第12話 気を通し、初めて向こう側の家へ
夜が、深く沈んでいた。
家の中には物音一つなく、
祖父のいない静寂だけが、静かに満ちている。
拓海は道場の中央に座り、
膝の上で、ゆっくりと両手を重ねた。
(巡らせた……
動かした……
次は――)
祖父の言葉が、胸の奥で重なっていく。
『最後は、“通せ”じゃ』
◆ ◆ ◆
【巻物──第三段】
木箱の蓋を開き、
拓海は三枚目の和紙に手を伸ばした。
墨は、今まででいちばん力強く、
けれど、どこか優しく刻まれていた。
⸻
『第三段 気を通す』
巡り、
動き、
気は芽吹いた。
あとは“通せ”。
全身を一本の芯で貫き、
迷いを捨てたとき、
気は“道”となる。
この段に至ればよい。
何度も見てきた“あの扉”へ立て。
一度、向こうを見てこい。
安全じゃ。
街中ではない。
白石の家が、待っとる。
⸻
「……白石の……家……」
祖父は、最初からすべてを知っていた。
自分がどこへ行き、
どこに立ち、
何を見ることになるのか――
その“道筋”すら、
すでにこの巻物の中に刻まれていた。
(じいちゃん……
俺……行くよ)
◆ ◆ ◆
【気を“通す”】【一本の芯】
拓海は目を閉じた。
腹の奥へ――
静かに、意識を沈める。
そこにはもう、
はっきりとした“熱”がある。
(巡らせない……
動かさない……)
今日やるのは、ただ一つ。
(……通す)
腹の奥から、
背骨をなぞり、
背を通り、
うなじを越え、
頭頂まで――
一本の“道”を描く。
その瞬間。
スッ――
全身が、一本の柱になった。
手の先から、
足の裏まで、
すべてが一本の“線”で繋がったような感覚。
(……これが……
気を……通す……)
世界が、
わずかに“透明”になる。
◆ ◆ ◆
【扉の“許可”】【共鳴】
その瞬間――
家の奥から、
今まででいちばん強い“応え”が返ってきた。
ドン……ッ
音はない。
だが、空間そのものが“うなずいた”ような感覚。
(……来い、じゃない……
“よし”だ……)
許可。
それは言葉ではなく、
“感触”として、はっきり伝わってきた。
◆ ◆ ◆
【扉の前へ】
拓海は、ゆっくりと立ち上がった。
もう、足は迷っていない。
道場横の廊下。
突き当たりの白い壁。
そこに、“何もないはずの場所”に――
今は、はっきりと“境界”が見える。
空気が、
水面のように、静かに揺れていた。
(子どもの頃から……
何度も見てた……
ずっと……気のせいだと思ってた……)
だが今ならわかる。
それはずっと前から、
“在った”。
◆ ◆ ◆
【初めて、扉を“押す”】【越境】
拓海は、手を伸ばした。
指先に触れたのは、
壁でも、空気でもない――
冷たい“膜”の感触。
腹に沈めた気を、
一本の芯のまま、
そのまま腕へ、指先へ――
(……開け……)
そっと、押す。
派手な光はなかった。
轟音も、衝撃もない。
ただ、
畳の匂いが、ふわりと流れ込んできた。
◆ ◆ ◆
【異世界の白石家】
次の瞬間――
拓海は、“家の中”に立っていた。
黒く艶のある太い梁。
古い畳の柔らかさ。
木と土の匂い。
祖父の日本の家に、
よく似ている――
だが、どこか“時代”が異なる。
(……ここが……
じいちゃんの……
もう一つの……家……)
空気が、やけに温かい。
遠いはずの場所なのに、
懐かしさが、胸いっぱいに広がった。
◆ ◆ ◆
【部屋の隅の刀】
部屋の隅。
簡素な刀掛けに、
一振りの日本刀が置かれていた。
鞘は欠け、
鍔の意匠は古い。
だが、間違いない。
(……本物の……
日本刀……)
それは、
祖父が“向こう側”で使っていたという――
白石の刀。
拓海は、
怖れるように、そっと一礼した。
◆ ◆ ◆
【生活の痕跡】
戸棚には、
素朴な食器。
敷かれた藁の寝具。
小さな庭へ続く板間。
すべてが――
まるで“昨日まで誰かが暮らしていた”かのように、
そのまま残っている。
(……ここで……
じいちゃんは……
仲間と……暮らして……
旅立ったんだ……)
胸の奥が、じんと熱くなる。
ここは、戦場ではない。
まだ――物語の“入口”だ。
◆ ◆ ◆
【祖父の声】
その時。
風もないのに、
どこからともなく、
微かな声が届いた。
『よかろう、拓海。
一度、見てこいと書いたのは、こういうことじゃ』
拓海は、静かに頷いた。
(うん……
わかったよ……じいちゃん……)
『街へ出るのは、まだ早い。
まずは“家”を知れ』
声は、それだけを告げて――
すっと、消えた。
◆ ◆ ◆
【扉は、まだ“戻れる”】【だが――】
拓海は、ゆっくりと振り返る。
そこには――
先ほど通ってきた“揺らぐ境界”が、
今も静かに開かれていた。
戻れる。
今なら、まだ。
(……でも……)
拓海は、
もう一度、異世界の家を見渡した。
梁。
畳。
刀。
庭。
すべてが、
祖父の“もう一つの人生”の証。
「……戻るよ。
でも……必ずまた来る」
その言葉に応えるように、
境界の揺れは、
わずかに静まった。
◆ ◆ ◆
第十二話・完
── 扉は、ついに“向こう側”へと繋がった ──
いよいよ、異世界へ。ご期待ください。
これからも頑張りますので、応援よろしくお願いします。




