プロローグ 白石初代、扉と出会う
プロローグ
天文二十四年(1555) 伊賀国西方の山岳地帯
その日、山の霧はやけに低かった。
湿った空気の中、馬の嘶きと甲冑の軋みが、谷全体 に反響している。
白石弦之丞は、槍足軽の列を抜け、先陣へと進み出 た。
敵は寄せ集めの雑軍とはいえ、砦を背に守りは固 い。
だが、弦之丞は静かに刀を抜いた。
――視界が、線で満ちた。
敵の足運び、刃の角度、息づかい。
それらが“筋”として浮かび、行動の先を示す。
戦ではあり得ぬほどの落ち着き。
だが弦之丞には、これが当たり前だった。
家に伝わる“理の鍛錬”が、彼の感覚を極限まで研ぎ 澄ませている。
「白石殿! 前へ!」
味方が声を張り上げる。
同時に、敵方が雄叫びを上げて押し寄せてきた。
火矢が夜空を赤く染め、
馬が血を蹴散らして駆け抜け、
槍と槍がぶつかり合う。
鉄が擦れ、骨が砕ける音。
足軽の悲鳴。
怒号、鼓動、吐息。
その中を、弦之丞は“舞うように”進む。
一歩踏み込み、
相手の刃が弧を描く瞬間──
理が示す“死の線”を避け、逆に首筋へ斬り込む。
血が霧のように散る。
次の敵が三人横並びで突っ込んでくる。
その足並みのズレから、三人全員の次の動作が読め る。
右は短槍を上段に。
中央は胸を狙い踏み込み。
左は腰だめからの突き。
すべて、見える。
弦之丞はわずか一歩で三つの攻撃線の外へ滑り込 み、
逆に三人の急所だけを正確に切り裂いた。
足軽たちは戦慄し、
「白石殿……あれは人の動きではない……!」
と囁き合う。
しかし、本人は鼻で笑った。
「未熟よ。理が騒いでいる」
そう呟いた刹那、砦の中から鐘の音が響く。
「奴ら、砦に退いた! 追え! 逃がすな!」
敵は山砦へ逃げ込んだ。
岩肌を削った粗末な砦だが、兵力がこもれば面倒 だ。
味方は火矢を放ち、砦門が崩れ落ちる。
黒煙が舞い上がる中、弦之丞は前へ進んだ。
「この戦、ここで終わらせる」
⸻
【砦内部──違和感の始まり】
砦の中は、すでに戦の臭いを超えていた。
土壁には焦げ跡。
血みどろの刀が放り出され、
倒れた兵の眼は恐怖に染まっている。
――逃げながら死んだのだ。
「弦之丞様、この奥です!」
「敵の姿が見えませぬ!」
家臣たちが焦る。
だが弦之丞の“理”は、別のものに反応していた。
耳に届くはずのない音が……胸の奥で震えている。
──波、だ。
空気が、揺れている。
砦最深部の小部屋。
薄暗い空間の中央だけが“歪んで”いた。
それは煙ではない。
光ではない。
陰でも陽でもない。
世界が、そこだけ“折れ曲がっている”。
「……何だ、これは」
家臣には何も見えていない。
弦之丞の理だけが反応する。
奥から、風が吹き出してきた。
砦の中なのに、風だ。
異様な寒気が背筋を這う。
呼ばれている。
弦之丞はゆっくりと一歩を踏み出した。
⸻
【異世界──足を踏み入れた瞬間】
次の瞬間、景色が裏返った。
灰色の空。
赤と黒が混ざった砂。
ふわりと浮く軽い体。
耳鳴りのような、しかし生き物の鼓動にも似た音。
世界全体が、こちらを見ている。
「ここは……」
喉が凍りつく。
見えない“核”の意志が、遠くから脈打っていた。
生き物ではない。
しかし確かに“意思”だ。
――長くいれば、呑まれる。
理が叫んだ。
今すぐ戻れ、と。
弦之丞は反射的に後ろへ跳んだ。
視界が反転し、砦へ戻る。
「弦之丞様!? どうされました!」
「……この先は危険だ。退くぞ。無理に追う必要はな い」
家臣は意味がわからず混乱するが、
弦之丞の顔は今まで見たことのないほど蒼白だっ た。
だが彼は言わない。
誰にも言えない。
あの“異界”の存在を。
⸻
【帰宅──扉は“家に戻っていた”】
戦の後、白石家の屋敷へ戻った弦之丞は、
ふと、廊下で足を止めた。
あの揺れがある。
砦の奥と、同じ揺れ。
――扉は、砦に出たのではない。
弦之丞自身に反応し、
白石家の家に“根付いた”のだ。
「……これが、我が血の宿命か」
弦之丞は揺れる空間を見つめ、
深く静かに息を吐いた。
この秘密は、外に漏らしてはならぬ。
理を持つ者が不用意に触れれば、
あの“闇”に呑まれる。
弦之丞はその夜、
ひとり息子だけに真実を伝えた。
「白石家は、扉を継ぐ。
この家を離れるな。
理を絶やすな。
いつか……我が血の者が、あの異界に踏み込む日が来 る」
彼はその後二度と扉を開かず、
戦を生き抜き、
老いて静かに息を引き取った。
扉は、家に残った。
そして五百年後──
白石拓海の代で、再び揺れ始める。
⸻
完
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話より現代編に入ります。




