直接運び込まれることなど有り得ない。

 供給はまず、宮殿ででっぷりと構えている国王が受け取る。

 国庫は枯渇しているというのに、国王は宝石類や他国の特産品に目がない。だから、他国から贈られたものは、軍事用品だろうがなんだろうが、まず国王が検閲と称して物色する。

「…………」

 明らかに不審げな顔をして騎士団の青年達を見つめていると、青年の一人が肩を竦めた。

「盗んだんじゃないぜ。これは戦利品だ」

「戦利品?」

「ああ。あんたがスティレット将軍に勝った周辺で見つかったもんだ。将軍が死んで魔族の奴ら動揺してたからな。色々金目のものを落として行ってくれた。おれたちゃ、こっそりそれをここに運び込んで山分けしてたのさ」

 そう言って騎士は片目を瞑ってみせる。

「ふーん」

 リリーは武器庫の中へ入って、血のついた何やら紋様の彫られた剣や盾、傷ついた宝石を見て溜め息を吐いた。

 大方、現状の良い品は漁られている。あまりものばかりだ。

「残り物ばっかりじゃないか」

「そうでもないぜ。ほら、そこの隅にあるブレスレットとか……」

 青年に促されるまま、何気なしに首を回してブレスレットを見た瞬間、リリーの背筋が凍った。

 スティレットのつけていたブレスレットだった。

 琥珀色のカメオが嵌め込まれた黄金色のブレスレットは、暗い武器庫の中であっても燦然と底知れない輝きを秘めている。

 小さな物体から発せられる異様な圧迫感に、リリーは数歩後ずさった。

 瞳孔が縮まり、多量の汗が全身を伝う。手足が小刻みに震えた。

「ん? どうした。お前さんが倒したスティレット将軍の遺留品だぞ。記念に持ってけよ。あ、このピアスは俺がもらったけどな」

 長髪の気障ったらしい騎士がさっと髪を上げて耳朶に煌めく紫色のピアスを見せつける。彼は何も感じていないのだ。この遺品から出ている禍々しいオーラを。

「私……要らない」

 そう言って立ち去ろうとしたが、視線がブレスレットから離れようとしない。

 意味深に置かれたブレスレットを喜んで持つ程、リリーは馬鹿でなかった。出来ることなら、早くこの場を後にしたかった。

 しかし、いっこうに体が動かない。まるで自分の影が針で縫い止められたように、どんなに足を動かそうとしてもリリーの体は固まったままだ。

『――カメオ・ブレスと外套を』

 ぞわり、と皮膚が粟立った。

 耳の奥に厳かな男の声が直接響く。

 意思と関係なしに、ブレスレットと無造作に放られていた外套へと、リリーの手が伸びた。

「なんだ。やっぱり欲しいんじゃないか。リリーは素直じゃないな」

 呑気に笑い合う青年達は、リリーの顔色が真っ青なことに微塵も気がついていない。

 そこまで観察能力が散漫で、よくも騎士と名乗れるものだと心の中で毒づいた。

 リリーの足は武器庫を出て人気のない螺旋階段まで進み、そこでピタリと止まった。

 人の声は遥か遠い。メイド達が走り回る物音も微かにしか聞こえなかった。

 薄く開いた唇を伝って、塩辛い汗が咥内に入り込んでくる。

 ぱちん、と小さな音がした。

 刹那、目の前に長身の青年が佇んでいた。

 リリーと同じくらい背丈の者など珍しい。青年は男の平均から見ても、飛び抜けて背が高い部類に入るだろう。

 毛先に向かうにつれて緩いウェーブを描くブラックオニキス色の短髪に同色の優しげな双眸。

 優雅に微笑する彼は、王族が纏うような襟の詰まった深紅の衣装を着ていた。

 朝露にほころぶ薔薇のように濡れた唇を弧に歪ませ、青年はリリーの頤をそっと掴み、顎のラインを指でなぞる。

 見たこともない青年だった。

 瞬きをすることさえ許されない重圧を感じ、リリーは身構える。

