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夢と現実の境界線

作者: 雪芳

 清隆は夢を恐れている。いつも決って同じ夢を見る清隆は、さよりに会うのを恐れている。


 その日も清隆は彼女に出会った。彼女は決って、踏み切りの前で雨に打たれている。

 泣いているのか、笑っているのかさえ定かではない朧気な表情で彼女は、清隆を一心に見つめ、なにかを呟いている。清隆には声が聞こえない。彼女の言葉を耳に入れようと片足をあげる。

 と、その時、ふいに彼女の頬に赤い光が差し込んだ。


 踏み切りのランプが点滅する。危険を知らせる冷たい音と共に、彼女と清隆を区切るように遮断機が下りる。

 大地が洪笑し始め、危機が悲鳴をあげながら近付いてくる。

 死が激音と共に走り寄ってくるのに、彼女は微動だにせず清隆を凝視し唇を震わせていた。その姿の異様さに、清隆はあとじさる。

 あぶない。あぶない。あぶない……!


 ――次の瞬間。鉄と光の固まりに横凪にされて、さよりが消え去った。




 ぞっとして体を起こすと、大量の汗をかいていることに気付いた。

 呼吸も荒く、苦しい。呼吸の方法を忘れたように何度も咳き込むと、ようやく怖気の代わりに血がみなぎってくる。

 刹那。彼はベット脇にある時計を掴むと、力一杯、床に投げつけた。

 不快音と共に散らばる破片が彼の不安げな、しかし、怒りにも満ちた表情を映す。

 何度も観たというのに夢だということを忘れる己の愚かさ。名前しか分からない自殺志願者さゆりの存在。それらはいつも、夢の明けた彼を苛立たせる。


 清隆は布団を乱暴に蹴って立ち上がると、熱っぽい体をコートに納め、玄関へ向かった。破片で傷付いた、己の素足にも気付かずに。



「全く、迷惑な話ね」

 警視庁一課の女刑部、嘉納は、パスタを箸に巻きながら溜め息をついた。彼女は今、面倒な事件にかかわっている。


 踏み切り殺人という名で誌面を踊るその事件は実に奇妙なものであった。


 まず最初に、被害者に共通点がない。職業も住まいも、年齢さえもてんでバラバラである。唯一の共通点といえば、女性であることくらいだ。

 次に、現場が同じであること。犯行時刻はまちまちなものの、現場はいつも一緒であった。駅から十分程度歩いたところにある踏み切り。ちょうど繁華街のはずれで人目が少ないものの、交通量は多い。

 最後に、凶器が電車であること。被害者の死因は総じて轢死であり、それ以外の痕跡は全くない。最初は、自殺の線で捜査されていたほどだ。


 つまり、被害者はみな善良な市民であり、全くの理由なく、とある踏み切りに置き去りにされ、殺されている。薬物や道具といった痕跡はひとつもなく、被害者はただ同じ踏み切りで気絶しているだけである。

 いや、もうひとり。交通という最大の被害者がいたか。


 奇妙な事件であったが、嘉納の独自的な捜査線上には、一人の男が浮かんでいた。捜査本部が真っ先に無関係と判断した男。嘉納には長年の直感があり、どうしてもその男が気になっていた。

 だが、一歩を踏み出すにはまだピースが足りなかった。何しろ極めて曖昧な目撃情報だけなのだから。

 そもそも動機はなんなのか。愉快犯か、猟鬼殺人なのか。それすらも分からない。

「お陰でゆっくりパスタを食べる暇もないのよ、清隆君」

 嘉納は、パスタ店の中を横切る清隆にガラスごしのまま微笑みかけると、素早く腰をあげた。


 落ちかけの太陽に夜が覆い被さり、空が血の色をしている。その緋色を泳ぐように、清隆は街を歩いていた。

 次第に夜の闇が増え、人の数が減少する。嘉納は隠れるように清隆を尾行した。嘉納の勘は当たった。清隆は確実に、例の踏み切りに向かっている。


 清隆がついに、踏み切りの前に立ち止まった。踏み切りには、沢山の花がたむけられている。清隆はそれを、無表情で見下した。僅かな橙色の光を反射して、花が小さく揺れる。

 嘉納は、それを見やる。


 何を思っているの。あなたが殺したのならば、手向けられた花に何を思うの。その心の闇はどれほど深いの。どれほどの闇を体にしまいこんでいるの。

 ――まだ十五歳に満たない、その体で。


 嘉納が考え込んでいると、清隆の前から女が近付いてきた。途端に、清隆が痙攣するように顔をあげる。嘉納もまた、身構える。


 清隆に向かって、反対側からゆったりと歩いてくる通行人らしき女は、二十代後半、嘉納と同じくらいの年齢に見えた。不思議なことに彼女は、いわく付きの踏み切りを前にして平然としていた。

