89. あの夜、エレベーターが落ちて
あの夜、エレベーターが落ちたなら
彼の指が、私の髪を優しく梳く。耳元で囁かれる甘い声が、全身の細胞を蕩かす。
「…綺麗だ」
ソファに押し倒され、見上げる彼の顔。いつもは憎たらしかったその顔が、今は愛おしい。薄くなり始めた頭頂部も、ストレスで増えたという柔らかなお腹も、少し下がった目尻の皺も、全部。
「課長…」
吐息まじりに呼ぶと、目を細め、彼の唇がゆっくりと近づいてくる。
ああ、まさか。 私が、あのハゲで、小太りで、ねちっこいセクハラ上司の武田課長と、こんなことになるなんて。
半年前の私にこの光景を見せたら、きっと卒倒するだろう。いや、呪詛を吐きながら除霊を試みるに違いない。それくらい、私はこの男が、心の底から、大嫌いだったのだから。
私の名前は高橋美玲、38歳、独身。中堅の食品メーカーで働く、ごく平凡なOLだ。が、私の日常には一つ、巨大なストレス要因が存在した。
それが、営業二課の課長、武田誠、45歳。独身。 特徴は、潔いまでに後退した生え際、中年太りの象徴であるビア樽のようなお腹、そして、獲物を見つけた爬虫類のような、ねっとりとした視線。
「お、高橋さん、おはよう。今日のブラウス、春らしくていいねぇ。咲き誇る花のようだ。今夜あたり、誰かに花びらを散らされちゃうんじゃない?」
出社するなり、これだ。毎朝毎朝、飽きもせずに繰り出されるオヤジギャグとセクハラの中間のような言葉の弾丸。私は完璧な笑顔を顔面に貼り付けながら、後ずさる。
「おはようございます、課長。本日も絶好調ですね。その有り余るエネルギーは、ぜひ新規開拓にぶつけてください」
声のトーンは、絶対零度。周りの同僚たちが「また始まった」と苦笑いを浮かべているのが視界の端に入る。私のこの態度は、社内でも有名らしかった。新人の佐藤さんなんかは、心配そうに「高橋さん、大丈夫ですか?課長への当たり、ちょっと強くないですか…?」なんて言ってくる始末だ。
大丈夫なわけがないだろうが! だいたい、周りの評価がおかしいのだ。「武田課長って、高橋さんのこと特別気にかけてますよね」「なんだかんだ言って、優しい上司じゃないですか」ですって?冗談はよしこさんだ。
あれのどこが優しさだというのか。 私がコーヒーを淹れれば「高橋さんが淹れてくれたコーヒーは、愛のスパイスが効いていて格別だなぁ」と言いながら、距離を詰めてくる。 私が作った資料を褒めるかと思えば「この細やかな気配り、きっと夜の方も…いや、なんでもない」と一人で完結させる。
とにかく、言動の全てがねちっこいのだ。まるで納豆のように、まとわりついてくる。そのくせ、仕事はできるから厄介だ。取引先からの信頼も厚く、部下の面倒見も良いと評判で、社内での評価はなぜか高い。
だからこそ、私の彼に対する嫌悪感は、日に日に熟成され、もはや高級な納豆もかくやというほど、深く、複雑なものになっていた。
「高橋さん、これ、出張のお土産。君には特別に、一番人気のやつ」
そう言って、デスクに置かれたのは、ファンシーなピンクの箱。中身はきっと、ご当地の萌えキャラがプリントされたクッキーだ。そして、私の肩をポン、と叩く。
ゾワッ!