 青年は吸い込まれてしまいそうな深い色合いを持った瞳にリリーを映し、やがて手を放す。

 どっと空気が喉に流れ込んできた。

 肩で息をしながら青年を見やれば、彼は片膝をついてリリーの指先をそっと両手で包んだ。

「あなたはパーサジェット大陸にあるどんな毒花さえも清浄化するような可憐さで、ぼくの心を奪った。どうか、ぼくにあなたの愛を一欠けらでも良いから下さいませんか。この憐れな下僕に、ご慈悲を……」

 リリーは眉根を寄せて指先を引っ込めると、朝の訓練に行くべくさっさとその場を去ろうとする。

「待って下さい。この顔はお嫌いですか」

「いや、嫌いというか――え?」

 追いすがってくる青年を鬱陶しげに振り返ったリリーは、胆を冷やした。

 青年の顔が変わっている。天真爛漫な金髪青目のあどけない顔。その顔で彼は哀しげに俯いた。

「ああ、この顔も嫌いなのですね。でしたら、こういった顔はどうでしょう」

 青年は左手を自らの顔にかざす。

 すると、今度は燃える石炭の色をした長髪と水草色の瑞々しい丸い瞳を持つ少年に変化する。

「あなたが愛してくれるのならば、本当の顔など捨ててしまいましょう。ああ、どうか。その美しい生き生きとしたヒヤシンスの瞳にぼくだけを映しては下さいませんか」

 リリーは茫然と青年を見つめていた。

 そして、ここに至ってようやく、自分の持っていたはずのカメオ・ブレスレットと外套が消えていることに気がついた。

 よく見ると、青年が外套を脇に抱えている。ブレスレットは彼の右手首に飾られている。

 青年を訝しげに見つめると、青年は冷淡に目を細めた。その眼差しに、リリーは見覚えがあった。

「あんた……まさか……」

 そんな奇天烈なこと起こるはずがないと思いながらも、一つの答えに行き当たったリリーは、青年を恐る恐る指差す。悪い夢だと思いたかった。

「――ようやく気がついたか」

 青年は指を鳴らした。彼の姿が消えたと思ったら、リリーより少し背の高い青年が眼前に現れた。

 指通りの良さそうな胸元まである銀糸の髪がさらさらと流れる。目にかかる前髪の合間より見える双眸は、シャイニーバイオレット。彼は誰にも媚びへつらわない軽薄な微笑を洩らす。

 忘れもしない。忘れられるわけがない。脳裏にこびりついて離れない、鮮烈で生々しい記憶。

 リリーが確かに殺したはずの魔王軍の将軍――スティレットがそこにいた。


 ◆


 嫌な予感がしたのだ。

 ブレスレットを手にとってはいけないと、リリーの体中が警告していた。にも関わらず、それを掴んでしまったのはリリーの判断によるものではなく体が勝手に動いたためである。

 死んだはずのスティレットが登場したことにより、リリーの心拍数は急上昇した。

「私を、殺す気?」

 悲鳴を押し殺し、壁際に後退してスティレットを睨んだ。彼は自らの白いうなじに手をやり、視線を外す。

「そう出来るのならば、既にしている」

 不穏な言葉を口にし、スティレットはリリーのくせっ毛を一房手に取る。

 恐怖に縮むリリーを横目見て、彼は愉快そうに口の端を上げた。

「俺が体内に入っていたというのに、お前は気がつきもしなかったな」

「何ですって…………?」

「お前が俺を肉体から切り離した時、俺はお前の中に魂の半分を宿してしまった」

 そんな、とリリーは愕然と呟く。座り込むリリーにスティレットは、なおも矢を打ち込んできた。

「運が良かった……。もう半分の魂を込めていた腕環がこの城に運ばれてきたのは奇跡に近い。こうして実体化出来るのも、この腕環があるおかげだ。怨むなら、俺の腕環をおめおめと持ち帰った愚鈍な自国の兵士達を怨むんだな」