 否、まるで生気をとられたかのような気だるい表情で、踏み切りに足を踏み入れる。

 そして、立ち止まった。


 間を置かず、赤いランプが点灯を、鐘が危険を叫び始める。

 嘉納は自身の目を疑った。清隆は指ひとつ動かさず立ち尽くしているというのに、女は踏み切りのど真ん中で立ち止まっているのだ。

 バーが下がる。このままでは確実に、死ぬ。


 まさか、自殺志願者か。

 嘉納は走り出した。

 遠い。清隆に気付かれまいと、踏み切りとの距離を予想よりとりすぎていた。それがあだとなった。


 激震。


 鉄と鉄が激しく摩擦する音、まばゆい光の奔流と共に、女性の姿が消え去る。

 ぱきぱきと、枝が折れるような音が続いた。組み敷かれる、人間が鉄の塊に蹂躙される。人がひとり、目の前で「死んで」ゆく。


 それと同時に、清隆が倒れた。


 調べによると、踏み切りで死んだのは自殺願望の無い健全な女性だった。そして清隆とは全く面識がなかった。

 その事実は、次の事象を差し示すに十分である。


 清隆は殺人犯ではなかった。愉快犯ではなかった、それどころか加害者ですらなかった。

 そして清隆への盲心が、痛烈なミスを生んだ――。


 病室のベットに眠る清隆の、白い横顔を見つめながら、嘉納はほぞを噛んだ。


 清隆は極度の睡眠不足による赤血球欠乏症に陥っていた。僅かな運動で貧血を起こす状態であり、つまり、誰かを殺す体力など元々なかったのである。

 そして何より、彼女のあの死に方。


「一体どうなっているの」

 嘉納が混乱気味に呟くと、それに反応するように清隆の眉が歪んだ。

「片瀬清隆君?」

 名を呼ばれ、清隆が薄く瞼を開ける。充血した、だが穏やかな視線だ。

「はい、……ここはどこですか」

「赤十字病院。あなたは貧血で運ばれたの、私は」

「刑部さん」

 意外な言葉に、嘉納は瞠目した。

「気付いてたの」

「尾行があまり上手くないみたいですから。最初はストーカーかと」

 とんだ恥じさらしだ。嘉納は素直に赤くなった。

「気付いてたら言ってくれればいいのに」

「僕を捕まえに来たんですか、って? でも、あなたもあれを見たんでしょう」


 曖昧な微笑。

 なんと大人びた、疲れきった表情をする子どもなのか。造形が深いことも伴い、まるで繊細な人形のようだ。触れたら壊れてしまいそうな、ガラスのような。

 嘉納はゆっくりと、言葉を選び始めた。


「私は嘉納由利。警官をもう十年近くしているけれど、あんなのは初めてよ」

「誰もが初めてでしょう。だけど、僕は初めてじゃない」

 語尾が重い。嘉納はわざと義務的に続ける。

「踏み切りの事件……半年前くらいからよね。最初は、あなたの恋人だった」

「はい」

「付き合ってどれくらい?」

「次の日、です。彼女が告白してくれて、その翌日、夜に……」

 清隆がくちごもる。伏せられた睫が揺れた。


「ごめんなさい」

 嘉納は瞬時に頭を下げた。

「なんで謝るんです」

「だって、あなた怒ってるわ」

 嘉納の言葉に、今度は清隆が目をしばたいた。

 清隆は元来、怒らない性格だと思われている。怒る代わりに、嘆く数が多いと。だがそれは間違いだった。本当は、諦めが早いのと、表情を出すのに時間がかかるだけのこと。だが、彼が実は悲しむよりも怒ることの方が多いことを、彼の両親も知らない。


「嘉納さんは尾行は下手ですけど、感情を汲み取るのが上手なんですね」

「そうかしら。刑事には致命的なようだけど」

「でも、お陰で……」

 言葉を飲み込む清隆、嘉納は穏やかな口調で尋ねた。

「大丈夫、全部話して。私は信じるわ」


 刑事として育んだ直感が、彼と事件との糸を紡いだ。その糸は今、千切れそうなほど細いが、だが確かに彼を守るべき者だと訴えている。それが何かは、判らないが。


「はい。言います。僕は、彼女のことを……」

 そう言って、清隆は手で唇を覆った。肩がぶるぶると揺れている。

 嘉納は彼が落ち着くよう、ベット脇に置かれたペットボトルを開封すると、手渡し、彼の背を摩った。


「私でよければ、何もかもを話して」

 嘉納にとって、すでに仕事というより願いに近かった。何故か目の前で人が死に続けるという酷な日々を送る少年の、枷を少しでも外したかった。

 その切なる願いが届いたのだろう、清隆は飲料を一口飲むと、つとつとと語り始めた。


「彼女から告白を受けて、僕は付き合い始めました。まだ好きになるかどうか分かってませんでしたが、彼女は明るかったし、彼女といると楽しかったから、僕は告白を受けました。その夜のことです。僕は初めて、さよりと出会いました」