全身に鳥肌が駆け巡る。この、絶妙に湿り気を帯びた手のひらの感触!私は反射的に、半歩飛びのいた。
「あ、ありがとうございます」
声が裏返り、引き攣った笑顔しか作れない。私のその態度に、課長は一瞬、子犬のようにしょぼんとしたが、すぐにいつものニヤニヤ顔に戻った。
「今日の午後、新しい企画の件で話がしたいから、会議室、押さえといてくれるかな」 「…はい、承知しました」
心の中で、私は盛大な舌打ちをかました。よりにもよって、二人で打ち合わせ。蕁麻疹が出そうだ。
この男と関わると、どうしてこうも疲弊するのだろう。私は一体、前世でどんな大罪を犯したというのか。
そんなことを考えながら、私は重い足取りで会議室の予約表へと向かった。その日の夕方、私の運命を根こそぎひっくり返す出来事が待ち構えているとも知らずに。
その日、私は新しい企画書の作成に追われ、気づけばフロアには私と武田課長だけだった。時計の針は、午後8時を回っている。
「高橋さん、そろそろ上がったらどうだ?根を詰めすぎるのは良くない」
背後から、あのねっとりとした声が聞こえる。振り返ると、武田課長が立っていた。
「課長こそ、お先にどうぞ。私はキリのいいところまで」
本音を言えば、一刻も早くこの男と同じ空間から脱出したかった。だが、企画書は明日の朝一で提出しなければならない。私は、再びパソコンに向き直った。
それから約1時間後。ようやく企画書が完成し、私は大きく伸びをした。よし、帰ろう。そう思って席を立つと、まだデスクで何やら作業をしていた課長も、同じタイミングで立ち上がった。
最悪だ。帰るタイミングまで一緒だなんて。
私たちは無言でオフィスを出て、エレベーターホールへと向かう。気まずい沈黙。私は必死にスマホをいじるフリをして、課長から視線を逸らした。
「チーン」という軽い音と共に、エレベーターの扉が開く。私たちは吸い込まれるように乗り込んだ。二人きりの密室。息が詰まりそう。早く1階に着いてくれ。心の中で、私は神にも仏にも祈った。
「お疲れ様。今日の企画書、すごく良かったよ。君の視点はいつも斬新だ」
不意に、課長が静かな声で言った。いつもの軽薄な響きはどこにもない、落ち着いたトーン。
「…ありがとうございます」
素っ気なく返事をしながらも、私は少しだけ驚いていた。この男が、真面目に仕事の話をしてくるなんて珍しい。
私がそう思った、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴッ!!!
突然、足元から突き上げるような、激しい揺れに襲われた。立っていられないほどの、強烈な横揺れ。
「きゃっ!」
私はバランスを崩し、壁に叩きつけられそうになる。その瞬間、太い腕が、私の体をぐいっと引き寄せ、力強く支えてくれた。
「危ない!」
課長の声。私は彼の胸の中に、すっぽりと抱きかかえられる形になっていた。嗅ぎ慣れない、けれど嫌ではない、男性的な匂い。心臓が、恐怖と、そして別の何かで、激しく高鳴る。
揺れは数十秒でおさまったが、ガクン、と音を立てて、エレベーターは動きを止めた。照明が明滅し、予備電源の薄暗いオレンジ色の光に切り替わる。
「……嘘」
私の口から、絶望的な呟きが漏れた。 閉じ込められた。 よりにもよって、この、世界で一番一緒にいたくない男と、二人きりで。
パニックに陥りそうになる私とは対照的に、課長は冷静だった。彼は私をそっと壁際に座らせると、テキパキと行動を開始した。
「大丈夫、落ち着いて」
その声は、いつものねちっこい響きではなく、心に染み渡る、低く、優しい音色だった。彼はまず、全ての階のボタンを押し、開閉ボタンを長押しする。反応がないことを確認すると、非常用の呼び出しボタンを押した。
「中央管理室ですか?営業二課の武田です。第3エレベーターに閉じ込められました。状況を教えてください」
スピーカーの向こうの相手に、彼は淀みなく状況を説明する。その冷静沈着な姿は、普段の彼とは別人だった。私はただ、呆然と彼を見つめていた。
管理室からの返答は、絶望的だった。震度5強の地震で、都内全域の交通機関が麻痺。このビルのエレベーターも全て緊急停止しており、復旧の見込みは立っていない。保守会社のスタッフが到着するまで、最低でも2、3時間はかかるだろう、と。
電話を切った課長は、ふぅ、と一つ息を吐くと、私に向き直って苦笑いを浮かべた。
「…だってさ。少し長丁場になりそうだ」 「そんな…」
どうしよう。この人と、あと3時間も?この狭い箱の中で?想像しただけで、眩暈がした。
気まずい沈黙が、重くのしかかる。私は膝を抱え、ひたすら時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。話しかけられるのも嫌だった。
すると、課長が自分のビジネスバッグを漁り、何かを取り出した。
「これ、食べるかい?万が一のために、いつも入れてるんだ」
差し出されたのは、一本の羊羹とペットボトルの水。
「…いえ、結構です」 「遠慮するなよ。こういう時は、少しでも糖分を摂っておいた方がいい。それに、女性は体を冷やしちゃいけないから」
そう言うと、彼は自分の着ていたジャケットを脱ぎ、そっと私の肩にかけてくれた。ジャケットからは、彼のものと同じ、落ち着く匂いがした。
「…ありがとうございます」
私は礼を言うのが精一杯だった。 何なんだ。いつもみたいに、ニヤニヤしながら「僕の温もりで、君を温めてあげようか?」とか言うんじゃないのか。
羊羹を一口かじると、疲れた体に優しい甘さが染み渡った。気持ちが落ち着いてくる。
沈黙を破ったのは、課長の方だった。
「…高橋さん。いつも、ごめんね」
え? 私は思わず顔を上げた。彼は、私から視線を逸らして言った。
「どうも君に対して、いつも空回りしちゃうみたいでさ。君が嫌がってるのは、わかってるんだけど、つい、ちょっかいを出したくなっちゃうというか…その、…とにかく、不快な思いをさせて、本当にすまないと思ってる」
彼の口から発せられた、真摯な謝罪の言葉。私は、返すべき言葉が見つからなかった。
いつも、ごめんね。 嫌がってるのは、わかってる。
その言葉が、私の頭の中で何度も反響する。 今まで彼から向けられてきた、数々の言動が、走馬灯のように蘇る。
『今日のブラウス、春らしくていいねぇ』 あれは、ただ純粋に、褒めてくれていた…?