 リリーは下唇を噛んだ。鮮血が唇から流れる。

 目に力を入れてリリーは挑発的にスティレットを睨めつける。

「私はこんなところで死なない」

 スティレットは片眉を撥ねた。

 リリーは敏捷な動きで彼の右手首に輝くブレスレットを奪う。

 将軍は制止しようとしたが、リリーの方が一歩早かった。

 生死の分かれ目になる場で、人は実力以上の力を発揮するものだ。

訓練のために背負っていた剣を引き抜くと、ブレスレットを床に落として真っ二つにしようと構えた。思い切り剣を振り上げるリリーの腕を、スティレットは音もなく近づいてきて止める。彼の顔がリリーの目と鼻の先に迫ってきた。

(私は……生きたい)

 切実に、リリーはどこにいるとも知れない神の慈悲を祈った。神など信じたこともなかったが、今は縋らずにいられない。

 強引にスティレットの手を引き剥がし、懐に手を入れて常備しているマッチをこする。

 小さな火が灯ったマッチを彼の外套目がけて投げつけた。魔族だって火で炙られれば消えるだろうという安易な発想さえも実行せざるを得ない状況が、何だか笑えてきた。

 スティレットは舌打ちすると、指を鳴らして燃え広がる火を消す。

 彼の眼光が鋭くなった。リリーは唾を嚥下する。

 他を一睨みで黙らせる迫力を、スティレットは持ち合わせていた。

「待て。こちらにも事情がある。それを聞いた上で判断すればいい。まあ、お前にとって腕環を壊すことは、都合が悪いと思うがな」

 魔族の言うことに耳を貸すなど愚か者がすることだとわかっていた。

 しかし、スティレットが本気を出せば自分など瞬時に消し去られるだろう力の差を歴然と感じたリリーは、口惜しく思いながらも大人しく剣を下ろす。

「取り敢えず、場所を移そう。お前が割り当てられたあの部屋に行くぞ」

 スティレットは目深に外套を被り、その上で顔に手を翳して先程の優しげなブラックオニキス色をした髪目の青年に変身した。

 彼にがっちり手首を拘束されているリリーは項垂れたまま歩を進める。

 武器庫を通る際、救いを求めて騎士達の姿を探したが、誰もいなかった。おそらく、他の螺旋階段から下りてしまったのだ。

 リリーは盛大に舌打ちした。助けが欲しい時に限って、助けは来ない。

 滑り込むように部屋へ入ったリリーとスティレットは向かい合う形となる。

 スティレットは本来の姿――銀髪に紫の目――に戻り、ベッドに腰かけた。

「そのカメオ・ブレスを壊せば、俺は完全にお前の中へ留まることになる」

 細長い指でリリーが握りしめているブレスレットを指し、スティレットは言った。

「……どういうこと?」

 顔をしかめるリリーを見て、スティレットは鷹揚な態度で指を交互に組んで嗤った。赤い唇が艶めく。

「俺の肉体はここになく、還るべき場所が不確定な状態。現時点で腕環とお前……どちらにも宿ることが出来ているのは、肉体消失の直前に魂を半分に分けたから。……ここからが重要だ。もしも、片方の寄る辺をなくせば、もう片方に魂は自然と留まる。無理をして魂を分断して注いだんだ、魂はあるべき姿に戻ろうとするだろう」

「要は、ブレスレットを壊せばあんたは私の中に入ってしまうってことね」

 小難しく説明されてよくわからなかったため、先程スティレットが口にしたことを繰り返した。

 魔族の青年は、ゆっくりと首を縦に振った。

「……私とブレスレットが存在する形で、なおかつブレスレットの中に留まる方法は?」

「ああ……それが一番お前にとっても俺にとっても都合が良い。有機物であるお前と違って、腕環に身を寄せている間は実体化出来るし」

 スティレットはそう言うと、手招きをした。するとどうだろう。リリーの掌中にあったカメオが宙を浮いて彼のもとへ行ってしまった。

 魔法だ。

 人の使う魔術と違って、魔族の使うそれは、大気に漂う元素を魔道具に込めてそれを媒体として扱ったりしない。ただ、彼らの中にもとからある魔力を使って揮う。だから、詠唱も魔道具も何も必要としない。