 ロングの茶髪を伸ばした端正な顔の女性、さより。

 どこの誰かさっぱり分からない彼女を、だが清隆は名前だけ知っていた。


「何故か分かりません。だけど彼女の名前だけ、僕は知ってるんです、さよりって。だけど僕はそれが誰か分からないんです」

 やがてさよりは、決って清隆を踏み切りまで連れていく。雨の中、清隆は全く疑いもせず、素直に彼女についてゆく。


「その後、彼女は僕を踏み切りの前に立たせると、自分は踏み切りの中に入っていくんです」

 そして清隆を一心に見つめながら、彼女は何かを呟き始める。そのまま、遮断機が降下する。来るのは電車。高速の鉄槌。そして確実な、死。


「彼女が夢の中で死ぬと、必ず誰かもあの踏み切りで死ぬんです。僕が見てても、見てなくても、死ぬんです。僕はいつも動けなくて、怖くて動けなくて、助けることが出来なくて」

 嘉納はその時、なぜ清隆が自分の尾行を誰にも伝えなかったのかが分かった。彼は嘉納に、彼女達を止めてほしかったのだ。正体のわからない奇妙な夢に翻弄されるだけの自分、なんの理由も無く犠牲になる女性たち。

 嘉納はそれに、答えてやれなかったのだ。


「もう、いいわ」

 嘉納は清隆の手を握り、声を遮った。彼に話を続けさせるのはあまりに酷だ。彼にとっても、自分にとっても。

「分かったわ。必ずあなたの夢に出てくるさよりを見付だしてみせる。そして、こんな悪夢を止めさせてみせる」

 無茶だ。相手は夢なのだから。

 未知で奇妙で曖昧で、恐ろしく不確かで理解不能な。

 分かってる。

 だが、だが。嘉納は自分に責任があるような気がした。彼を守る義務があるような気がした。

 あれを見て、とめられなかったのだから。

「絶対に、あなたを救うわ」

 嘉納は自分を奮い起たせるように、言った。

挿絵(By みてみん)



 六本木超高層ビジネスビルの最上階、そこに嘉納と、清隆の父はいた。

「それで私に何の用事なのですか、刑事さん」

 清隆の年齢を考えると幾分か年を取りすぎているようにも思えるが、目がよく似ている。

 しかし眼孔の鋭さには、清隆のような純朴さや暖かみがひと欠片も見当たらない。目をあわせただけで品定めされているような感覚がある。そして無意識に主従関係が結ばれるような気がする。

 日本のIT企業のトップに君臨する男性には武器とも言える眼力。だが嘉納には、清隆の目の方が魅力的に思えた。

「清隆のことでユスる気なら、金を払おう。まぁ、調べればよく判ることだろうが、あの子は偶然自殺現場をみているだけだ。訴えても意味はないぞ。ただの風評で終わるだけだ」


 この男は、――いけすかない。

 一瞬、潜在的な嫌悪感が浮上する、飲み込む。今は彼の態度に左右されている場合ではない。嘉納は二、三、考えると、最も清隆に関係のある質問からはじめた。


「おたずねしますが、清隆さんとなぜ一緒に住んでいらっしゃらないのですか。彼の精神は非常に不安定です」

「清隆が精神異常者だと?」

「そういうことを言ってるんじゃありません。お子さんがあんな状態で、なぜ一人にさせるんですか。彼は夜も眠れないで体を壊しかけているんですよ」

「それがどうした。うちは放任主義だ。独り暮らしをさせてるのは清隆だけじゃない、全員だ。末の子もね。人の子育てに首を突っ込まないで頂きたい」

 なんという親だろう。放任主義ではなく、これではネグレクトではないか。


 あんまりです、と言おうとして口をつぐんだ。あくまで今日は、今まで嘉納が調べてきたことと清隆を結ぶ裏づけが欲しくてアポイトメントをとったのだ。痴話喧嘩をしに来たわけではない。警察としての立場を利用しても、忙しいこの男、長時間は話せないのだから。

「では、別の話をしましょう。少し片瀬さんの家を調べました。清隆君は……清隆君だけ、養子ですね」

 片瀬の眉がピクリと反応する。やはり。

「あなたは、さよりさんという女性を知っていますよね」

「どこで知った」

 やはり、そうなのか。


 この数日間、嘉納は清隆と例の踏み切りについて徹底的に調べていた。するとすぐに、踏み切りで自殺した女性の中に「さより」という名前を見つけた。

 今から約十年前に自殺していたさゆり。彼女には出産による入院歴があった。だが、子どもを育てていたという話は一切無く、本人も独身として暮らしていた。


「清隆君の、お母さまですね」

 低くうなるように、片瀬が口を閉ざして嘉納を睨みつける。勘が当たったのだ。嘉納は腹に力を込めて平静を保った。

 動揺を悟られていけない、まるで、何もかも知っているようにしなければ。何もかも知っているかのように、譜を打つのだ。

 嘉納は更に続けた。


「清隆君には一度、誘拐の経験がありますね。報道規制により資料はありませんでしたが、当時の家政婦から証言を貰いました。そして三日の後、ある事件現場で発見されています。さよりさんが」