『君には特別に、一番人気のやつ』 本当に、私のために、一番良いものを選んできてくれた…?
『今日の企画書、すごく良かったよ』 さっきの言葉も、お世辞じゃなくて、本心…?
私が、勝手に彼の言動を「セクハラだ」「キモい」と変換していただけなんじゃないか? 周りの同僚たちが言う「課長は優しい」「高橋さんを気にかけてる」という評価は、真実だったのか?
冷静に考えれば、そうだ。彼は、嫌がらせをするような人間ではない。部下のミスは自分が頭を下げて庇うし、誰かが困っていれば一番に手を差し伸べる。仕事に対する情熱は、誰よりも強い。
私が嫌っていたのは、「武田課長」という人間そのものではなく、「私にだけねちっこく絡んでくる、ハゲで小太りの上司」という、私が作り上げた虚像だったのかもしれない。
そう思うと、目の前の彼が、別人に思えてきた。嫌いだった、薄い頭も、小太りの体型も、今は頼もしく見えてくる。
彼がぽつり、と続けた。
「君が、入社してきた時から、ずっと見てた」 「え…?」 「一生懸命で、真面目で、時々、無茶するくらい頑張ってて。でも、弱音を吐かなくて。…すごく、魅力的だなって」
彼の横顔が、非常灯のオレンジ色の光に照らされている。その表情は、切ない色をしていた。
「だから、つい、話しかけたくなっちゃうんだ。力になりたいって思うんだけど…どうやら、逆効果だったみたいだ」
自嘲気味に笑う彼の声が、私の胸にチクリと刺さった。 ああ。 そうだったのか。
この人は、ただ不器用なだけだったんだ。 私に向けられていたねちっこい言葉も、鬱陶しいと思っていたスキンシップも、この人なりの、ズレた好意の表れだったんだ。
そう気づかされた瞬間、私の心の中の壁が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
それからの時間は、苦痛ではなかった。 私たちは、ぽつぽつと話をした。彼が学生時代にラグビーをやっていたこと。甘いものが大好きで、休日はカフェ巡りをしていること。仕事で経験した大きな失敗と、それをどう乗り越えたかということ。
彼の話は、どれも面白かった。そして、彼の声は、心地よいテノールの響きで、私の耳に届いた。
3時間が、あっという間に過ぎた。 ガコン、と大きな音がして、エレベーターがゆっくりと動き始めた時、私は、名残惜しいとさえ感じた。
1階に着き、扉が開くと、心配そうな顔をした警備員さんたちが出迎えてくれた。 私と課長は、何度も頭を下げて、無事を報告した。
「じゃあ、高橋さん。気をつけて」 「…はい。課長も」
別れ際、彼はいつものようにニヤニヤするでもなく、ただ静かに微笑んだ。 その笑顔が、なぜか私の胸を、きゅん、と締め付けた。
タクシーを拾い、自宅への帰り道。私はぼんやりと窓の外を眺めながら、ずっと彼のことを考えていた。 あのエレベーターでの3時間。 私の心に起きた、この大きな変化は、一体何なのだろう。
一つだけ、確かなことがある。 明日から、私はもう、以前と同じ目で、武田課長のことを見なくなるのだろう。
翌日。 私の世界は、一夜にして色を変えていた。 会社に向かう足取りは、昨日までとは違い、どこかフワフワと軽い。
フロアに入ると、いつもの場所に、彼の姿があった。 後退した生え際。うん、チャーミングだ。 ビア樽のようなお腹。うん、包容力の塊だ。 ねっとりとした視線。…は、彼の個性だ。
「お、高橋さん、おはよう。昨日は大変だったな。体は大丈夫か?」
彼は私に近づき、心配そうに顔を覗き込んだ。その距離、約50センチ。昨日までなら、不快指数120%で即座に避難勧告が出ていた距離だ。
しかし、今の私は違った。 彼の真摯な眼差しに、私の心臓は跳ね上がり、カッと熱が集まるのがわかる。
「だ、大丈夫です!課長こそ、お疲れ様でした!」
しどろもどろになりながら、私は深々と頭を下げた。課長は、そんな私の態度の変化に、戸惑っているようだ。
