第10話 気を巡らせる者
夜は、深かった。
家の中には、もう祖父の気配はない。
けれど、道場の空気だけが――
なぜか、まだ“生きている”ように感じられた。
拓海は、道場の中央に正座していた。
昼間の学校の喧噪が、遠い夢のように思える。
(……本当に、俺は……
あそこに戻れないのか……)
問いかけても、答えはない。
ただ、胸の奥では、
昨夜から何かが静かに“目覚め続けている”感覚だけがあった。
◆ ◆ ◆
【巻物──第一段】
木箱から、祖父の巻物を取り出す。
指先がわずかに震えていた。
紐をほどき、
そっと開いた和紙に、墨が静かに息づいている。
⸻
『第一段 気の巡り』
気は、すでに体に満ちておる。
だが若き者は、それを知らぬだけ。
気を感じよ。
それは力ではなく、流れ。
流れを整えれば、
体は軽く、
理は静まり、
動きは力となる。
気は押し込むな。
気は巡らせよ。
巡りし先に、
“理”は姿を示す。
⸻
「……気を、巡らせる……」
祖父が、口癖のように言っていた言葉。
『力で動くな。流れで動け』
『型は、気を通すためにある』
あの厳しい稽古の意味が、
今になって、少しだけ輪郭を持ちはじめた。
◆ ◆ ◆
【気を探す】
拓海は静かに目を閉じた。
呼吸を意識するでもなく、
型を取るでもなく。
ただ、
“身体の奥”へ、そっと意識を沈めていく。
(……どこだ……)
最初は、何も感じなかった。
音も、熱も、
ただの“自分の体”しかない。
それでも、祖父の言葉を思い出す。
『探そうとするな。
“在る”と信じて、感じろ』
集中を深めた、その時――
腹の底で、
わずかな“温かさ”が揺れた。
(……あ……)
それは、火の熱とは違う。
血の鼓動とも違う。
水が、ゆっくりと流れ出すような、
静かで、確かな感覚。
(これが……“気”……?)
◆ ◆ ◆
【巡りはじめる】
腹の奥で生まれた微かな熱は、
やがて、背中へ、
肩へ、
そして腕へと――
ゆっくり、ゆっくりと流れはじめた。
強引に動かしたわけではない。
ただ、
「流れるのを、邪魔しなかった」
それだけだった。
(……勝手に……巡ってる……)
今まで、
力で、型で、気合で押し込んでいたものが、
すべて無意味だったかのように――
“気”は、自然に身体を一周した。
その瞬間。
足が、軽くなった。
肩の重さが、消えた。
背骨の一本一本が、
まっすぐに整っていくのが、はっきりとわかった。
「……すご……」
声にならないほどの衝撃だった。
◆ ◆ ◆
【扉の反応】
その時――
家の奥、
道場横の廊下の向こうで。
“ドン……”
と、空気が鳴った気がした。
音はない。
だが、“衝撃”だけが、確かに伝わってくる。
(……扉が……)
気が巡った瞬間と、
寸分違わぬタイミング。
まるで、
拓海の中の変化を、
“向こう側”が感知したかのようだった。
(気と……扉が……
繋がってる……?)
胸の奥が、ぞくりと震える。
恐怖。
確信。
期待。
それらが、すべて入り混じっていた。
◆ ◆ ◆
【木刀と“気”】
拓海は、祖父の木刀を手に取った。
その瞬間――
木刀の“芯”を通して、
気の流れが一気に太くなるのが、はっきりとわかった。
「……っ……!」
重さではない。
だが、今まで感じたことのない“張り”が腕に走った。
(木刀が……
気を通してる……)
軽く、素振りを一つ。
ヒュ……ッ
風の切れ方が、昨日までとはまるで違っていた。
速さでも、力でもない。
“通っている”という感覚だけが、確かにあった。
(じいちゃん……
これを……毎日……感じてたのか……)
◆ ◆ ◆
【巡り切った夜】
どれほどの時間、そうしていたのか。
気が巡り、
身体が温まり、
そして、静かに凪いでいく。
疲労はある。
だが、それ以上に――
“芯が目覚めた”感覚が残っていた。
拓海は、ゆっくりと立ち上がる。
ふと、
廊下の奥を見る。
白い壁。
何もないはずの場所。
だが今は、はっきりとわかる。
(……見てるな……
俺のこと……)
扉は、まだ開かれていない。
だが――
確実に“応えている”。
◆ ◆ ◆
第十話・完
── 気は、すでに身体を巡りはじめていた ──
そろそろ、異世界に向けてラストスパートです。
これからもよろしくお願いします。