 そこまで言ったところで、片瀬は嘉納の言葉を遮った。

「愚かな女だったのだ」


 嘉納の態度に観念したのか、片瀬が椅子に深く背を沈める。その額には汗が滲んでいた。

「水女の癖に、私の金目当てで清隆を孕み、産んだ」

「親権を奪ったのですか」

「違う。そんな子などいらん、と言ったら、玄関に置いて行ったのだ」

 なんて親だ。清隆は父親にも、母親にも見捨てられているのだ。産まれる前から、ずっと。

 思わず、感情がこもる。

「さよりさんは……あの踏み切りで亡くなりましたね。清隆君の目の前で」

 片瀬は拳を握り締めた。

「あれは愚かな女だ! 金に目がくらんで清隆を誘拐したのだ! 挙句の果てに怖じ気付いて清隆の前で自殺した! あの子はな、あの子はな……」


 ふいに、片瀬の目に涙が浮かんだ。しかし一瞬で、元の冷たい瞳に戻る。


「清隆はそのことを覚えておらん」

「潜在的に覚えていたのではないですか?」

「知らん! あいつはあれ以来、人形なのだ! 感情を押さえた――」

 そこまで叫ぶと片瀬は立ち上がり、

「もう帰ってくれ、お前のような女はいけすかん!」

 嘉納と決裂した。


 一階のオフィスを出て最上階を見上げる、見上げれば見上げるほど、光を反射しながら空へ霞んでいく摩天楼。

 清隆の父はその天辺にいる。そこから色々なものを見下ろしながら、自分の息子さえ遥か上空から見下ろしながら、彼は何を思うのだろう。

 夢想し、嘉納は頭を振った。感情は関係のないこと、今は情報だけが真実だ。片瀬との面会は、さよりについて予想以上の収穫になった。


 だが。だが、しかし。


 これを、清隆の夢と女性達の理由なき自殺に結び付けことはあまりにも難しい。

 科学的根拠も何もない、あまりにも非現実な事件。夢は暗示、理由なき自殺は催眠術、そんな馬鹿馬鹿しい話もあるはずがない。

 いや、それ以上に馬鹿馬鹿しい――。


 嘉納は溜め息を吐きながら、署の資料室にある棚、お蔵入り、と呼ばれるその棚に納められた資料を思い出していた。その中には、今回の事件と同じく、あまりにも非現実かつ底知れぬ奇妙さをもち、ゆえに解決出来ず時効になった事件もいくつかみられた。

 ひとつの痕跡もなく人が消えた事件、完全なる密室で起きた殺人……、清隆の事件は、それらの、

「説明がつかない」

事件によく似ている。

 嘉納には推測があった。でも、“でも”だ。

 もし本当に“そう”ならば。それらとこの事件を結んでしまうのなら。

 この事件は私には解決出来ない。出来るはずがない。


「どうしたらいいの」

 嘉納は、絶望的な気分で頭を掻いた。その時、胸ポケットが震えた。

 携帯。画面をみると、清隆という文字が点滅していた。何かあったら連絡を入れて欲しいと教えた、個人の携帯電話。すぐに通話ボタンを押す。

「はい、もしもし」

「……嘉納さん? 今どこ?」

「そうよ。この前、話通り色々調べて歩いているのだけど。今、あなたのお父さまと……」

「やばいんだ」

 低く、重たい声。何事か。

「どうしたの?」

「すごく――眠い。あの夢を見そう」


 あの夢。

 それは、つまり。

 嘉納の体を焦りが走る。清隆があの夢をみたら、また誰かが死ぬかもしれない。

「清隆くん、よく聞きなさい。さよりが誰か分かったの。さよりさんは、あなたの本当のお母さまで」

「……え? なにを……」

 駄目だ。電話口では言える話ではない。清隆の家まで、ここから走れば十分ほど。自分が急げば。

「いいえ、すぐに行きます。待ってて。切るわよ」

 二つ折りの携帯を畳み、ポケットに突っ込む。すぐさま嘉納は、走り出そうとした。


 だが。

 奇妙なことにそれ以上、体が動かなかった。

 まるで突然、石にでもなってしまったかのように、全く動かない。力を入れることさえ、出来ない。

 ふいに、うなじに生ぬるい風が吹いた。吐息のような、――否、人の気配があった。

 重苦しい、泥のような。


 嘉納の意識は、そこで断ち切られた。



 油に沈めた血のような空に、わびしい雨がふる。清隆は、踏み切りの前に、いた。

 避難を告げる音が割れるように響き、枕木がケタケタと笑う。不快音に体をまさぐられながら、清隆は再び、さよりと対峙していた。

 遮断機と遮断機の間、死を約束するその狭間で、さよりは清隆を見つめ、何かを呟き続ける。それに打たれるように立ち尽くす、清隆。

 轍をひっかきながら、鉄塊が向かってくる。だが動かない、動けない。

 そして。


「清隆」


 鉄の叫喚に散らばる、その声を、聞いた。


「あんただけ幸せになるなんて許さない」




 空気を求めて水中から上がるように清隆は目覚めた。

 床。俺は床に倒れてたのか。

 ぐっしょりと汗で濡れた体が、懸命に酸素を取り込もうと激動する。止まらない咳、朦朧とする意識の中で、清隆は衝撃を受けていた。


 ……さよりが喋った。


 夢の中で初めて、さよりの声を聞いた。言葉が球体ならば、悲哀の薄皮の下にマグマのような憎悪を隠した、と形容出来るだろう。そしてそれは、はち切れんばかりに膨らんでいる。怒りに満ちたあの声が脳内を駆け巡る。

「あんただけ……幸せに、なるなんて?」

 どういう意味だ。これはどういう意味。

 考えてふと、違和感を覚えた。自分は今、さよりの声を聞くのは初めてだと思った。

 本当にそうか? 本当にそうだったか?


