第二部 プロローグ
── 黒石家・初代、黒石 清九郎 盛隆
《230戦無敗の武将が見た“初めての敗北”》**
天文二十四年(1555)
伊勢国・雪深い山中
その夜、山は異様な静けさに包まれていた。
戦の音も、怒号も、血の匂いすら消え、
ただ、一人の男の荒い息だけが白い渦となって舞っている。
黒石 清九郎 盛隆
黒石家の嫡流にして、
これまで二百三十の戦を指揮し、
一度も敗れたことのなかった男である。
――その男が今、雪の上を逃げていた。
「……はぁ……はぁっ……
まだ……追ってくるか……!」
背後では、敗残兵の断末魔が雪原に吸い込まれていく。
敵は黒石家の旗印を目にした途端、
隊列を組み替え、徹底した追撃を行っていた。
味方は壊滅。
共に戦ってきた家臣も、多くが倒れた。
清九郎は雪に手をつきながら、
初めて味わう“敗北”という感覚に、
胸の奥がきしむような痛みを覚えていた。
(これが……敗れるということか……
二百三十の勝利では届かぬ壁が……
ついに俺にも来たか……)
悔しさか。
無念か。
怒りか。
それとも、自分が護れなかった者たちへの後悔か。
言葉にできない“影の感情”が胸の奥で揺れた。
その時──
林の奥に淡い灯りが浮かんだ。
⸻
【寂れた寺──敗者の辿り着く場所】
朽ちかけた寺が、雪明かりの中にひっそりと建っていた。
壁は苔に覆われ、人の気配はない。
清九郎はふらつく足取りで門をくぐる。
「……ここで、夜明けまで……耐える……」
だが、その瞬間──
空気がひび割れるように震えた。
本堂の奥の暗闇。
その一部だけが、ゆっくりと“凹む”。
光ではない。
煙でもない。
影でもない。
世界そのものが、たわみ、折れ曲がっている。
清九郎の背筋に冷たい電流が走った。
(敵の待ち伏せか?……いや、違う……
これは……もっと深い……何か……)
歪んだ空間が、微かな脈動を放つ。
心臓の鼓動とは違う。
生物的でもない。
だが、確かに“呼んでいた”。
清九郎の足が勝手に前へ進む。
「……やめろ……
行くな……と……言っているだろう……!」
口では否定しているのに、
身体は糸で引かれるように歪みへ向かっていく。
指先が触れた。
◆ ◆ ◆
【闇の向こう──意思を持つ核】
次の瞬間、景色が裏返った。
灰色の空。
赤と黒が混じった風。
砂塵の中で響く、低い脈動。
遠くに見えるのは、
**意思を持つ核**──
世界の深層が生んだ、得体の知れない“意志体”。
(……なんだ……これは……)
清九郎の膝が震えた。
二百三十の勝利で積み上げた自信が、
この世界では紙のように脆かった。
胸の中で、黒い影がかすかに揺らぐ。
怒り。
後悔。
敗北の痛み。
譲れぬ義。
それら全てが、核の脈動と共鳴し始め、
清九郎の心に染み込んでいく。
(……俺は……
まだ……終わらぬ……!)
だが──
その一歩先は、戻れない場所。
清九郎は寸前で踏みとどまった。
視界が反転し、寺に戻る。
本堂の床に片膝をつき、
荒い呼吸を整えていく。
⸻
【黒石 清九郎 盛隆 ─再起の誓い】
「……黒石は、ここで終わらせぬ……
この敗北、必ず糧とする……!」
清九郎は刀の柄を強く握りしめて立ち上がった。
雪が静かに降り続けている。
その冷たさが、折れかけた心をわずかに支えた。
背後では、
本堂の闇がわずかに揺れていたが──
清九郎が見つめていたのは、
前へ続く細い道だけだった。
彼の歩みは遅くとも、
確かに“前”へ向かっていた。




