第10話「神の教えの伝道者」④
「教会の子。この名を持つあなたにとって、魔女が悪魔ということは揺るがせられない〝事実〟なのでしょう」
何も見えない暗闇の中、寄り添うような声だった。
「しかし目を曇らせてはいけません。真実から目を逸らしてはいけません。その名を持ちながら、私と〝原典〟の神話を語れたあなたです。本当はもう分かっているのではないですか?」
穏やかな、しかし揺らがない声が、少しずつ、感覚を取り戻させる。
「原典で魔女を悪魔と伝える記述がひとつでもありましたか? ええ、ないでしょう。人知の外の力とはありましたね。これが新典では妖しき術を使うとなり、ウッドロック教典では悪魔の術と解釈された。しかし、これは言語の変遷で『妖しい』という単語が『悪しき』という意味を持ってしまったに過ぎないのです。分かりますねユリウス? 魔女が悪魔と定めたのは神ではない。人間です」
ユリウスは思い出す。
過日、外の教会の者たちは噂していた。
ユリウスが育った孤児院の創始者であり、魔女に関する法律をまとめたウッドロック憲章の元となるウッドロック教典の編纂者、アーモス・ウッドロックは、決して清廉な人物ではなかったと。神に仕えながら、その生が尽きるまで憎しみを抱き続けた人物であったと。
物知らずだった幼いユリウスは、そのことを院の大人にそのまま尋ね、酷い折檻を受けた。「創始者を疑うなんて悪魔の所業だ」と。
それ以来、ウッドロック教典やウッドロック本人について言及することをユリウスはやめた。
「私は何度でも声を上げましょう。魔女は人間です。魔力を持つ者たちは人間です。ただただ、執行人たちが神器を使って起こす奇跡を、自らのみで起こすことが出来るだけの、人間なのです」
チャールズの言葉が、強い響きを持って、ユリウスの耳を打つ。それはまるで、耳の奥にこびりついていたかつての大人たちの言葉を払うようだった。
「魔法は危険なこともあるでしょう。しかしそれは、騎士たちの剣や執行人たちの神器、あるいは民草が持つ包丁や鍬とて同じです。そのもの自体が危険なのではない。それを使う者の意思によるのです。――ええ、ならばあなたは、罪人であるはずがない」
揺るぎない音。顔は見えないのに、何故か視線を感じるようだ。
ユリウスは握れない拳をもどかしく感じる。指先すら動かないから、ざわつく心の表し先を作れない。
「何故ならあなたは、あなたを救える力を持つだけのただの人間に手を伸ばし、ただの人間があなたの手を取っただけなのだから。そして今なお神を愛し、その愛に背いたと自らを罰し続けるあなたが、人間でないはずがない。その身を構成する物が問題なのではない。あなたという個人を形作る、その意思こそが重要なのです。思考し苦しむことは人間にしか出来ないことなのだから」
動かない手を掴まれる。
そこから広がる熱が、瞬く間に全身を駆け巡った。世界を埋め尽くしていた闇が一瞬にして散り去ったように、視界が一気に明るくなる。
目を見開いたユリウスは、ゆっくりと頭を上げた。正面から、揺るがぬ信仰の光がユリウスを貫く。
「勇気を持ちなさい、ユリウス・キルコリーネン。あなたが崇める太陽は、いつでも真実を照らしている。それを閉ざしているのは、あなたの恐怖です」
恐怖? そんなもの――。
反論を言葉にしようと開いたはずの口は、しかしすぐに閉じられ、歪められた。目の奥にジワリと痛みが走り視界がにじむ。
(そんなもの……持ってるに……決まっている――っ)
ああそうだ。ユリウスは怖いのだ。怖くて怖くて仕方ないのだ。
神の愛に背くことが怖い。
死ぬことが怖い。
これまで嫌悪してきたものに救われていることが怖い。
仲間に裏切られたことが怖い。
容易く切り捨てられたことが怖い。
自分に価値などないように思わされたのが怖い。
捧げ続けた信仰が否定されるのが怖い。
今まで信じていたものを壊し続ける今が怖い。
変化する今を受け入れようとしている自分が怖い。
そして何より、それらを超えた先――いや、それらの根本に横たわる、妹を殺した事実に対する正当性が崩れていくことが怖い。
大事な妹だったのだ。
弟妹達の中で、一番ユリウスに懐いていた。いつも後をついてきて、いつも隣にいて、美味しいものがあると、楽しいことがあると、嬉しいことがあると、真っ先にユリウスにその喜びを分け与えに来る娘だった。
そんな彼女をユリウスが捕らえた。おにいちゃん、と縋る妹の手を縛り上げ、教会に連行したのだ。泣き叫ぶ彼女を、処刑台につないだ時に初めて引っかかれた痛みを、今でも覚えている。
嫌だと、助けてと、ギロチンに横たえられた彼女は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でユリウスに訴え続けていた。
ユリウスはそんな彼女から目を逸らさなかった。いいや、逸らせなかった。体が硬直して動くことが出来なかったのだ。
そんなユリウスに、立ち会った執行人は刃を持たせ、握らせた。手はずっと震え続けていたが、上から大きな手で覆われていたので、刃はずっとユリウスの手の中に在り続けた。
促されるまま、鈍色はロープに添わされる。
おにいちゃん、と、再び妹が叫ぼうとした言下、刃は引き下ろされ妹の首は飛んだ。ころころと転がったそれを教会の者が雑に拾い上げ、刃を落とし硬直するユリウスに無理やり持たせた。
生暖かい血が滴る歪んだ顔。あんなに可愛かったのに。もはや見る影もない。
泣き出しそうになるユリウスに院の者は何度も何度も繰り返した。「イザベラは悪魔であった。お前は正しいことをした。お前は正しい心を持った。執行人は正義と信仰を持って事に当たらなくてはいけない」と。
はい、と生気なく返事をしたその時、確かに、頭のどこかでガラスが割れるような音がした。
「……チャールズ神父」
握られたままの手の指を軽く曲げ、ユリウスはチャールズの指先を縋るように握り返す。返事をし、チャールズはさらに手を握る力を強くした。
「俺は、今確かにあなたの言葉に救われた。折れかけた心は、確かに光を感じた。――けれど、心のどこかで、俺はそれを浅ましいと感じている。神に背くと感じている」
「ええ、仕方ないでしょう。何年も、あなたを縛っていた鎖だ」
俯き懺悔するように言葉を紡ぐユリウスを、チャールズはそのままに肯定する。それに、ユリウスはどこか安堵を抱いていた。
「――――――――すぐには、無理です」
考え、考え、考え、ようやく絞り出した声。それは、この恐怖に立ち向かいたいと願う祈りにも似た決意。
それをしっかりと受け取ったチャールズは、慈悲深い笑みを浮かべ、空いた手でユリウスの肩を抱くように叩く。
「それでよいのです、ユリウス。敬虔なる神の徒よ。ゆっくりでいい。ゆっくり、あなたの心を縛る鎖を解いていきましょう。もし恐怖に負け彼女たちを悪魔と罵りたくなってしまったのなら、私の所に来なさい。満足するまで話をしましょう。この神の家は、いつでもあなたを歓迎します」
促すように示され、ユリウスは顔を上げた。見上げた先に佇む女神像が浮かべる穏やかな笑みが、降り注ぐ光で柔らかく照らされている。
はい、と絞り出すように返事をしたその時、堪えきれなかった涙がこぼれた。