――清隆君、よく聞きなさい。さよりが誰か分かったの。あなたの――


「嘉納さん……」

 唐突に体を貫く予感。

 弾けるように、清隆は走り出した。




 太陽は既に沈み、星のない空をひび割るように丸い月が浮かんでいた。

 痛いくらいの焦燥感にかられ、無我夢中に走りだした清隆の前に黒と黄色のゼブラが見えた頃には、不思議と月は消え、小雨が降り始めていた。ようやく、踏み切りと闇との輪郭が定かになろうというくらい近付くと、心臓の痛みはピークに達した。

 ――幸せになるなんて許さない。

 あの言葉の意味を激烈に理解する。


 踏み切りの中には、嘉納がいた。


「嘉納さん!」

 魂を喪失したように屹立する嘉納の名を清隆が叫ぶ。嘉納はぴくりとも反応しない。走りながら清隆は祈った。

 来るな、来るな――。


 祈りは通じない。

 信号が鐘を鳴らし始める。

 赤いライトが湿ったアスファルトを染める。

 雨を切るように、嘉納を縛るように、遮断機がゆっくりと降下する。

 やめてくれ。やめてくれ。


 いつもは動かない足。いつもは動かない体。

 魔性のものに翻弄されて、痛みすぎた心は血を失ったように麻痺して、

 ぐるぐるぐるぐる同じことを繰り返し、

 運命を受け入れるだけの体。

 あんなものに、あんな言葉に。


「嘉納さん!」

 清隆は踏み切りに飛び込んだ。


 電車が奇声をあげる。

 銀色の爪で世界を引っかき、光の粒子を撒き散らしながら踏み切りを渡る。音と光の濁流の中、轟音そのものとなって通り過ぎる。悪魔がその肉をちぎられるような悲鳴を引きずって、巨大な鋼が疾駆する−−。



 後には、静寂だけが残った。


 低くうめいて、嘉納は目を覚ました。

 意識がたゆたい、視界は白い汚濁の中にあるようだった。


 息が苦しい。誰かが自分の腹の上に乗っかっている。

 そう思って目線をずらすと、清隆の顔が映った。激しい雨に打たれて濡れ続ける黒髪の奥に、あの穏やかな瞳がある。

「嘉納さん……」

 素朴で、純粋で、自分が気になってしょうがない笑顔が。


「清隆君?」

 その疑問を聞くないなや、清隆は嘉納を抱きしめた。混乱を丸ごと抱きしめるような強い抱擁。ぼんやりと嘉納は、ああ、結構、子どもってほど小さくないのか、と思った。

「嘉納さん、痛くない? 大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫? なんだけど、え? 私、何かした?」

 ぼんやりしながら、嘉納は記憶をまさぐった。男の子に道端で、しかも雨の中押し倒されるなんて、どのような経緯で起こるものなのか。


 朝早く起きて、六本木に行って、清隆の父に会って、おんだされて……。


「清隆」

 そう、この声を耳たぶで聞いた。

 嘉納は踏み切りに目をやる。だんだんと鮮やかになる視界、踏み切りの中に見知らぬ女性が立っていた。

 嘉納の体がぞわりと粟立った。それが誰だか、一瞬で分かったからだ。

「さより」

 そこには、清隆の母であるさよりがいた。写真で何度も見た、つりめがちの美しい女性は、アスファルトから浮かぶ霧の中、鬼のような形相で嘉納と清隆を見下ろしていた。陰湿で恨めしげな目、殺意に満ちた頬をもって。