その日を境に、社内の空気は微妙に変化し始めた。 今まで、武田課長と私の間には、見えないベルリンの壁がそびえ立っていた。しかし、エレベーター事件という名のハンマーによって、その壁はあっけなく崩壊したのだ。
私が給湯室でコーヒーを淹れていると、課長がぬっと現れた。
「高橋さん、俺にも一杯、もらってもいいかな?」 「はい!もちろんです!」
緊張のあまり、私は盛大にコーヒーの粉をぶちまけた。 「わわわっ!」 「おっと、大丈夫か?」 慌てる私を見て、彼はくすくすと笑いながら、布巾で手際よく後始末をしてくれた。その横顔が、やけに格好良く見える。
飲み会があれば、これまでは彼から一番遠い席をキープしていたのに、今では後輩の佐藤さんと「課長の隣」を巡る、熾烈な椅子取りゲームを繰り広げる始末だ。
「高橋さん、最近、武田課長と雰囲気良くないですか?」 「そ、そうかな?」 「前は、鬼のような形相で睨みつけてたじゃないですか」
佐藤さんの的確すぎる指摘に、私は「そんなことないわよー」と乾いた笑いを浮かべることしかできない。
人の心とは、なんと現金なものだろう。 あれほど嫌だった存在が、今や、気になって仕方がないのだ。彼が他の女性社員と話しているのを見るだけで、胸の奥がチリチリする。
もう、私にはわかっていた。 私は、彼に、恋をしているのだ。
ある金曜の夜。 残業を終えて帰ろうとすると、課長に呼び止められた。
「高橋さん。この後、…食事でも、どうかな?」
おずおずと、まるで中学生が初めてデートに誘うかのように、彼は言った。 その誘いを、断る理由など、どこにもなかった。
私たちは、会社から少し離れた、隠れ家のようなイタリアンレストランにいた。 美味しい料理と、ワイン。緊張で、味なんてほとんど覚えていないけれど。
「…あのさ、高橋さん」 ワイングラスを弄びながら、課長が切り出した。「俺は、君が好きだ」
ストレートすぎる告白に、私はワインを吹き出しそうになった。
「入社してきた時から、ずっと。でも、どうアプローチしていいかわからなくて。本当に、馬鹿だよな、俺は」
そう言って、彼は照れ臭そうに頭を掻いた。その仕草が、たまらなく愛おしい。
「ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
私は、正直な気持ちを伝えた。「私も…課長のことが、ずっと、気になってました。あの、エレベーターの日から」
私の言葉に、彼は目を丸くし、それから、優しい顔で笑った。
こうして、私と、あのハゲで小太りのセクハラ上司こと、武田誠さんの、奇妙で、そして最高にハッピーな関係が始まったのだった。
そして、今。 私は彼の腕の中で、彼の唇が触れるのを待っている。
付き合ってから知った彼は、驚きの連続だった。 肩凝りが酷いと言えば、プロ並みのマッサージで私を癒してくれる。そのゴツゴツした指が、凝りの芯を的確に捉えるのだ。彼の家で手料理を振る舞ってくれた時は、レストランのシェフも顔負けの本格的なイタリアンのフルコースが出てきて、腰を抜かした。 そして何より、彼は、驚くほど情熱的だった。
「まさか、課長にこんなテクニックがあったなんて…」 私が吐息混じりに呟くと、彼はニヤリと笑って、私の耳元で囁いた。
「俺のこと、まだ何も知らないみたいだな美玲さん。これから、たくさん教えてあげるよ。俺の、全部」
その甘く、少しだけ意地悪な声に、私の体はもう、なすすべもなく蕩けていく。
ああ、本当に、人の心なんてわからないものだ。 あれほど大嫌いだったはずの人に、こんなにも骨抜きにされてしまうなんて。
でも、もし、あの夜、あのエレベーターに閉じ込められていなかったら。もし、彼が、本当の気持ちを打ち明けてくれていなかったら。 私は、このとろけるような幸せを知ることは、永遠になかっただろう。
「…誠さん」
私は彼の首に腕を回し、その唇を、自ら迎えにいった。
静かな夜。 私と彼の、甘くて長い夜は、まだ始まったばかりだ。