パルメザンオレンジ
機内にまだ生命が残っていることを知らせる甘いアラートが、シートからシートへと波状に駆け巡る。「私の腎臓が! 私の腎臓が!」耐えきれず騒ぐB席の老人と、その隣に身をかがめ、目の裏にまで涙をこらえる母親。その胸に強く抱かれた子供はまだ幼い。マジメっぽい会社員の男のキータイプに迷いが生じている。誰しもがこれだけの異常事態にパニックを起こさないでいられない。あるいはその場にじっと座り込んで内から湧きあがる死の恐怖をしばらく耐え忍んでも、あらゆる騒ぎと怒りが浸透したこの旅客機はいずれ墜落するのだった。
──僕の家の近くには背の高いトウモロコシ畑が広がっている。そのトウモロコシ畑の中を、さっき落ちてきたばかりの飛行機の乗客たちが、散り散りになって奔走していた。墜落の振動で揺れた壁掛けカレンダーにはマークすらないが、明後日の水曜日が僕の誕生日だった。僕は外の騒ぎに気を取られないように、パソコンのデスクトップに並べてあるゲームのショートカットアイコンの配置を替えたりしてみる。油彩画風に『R』とだけ書かれた青いアイコン、ジャガイモの乳幼児みたいな顔をしたおちょぼ口の喫煙者のアイコン、赤と黒の2色までに抑えられた辛うじて美少女キャラだと分かるドット絵のアイコン……見慣れて来たのでどれもゴミ箱へ送ってしまう。
そんなことをしている間に外の騒ぎは割と収まっていた。とっくに日が落ちて夜だった。トウモロコシ畑から近くにある居酒屋は普段よりも繁盛しているようだった。窓を少し開けて、空に雲が一つも浮いていないのは、今日の飛行機の墜落と関係があるのだろうか。
この窓からは時々、隣の家の2階の部屋を覗き見できることがあった。その2階の部屋に暮らしている女の子が不用心で、夜に気持ちよくカーテンが開いていたりすると、僕は内心悪いことをしている自覚がありながらも、結局この覗き趣味を止めることができないでいた。そして今夜は念願のその日だった。息を潜めて覗いていると、女の子は部屋に知らない男を招いていて、それで僕はやっとハッとして窓を閉じカーテンも閉じ、この日はもう隣を覗くことはしなかった。PCを立ち上げた。
朝日が昇り、だらしないベッドの中、そろそろ明日は僕の誕生日だということを思い出していた。周りで祝ってくれる人は誰もいなくなったけれど、毎年自分一人だけでもワクワクしてしまう性格が無性に気持ち悪い。僕は昨日起きた飛行機の墜落が、人生に何かしらの衝撃を与え、人生の何かしらを変えてくれるんじゃないかという想像力だけは一人前だった。明らかに短編小説を読み過ぎていた。跳躍力のある文才に物を言わせて高速で語られるストーリーを目の当たりにし、現実感を喪失していた。生活において自重すべき点が多すぎて、もう目が覚めているにも関わらず僕はこのまま瞼を開くことが億劫で怖くてたまらなかった。腹の上に掛けた薄い布団越し、壁越し、道越しトウモロコシの畑越しに、昨日壊滅した飛行機がまだ片付けられていないことが何となく察知できる。フランシス・ウィードの乗ったミネアポリス発の飛行機が、東に向けて悪天候の中に突っ込んでいったところから話は始まった。