 清隆はそれに気づくと、嘉納を庇うように前に出て、言葉をついた。ひどく緊張した、だが強い意思に張りつめた声色で。


「さよ、――お母さん」


 お母さん。その言葉に、嘉納は息苦しくなる。

 清隆は聞いている。嘉納が言い直した直後の、あの疑問符は、問掛けではなく戸惑いだったのだ。

「この人から聞いた。あなたは、俺の、」


「清隆」

 顔色ひとつ変えず清隆の言葉を遮り、さよりは呟く。

「あんただけ幸せになるなんて、許さない」

 指先で二人を差して。

「その女は、邪魔だ。その女は、死ぬべきなんだ」

「嘉納さんは殺させない!」

 牙を向くように清隆は言い放った。


「あんたなんかもう怖くない、あんたは怒りに満ちた、ただの人間だ!」

 清隆は激怒しながら立ち上がる。両手をひろげ、嘉納には触れさせないという意思を強く表しながら、足に力を込める。

「あんたなんか、いや、あんたは――」

 清隆の眉根が悲痛に歪む。

「俺と同じ、ただ怒りを押し込めるだけの弱い人間だ!」


 清隆は、叫んだ。

 さよりは、ただ怒りを押し込めるだけの、弱い人間だと。


 その言葉を聞いて、嘉納は思った。そして知った。

 清隆がなぜ、怒りを感じている時に声を荒げないのか、なぜ悲しい表情をするのか。


 諦めている。

 諦めているのだ、清隆は。怒りを表すことに、諦めている。


 ふと、嘉納は清隆の父を思い出した。


 彼は清隆を、ただ一人きりにしていた。

 清隆はそのことに対し、怒りを感じなかったのだろうか。

 ――感じたはずだ。

 彼は怒りっぽいのだ。自分の孤独な環境に、理不尽さと怒りを感じたに違いない。だが、怒らなかった。なぜだろう。


 違う、怒った。彼は怒ったのだ。ただ、怒りを表すには、彼は孤独すぎた。父に拒絶されすぎた。 だから、怒りという感情の発露を諦めたのだ。


 そう、父は清隆を拒絶した。


 ――あの日以来、人形なのだ。


 彼はそう言った。

 目の前で人が死んだショックで、清隆は人形のように

「感情を表しにくい子に」

なったのかもしれない。

 そのことで彼は、清隆の扱いに困り、彼を拒絶したのか。


 拒絶。


 一人、マンションに住まわせ。

 ――ただし、警備の整った高級なマンションに。


 拒絶。

 生活費を与えるだけ。

 ――ただし清隆の服装をみればわかる、独り暮らしには多すぎるくらいの生活費。


 拒絶。


 相反する。


 愛情。



 なんて無器用なんだろう。

 愛するが故に、かける言葉も、交える目線も見失って、すれちがった。交差する愛情は怒りを隠して、心の奥深くにしまいこんでしまった。

 そして、人間。

 清隆はさよりを、人間だと言った。憤怒に燃えたさよりを、人間だと言った。

 清隆は自分の、底なしの怒りを認め、自分もさよりも同じだと思ったのか。それとも母だと知り、正体不明の恐怖を受けとめたのか。

 なんにせよ明確に言えることは、清隆はさよりを、怒りに満ちたただの人間だと判断した。そして今、戦おうとしている。

「弱い? 私が弱い?」

 仮面のようにべっとりとついた憎しみをそのままに、さよりが首を傾げる。

「そうだ。弱い、あんたは弱い」


 清隆の言葉に、さよりがクック、と喉を鳴らした。

「清隆。十何人も女を見殺しにしたあんたが、私にそんなことをゆうの」

「俺は、」

「夢でさえも私を見殺しにするようなあんたが!」

「そうだよ!」

 さよりの激怒に、清隆は絶叫した。

「あんたも俺も弱いよ! だけど俺は、あんたなんかに負けない!」

 清隆は一歩、さよりに近付いた。


「自分の弱さに負けて、勝手に死んだあんたなんかに負けない。嘉納さんは渡さない。ふざけんなよ」

 更に清隆は、さゆりに向かっていく。


「救われたいならそう言えばいいのに。愛されたいならそう言えばよかったのに」

 清隆が近付くにつれ、変化するさよりの顔。


「言えば良かったんだ、あの人に。好きだって。言えば良かったんだ、俺に。母親だって」

 怒りではなく、困惑に。

「来るな、来るな……」

 後ずさる。


「自分の気持ちを、言わなきゃ何も伝わらないのに。愛してって、言えば良かったのに!」


 清隆はラインを越えて掴みかかった。

 さよりへと。


 悪夢の原点、自分の母親へと――!





 雨が降る。

 滝のように打ち付けて、全てを冷たく濡らす雨。

 アスファルトをひた走って、吸い込まれることなく、ただ溢れかえる雨が降る。


「清隆君」

 踏み切りの真ん中で膝をつき、掌をつく清隆の背中を見下ろしながら、嘉納は清隆の名を呼んだ。


「清隆君」

 歩みより、嘉納もまた膝をついて、清隆の背をさする。その肌は雨に濡れてゴムのように温もりがない。それでも僅かに揺れる心臓が、嘉納の指先に安心感をもたらす。


「清隆君」


 雨が降る。

 踏みきりに砕かれた沢山の無情なものを、解きほぐすような雨。大河のようにめぐって、鉄の轍を埋めつくし、敷き石へと流れ、密やかに沈んでゆく雨。


 その雨の中に、もう、さよりの姿はなかった。





 確かにあの日も、雨だった。

 視界が薄皮を敷いたように不鮮明なのは、それが幾重にも重なった記憶の最深部にあるためかもしれない。白む。ぼんやりとした。だが不快はない。不安もまた、ない。

 その画面の中で、清隆を囲む世界は何もかも巨大だった。大人はみんな、清隆の背丈の何倍もあり、清隆と目線を合わせるときは体を折り曲げねばならない。


 そう、その女性は、小さな清隆のために深く腰を下ろしてくれた。


「清隆君」

 幼稚舎の迎え。彼女は具合を悪くした家政婦のために、代わりで清隆を迎えに来てくれたのだ。とても綺麗な女性で−−その当時、小さな清隆の世界には、美しい女性は自分の母親以外いなかったが、その女性はなぜか美しいことを認められた−−、とても優しく、手を差し伸べてくれた。