 リリーは前に本で読んだ知識を思い出しながら、スティレットがブレスレットを掴むのを見ていた。

 彼は人の悪い笑みを零す。その笑みがたいそう鼻についた。

 スティレットは、美しいブレスレットを、シャンデリアの暖かみのある明かりにかざした。

「どちらか一方が存在する限り、長くはそちらに留まれない」

 リリーはあからさまに落胆する。スティレットは目を光らせた。

「そして、どちらかだけしか存在しなくなったら、完全に俺の魂はその物体と一体化してしまう。お前が腕環を壊したら――俺はこうして表に出てくることが不可能となる。反対もまたしかり」

「……いいの? そんなこと教えて。私がブレスレットを壊してあんたを私の中に封じることを選んだらどうする。私はあんたを倒した英雄として、祀り上げられてる。そのくらい、するかもよ」

 それもいいさ、と魔族の青年は軽い口調で答える。

「お前はそれを良しと思わないはずだと判断した。だが、万が一お前が腕環を壊したとしても、それもそれで一興だ」

「怖く、ないの?」

 囁くようにリリーが問うと、スティレットは笑みを深めた。

「お前、俺がどのくらい生きていると思う?」

 質問返しをされてリリーは少し頭を傾けて考え、人差し指を突き出す。

「百年……くらい」

 スティレットはブレスレットをリリーに向かってぞんざいに放り投げた。条件反射的に、それをリリーは受け止める。きらりと琥珀色のカメオが輝いた。

「…………七百年だ」

 魔族の青年は流れるような動きでベッドから立ち上がる。

 リリーに背を向けているため、彼の表情は垣間見ることが出来ない。端の焦げた外套が彼の一切を覆い隠した。

「数百年を跨いで生きていると、あきあきしてくる。退屈過ぎて」

 銀の髪の隙間から横顔が覗く。彼の口許には嘲笑が浮かんでいた。

「久方ぶりに人間共と遊んでやろうとエディゴス湾から乗り込んでみたら、こんな滑稽な催しが巻き起ころうとはな。魔力も弱まり、肉体もなく……全く以って、愉快極まりない」

 享楽主義者だ。

 スティレットは自らが置かれたこの状況さえも一種の遊びだと思っている。シャイニーバイオレットの瞳には生死に怯える影が全く見当たらない。彼はリリーの前に立った。明かりのもとでも青白いスティレットの肌は真珠のようだと取りとめもないことをリリーは考えていた。

「予期せず舞い降りた退屈しのぎだ。お前が英雄として君臨したいと言うなら、力を貸そうか」

「何を言って――」

「げんなりしているんだろう、この状況に。力もないのに俺を偶発的に倒したせいで引きずりだされた陽の当たる場所を、お前は疎んじているんだろう」

 図星をさされ、リリーはぐっと詰まった。スティレットはリリーの中から全てを見ていたのだろう。

「ひっそりと生きていたかった。けれど、皆お前を半ば無理矢理、矢面に立たせた」

「…………」

 スティレットの言うことは全て的を射ていた。

「力を貸してやろうか」

 魔族は耳元で甘く囁く。脳髄を刺激する優しく染みる声に流されぬよう、リリーは爪が食い込む程に拳を握りしめた。

「――そう言って、私にとって不利になることをするんだ」

 はっと鼻で笑い、リリーは荒んだ瞳でスティレットを凝視する。

 リリーはこの十六年の間、ほぼ一人で生きてきた。頼る親もなく、身よりもなく、ただ国中をさすらっていた。そんなリリーに優しく親切にしてくれる人々もいたが、その大半が何かしらの見返りを要求してきた。死ぬような目にあったのは一度や二度でない。