 名前はそう、さより、と言った。


 さよりは、まず、清隆に雨具を一式買ってくれた。清隆が好きな赤色のレインコートに、赤色のゴム長靴。そしてそれを着せると、外で遊ばせてくれた。


 清隆は喜んだ。なぜならいつも、外は危険だからと大人たちは遊ばせてくれないからだ。また、幼稚舎が終わると、お稽古事があった。英会話、ピアノ、そろばん等、幼い清隆は様々なことを学んでいた。だから当然、遊ぶ時間もない。


 だけれどさよりは、お休みだからたくさん遊びましょう、と言ってくれた。

 清隆は公園でたくさん遊んだ。触れたことのない遊具だらけで、そこは玩具箱をひっくり返したように魅力的だった。

 喜んで遊ぶ清隆を、さよりはベンチに座りながら見つめていた。

 そういえば彼女は、清隆に雨具を買ってくれたのに、なぜか傘一つ差していなかった。

 寒くない? と清隆が尋ねても、清隆といるから大丈夫だと、不思議な返事をしたまま、やはり傘一つ指さないのだった。


 薄暗くなって、時計の針が寂しげな数字を挿す頃になって、さよりは清隆に「帰ろう」と言った。

 さよりは清隆の手をとって、ゆっくりと歩き出した。氷のようにぬくもりのない手だったが、清隆は手を繋ぎ続けた。それが当然だと思ったから。

 清隆の家は、駅近郊の一等地にあった。ちょうど、幼稚舎のある学園とは線路を隔てていて、どの道を選んでも、踏み切りをわたる必要があった。

 さよりと清隆は、偶然、その踏み切りを選んだのだ……。


 やはり、雨だった。

 さよりよりも早く踏み切りを渡って、清隆は手前にある水溜りに飛び込んだ。水が威勢良く撥ねる。だけど負けじと、雨具も水を弾く。それが嬉しくて、買ってくれたさよりに伝えたくて、清隆は水溜りに長靴の端まで入りながら振り返った。

 さよりは、雨に打たれながら、微笑んでいた。


「ねえ、清隆君」

 雨具に熱がこもる。吐息が湿っぽく、空気に溶けてゆく。

「清隆君、おばさんのこと、好き?」

 前髪だけ、束となって濡れている。

「うん、好きだよ」

 さよりは、踏み切りの中で。踏み切りは遮断機を下げて。

「じゃあ、おばさんと一緒に行こうか?」

 清隆を見つめ。

 呟く。



 雨のように言葉は降る。しとしとと。それを赤く浮き彫りにする点滅灯。生きることと死ぬことの、境界線の上。危険を知らせる鐘の音が聞こえる。


 カン、カン、カン、カン。


 清隆はようやく、遮断機の向こう、彼女の異様さに気づく。

 きれいだけど、こわい。こわいけど、きれい。


 カン、カン、カン。


「だめ、僕、もう帰る。お父さんとお母さんが心配してる」

 後ずさりながら清隆は答えた。きちんと答えなければならないと思った。

 清隆の答えに、ふと、さよりは悲しそうな表情を浮かべる。


 カン、カン。


「どうして? おばさんのこと、好きでしょう?」

「好きだけど、お父さんとお母さんが待ってるから」

「そう。でもね、清隆君。本当に、待ってると思う?」


 カン。


 優しい彼女から放たれた、突然の刃。

 清隆は、眉をひそめて彼女を見上げた。彼女の表情は、その言葉よりも不確かなものだった。長い前髪に隠れて、少し丸まった背に隠れて。


 でも、清隆には分かる。


 昔はとてつもなく大きかった踏み切りの小ささを、もう知っている。

 落ちたら足が挟まってしまうのではないかと不安になった鉄の轍の浅さを知っている。

 手を伸ばしてようやく届くか届かないかの高い遮断機は、もう清隆の胸よりも低い。

 そう、「今」なら彼女の表情が分かる。


「待ってるよ。だから、言いに行かなきゃ」


 愛して。

 愛してる。


 たったそれだけの困難を。自分が閉ざしてしまった扉を。


 さよりは俯きながら、髪から滴り落ちる雨粒をぬぐった。

「ねぇ、清隆。」

 そして顔をあげる。

 ほら、やっぱり。


 清隆は知っている。自分たちは似ている。感情の仮面の下に、真実の弱さを隠しこんでいること。悲しみの下には怒りを、怒りの下には悲しみを持っていること。

 不器用に隠しこんで。



「泣かないで下さい」




  カ



 ン



 !



 その瞬間、猛烈な風を引き連れて電車が横切った。

 爪を立てるブレーキ音、つんざめくような鐘の音、その合唱の中で、清隆はとても静かだと思った。

 鉄の塊が通り過ぎる。何事も無かったかのように踏み切りはそこにある。さよりもまた、「生意気ね」

 踏み切りの上に立っている。

 やがて遮断機が上がり、清隆とさよりを遮るものが消失する。清隆はさよりを見つめ、さよりもまた清隆を見つめる。二人の差は、一メートルもなく。

「いつの間に、そんなに生意気になったのかしら。あの女のせいかしら。……ねぇ、清隆」


 辺りが明るい。知らず知らずのうちに、雨がやんでいる。


「あなた“だけ”幸せになるなんて、許せない」

 憎たらしそうに呟く、太陽の光が彼女に降り注ぐ。清隆はもう、答えるための言葉を持っている。だから迷わず彼女を見続けた。

「大丈夫です。もう忘れないから、……母さん」


 雨上がりの光の中、遮断機が上がる。ぽたぽたと世界から落ちる雫が光の全てを反射し、包み込んでいる。さよりはゆっくりと、清隆に背を向けて歩き出した。ゆっくり、ゆっくりと。

 踏み切りを越える、夢と現実の境界線を越えてゆく−−。


「おやすみなさい」


 警報の途切れた白い世界。ずっと昔に眩し過ぎる光の中で囁かれた、あの言葉が鳴り響いていた。






「全く、迷惑な話ね」

 警視庁一課の女刑部、嘉納は、パスタを箸に巻きながら溜め息をついた。

「まだ怒ってるの、嘉納さん」

「当たり前でしょ。誰かさんのせいで私は左遷処分を受けたのよ。花の捜査一課から、資料室事務係! どんな大左遷よ、聞いたことないわよ〜」

「踊る大左遷?」

「違う!」

 怒りと絶望で顔を赤らめながら嘉納は机を叩いた。その動作の激しさに、相席していた人物が笑う。清隆だ。


「嘉納さんには悪いけど、おせっかいな性格のせいでしょ。それに、良かった方なんじゃないかな。電車を停めちゃったんだから」

「それはそうだけど! 私、電車停めちゃったけど! ……ああもうどうしよう。心神喪失で自殺未遂あげくに左遷させられました、なんで親にどう説明すればいいのよ」

 頭を抱え込んでため息をつく、嘉納。

「なんなら俺が嘉納さんのご両親に説明しようか?」

「女の幽霊に取り憑かれてましたって? 信じてくれるはずないじゃない」

 ゴン、と額を机にくっ付ける嘉納に、清隆はぼそっと呟いた。

「……そういう意味じゃないんだけど」


 へ? と頭をもたげると、既にパスタを食べ終えた清隆がいる。紙ナプキンで唇を拭きながら、平然としている。

「あまり大人を茶化さないでいただける?」

「どっちが大人なんだか」

「どういう意味よ」

「そういう意味ですよ」

  ムッとして嘉納が清隆のほっぺを引っ張ろうと手を伸ばすと、机が振動した。卓上に置かれた清隆の携帯にワンコールが入ったようだ。画面には、清隆の父の名前。嘉納は目を瞬いた。

「お父さんと話するの?」

 言葉にして、後悔した。親子なのだから、話をするのは当たり前じゃないか。自分は何を言ってるのか。気まずそうに顎を掻く嘉納に、だが清隆の表情は全てを理解しているという風に穏やかだ。

「嘉納さんのお陰ですよ。元々ぜんぜん話をしなかったし、直通の番号だって知りませんでした。でも、あの日をきっかけに、変わったんですよ。言わなきゃならないって気付いたんです、俺も、あの人も」


 意味が分からず頭を傾げながら、嘉納はパスタの最後の一本を飲み込んだ。

 あの日……つまり嘉納が清隆の父に会い、さよりにとり憑かれた日。嘉納はどうやら清隆と清隆の父の何かを変えたらしい。清隆だけならまだしも、なぜ清隆の父親なのか。

 クエスチョンマークを浮かべ続ける嘉納を見やってから、清隆は立ち上がる。


「嘉納さんの表情が効いたみたいですね。不満が顔から溢れているのが分かる、だそうです。あの人の周りにはイエスマンしかいませんから、歯向かわれて思い直したみたいですよ」

「なにそれ、表情が出てたのわけ? 私って尾行だけじゃなく尋問も駄目なのかしら。刑事としてますます致命的だわ……事務係だけど」


「はは。後、いけすかんって言ってましたよ」

「あらそう、じゃあ今度伝えてくれる? 私もそう思ってましたって」

 嘉納はクリップから明細票を取ると同時にフンッと言い放った。

「じゃあ、俺はどうですか?」

 清隆が嘉納の手からスルリと明細書を奪い取る。

「女の方にお金を支払わせるわけにはいきません。俺が奢りますよ」

「何言ってるの、親の金でしょ」


 奪え返そうとすかさず腕を伸ばす嘉納、それを滑るようにかわす清隆。

 清隆は挑発するようにピラピラと明細を振ると、目を細めた。


 年齢にそぐわない、落ち着き払った大人っぽい笑み。病院で初めて見た、清隆の表情。だけどそれに、今はもう怒りは感じられない。

 −−繊細な人形のような、いや、人間らしい優しさと魅力に満ちた、嘉納の好きな微笑。


「……いけすかないわ」

 嘉納は、清隆と向き合いながら微笑みかけると、素早く腰をあげた。




2006年ごろ執筆。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最初はホラーかと思わせるようなゾクゾク感を味わい、話が進むにつれて糸がほどけていくような、なんとなく温かみのあるラスト。とても楽しく読ませていただきました。
2015/10/19 19:00 退会済み
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