 優しくする人には、何か裏がある。それが己の身を守るために、リリーの導き出した結論だった。

「――疑うのは勝手だが……お前は俺を倒した事実は変わらない。魔族達に狙われることから逃れることは出来ないぞ。そんな時、どうやって身を守る気だ」

「逃げる」

「……は?」

 スティレットは目を丸くした。

「どうにかして、英雄じゃないって皆にわかってもらって、戦線を離脱するの」

 しばしスティレットは黙り込んでいたが、やがて目を細めると言った。

「面白い。やってみろ」

 スティレットはくつろいだ様子で、リリーの部屋を歩き回る。

 その間中、リリーは神経を張っていた。

 スティレットは部屋の検分に飽きたのか、ブレスレットに嵌め込んであるカメオの汚れをリネンの布切れで拭い出す。

 リリーは彼に尋ねる。

「――肉体はないのに、あんたが色んなものに触れられるのはどうして?」

「大気を練り上げているからじゃないか。詳細は俺にもよくわからん」

「そうなの。……あと、一つお願いがあるんだけど」

 何だ、と言いたげにスティレットがリリーに視線を向けた。

「お風呂の時とトイレの時は、ブレスレットの中にいて」

 リリーの頼みにスティレットは肩を竦めた。

「そんなこと、言われなくてもわかっているつもりだ。俺は魔族きっての紳士だぞ」

 嘘つけ、とリリーは思ったが賢明にも口に出さなかった。本物の紳士だったら、みだりに少女の部屋へ入って来たりしないはずだ。

 スティレットと数刻しか喋っていないが、皆が恐れおののく程に残忍な者には見えない。多少、不穏なものを感じさせるところはあるが。もしかしたら、本性を上手く取り繕っている場合も考えられるため、リリーは注意深く彼の動向を見守ることにした。今のところリリーに危害を加えたりするつもりはないようなので、ひとまず安心している。

(この魔族の男が変な動き一つでもしたら、ブレスレットを壊して私の中へ封じ込めて――)

「言い忘れていたが」

 リリーの思惑を遮るようにスティレットが言葉を発した。相変わらずカメオを丹念に拭いている。

「もし腕環を壊して俺がお前の中に留まることになったら、一生頭痛に悩まされることになるからな」

「………………何故」

「当然のこと。魔力を持つ魔族を人間の体に封じるんだ。しかも、俺は死ぬわけじゃない。お前と完全に同化してしまえば、俺は肉体を得たことになり、自由に魔法を行使出来る。一つの肉体に二つの魂が宿ることになるわけだ」

 リリーはショックで思考が完全に止まった。彼女の打ちのめされた表情を見たスティレットは至極満足そうに表情を緩めた。

「お前、俺を倒したあとから頭痛が酷かったろう。それは俺がお前の中に留まっていたからだ。長く留まるとああいう状況になる。反対に腕環に留まり過ぎると、この美しいカメオにヒビが入ってしまう。あげくには、腕環はバラバラとなるだろう。俺がお前を殺せないのもそのためだ。お前を殺したところでブレスレットも耐久性がない。そうしたら、俺の魂は、永遠に大気中で彷徨うことになってしまうだろ?」

「そんなことって――」

「もくろみが潰えて残念だったな、リリー」

 彼は初めてリリーの名を呼んだ。

 しかし、リリーは嬉しくも何ともなく、己の悲運を呪うばかりだった。

 と、激しいノック音がした。

 答える暇もなく、ドアの向こうから怒りの叫び声が聞こえてくる。

「こら、リリー! お前、何訓練さぼってんだよ! 団長カンカンになって怒ってるぞ! なんで一緒に連れて来ないと俺まで怒られたんだぜ! 早く出てこいよ、寝てんのかっ?」

 泣きっ面に蜂。同僚が叫んだ言葉がリリーを脱力させた。


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