二章 ベーグル号、世界周航
1
メアリーが死んだあの日から、およそ八年の歳月がながれた。
いまの僕は、故郷の村をあとにして、この国の首都ロンディに上京している。
そして、ロンディの名門校である「ロンディ大学」に通う若き学徒でもある。
・・・
その日、僕は所属するゼミの教授、ヘンロー教授の研究室に呼ばれていた。
ヘンロー教授はいわゆる、「デーウ」の信奉者だ。積極的に僕を手塩にかけてくれていて、僕もその厚意には感謝しているが、ことあるごとに、僕を神学者への道にいざなおうとしてくるちょっと困った先生でもある。
教授の前では、僕は自身の内面をさらけ出すことはない。
そんなことをした暁には、教授からの烈火の如き怒りの、矢面に立たされることうけ合いであるのだから。
不必要ないさかいなど起こさずに、スマートにことを進めてこそ、立派な紳士と言うものである。
「また、厄介ごとの類か」僕は内心でため息をついた。
これまでも、教授からは様々な面倒事を頼まれてきた。
外国版聖書の原本探し、古代神秘主義的デーウ信仰についての考察、あるいは宇宙論的デーウの存在証明に関する論文の発掘など、正直に言って、どれも僕にとっては微塵の価値も存在しない「神秘的な」面倒事だった。
しかし、それで教授からの歓心を買うことができるならば、僕にとってはお安いものだった。そして、この時もそう言った系統の面倒事の依頼であると高をくくっていたのだが、これが僕の人生を変える「オデッセイ(大旅行)」になるとは考えもしていなかった。
・・・
教授の部屋の前までついた僕は、教授の研究室の安っぽい扉を開いた。
中に入ると、研究室の中は、非常に雑然とした様相を呈していた。あちらこちらに専門書や外国の書籍などが散乱し、書類や、とにかくその他、有象無象のものたちであふれていた。誇張でなく「カオス」そのものだった。その中心にヘンロー教授が、座っていた。
僕が部屋に入ってきたことに、気づいた教授に対して、僕は、開口一番。
「こんにちは、先生。今日はどういった用件でしょうか?」
長居は無用と端的に、挨拶と質問をした。
単刀直入に本題を聞いて、手早く用事を済ませよう。その日はなんだか、別段なにかのデッドラインがある訳でもないのに、事を急いている気持ちだった。あるいは、なんだかよく分からない「予知的な」直感の働きでこれから起こることを、うっすらと予期していたのかもしれなかった。
「よく来てくれた。此度の話は君にとっては、おおいに役立つことだと思っているよ」
教授の顔つきは、いかにも誇らしげであった。その様子を見て、僕もいつもとは違う類の用件であることを了解した。とはいえこの人に油断してはならない。
僕は、拒否しているにもかかわらず、何度となく神父の道を斡旋してきた今までの教授の、「お節介」を思い出していた。率直に言って、教授は僕の中での危険人物リスト上位の人間だった。
「実は、近々我らが国の測量船が、任務のため出航予定なのだが、その測量に同伴する若く優秀な生徒を募っていていな。私のもとにその話が来た時から、私は君のことを推薦しようと思っていたのだよ」
「たいへんありがたい話です。しかし、先生、僕にそんな大役が務まるでしょうか?何と言っても、僕には地質学の見識などはありませんし・・・」
教授の誘いは、僕にとっては「寝耳に水」な話だった。突然、国の代表として測量船に同伴していく話など、光栄であっても安易に首肯すべきものでないことは分かっていた。
なので、ここはあくまでも慎重に、そう考えて話を進めようとしていたが。
「問題はない。餞別として、最新の地質学の参考文献を君にはプレゼントしよう。君の慎重な姿勢は、学者としては優秀だが、若い男としては少々物足りんな。積極的に燃える炎に飛び込んでいくような度胸がなくてはな!」
教授の言葉は挑戦的だった。しかし、僕も男としてここまで言われたからには、引き下がる訳にはいかなかった。
「分かりました。力不足は承知ですが、今の僕の全力を尽くすと約束しましょう。出航はいつの予定ですか?」
「一週間後に、南バロウ港からの予定だよ。では、承諾の方向で話は進めておくよ。君にとって、この旅が幸運なものであることを祈ってやまないよ」
こうして、いささか唐突に世界周航の予定が決定してしまったが、この時から運命の歯車は軋みだしていたのだった。
2
南バロウ港は首都ロンディから、南に十キロほど離れたこの国の南端にあたる。
大陸の国々との交易でまず外国の船が、寄港するのがこの南バロウ港である。
ゆえに、この国の顔と言ってもいい様な重要な海上交通の要衝でもあるこの港から、僕の旅は始まろうとしていた。
出航日の当日になった。
ロンディからそんなに離れてはいないものの、旅支度の荷物をもって歩くには港までの道のりは遠すぎる。そこで、馬車を使って港までは行くことになっていた。その手筈は、僕の両親が整えてくれた。
しかしながら、今回の航海を知って一番気を揉んだのは、言うまでもなく僕の両親である。
メアリー亡き後、たった一人になってしまった息子のために、両親は二人分の愛情を僕一人に注いでくれていた。
もちろん、僕にもそんな親の感情は理解できたので、今日まではあまり無茶も言ってこなかった。
けれども、そんな両親の親心を粉砕するが如きが今回の航海の話であった。
最初は、否定的だった両親もこの航海が、息子の人間的成長を後押しするものだと確信したらしく最後には。
「ロバート、君が立派な学者として帰ってくることを、父さんと母さんは信じているよ。
必ず無事に帰ってくると約束してくれ」
そう言って、今日は笑顔で僕を送り出してくれた。
父さんと母さんに恥をかかせるわけにはいかない。必ずこの旅を、自らの修練の機会とし、立派な紳士として帰国せねば。僕は、そのことを今は亡き妹に誓った。
馬車に乗り、港までの道のりを行く。道中は、南バロウ港行きの馬車道としてよく舗装されていたので、これと言った不快感は抱かなかった。
「もうすぐ港に到着です」
馬車引きの言葉であたりを見渡すと、もう間近に海が迫っていた。
微かな波音と心地の良い潮風が吹いてくる。言うまでもなく今日は、絶好の出航日和らしかった。
「ありがとうございます」
港に到着した僕は、馬車引きにお礼を言って、待ち合わせ場所に向かうことにした。
指定されていた待ち合わせ場所は、「ベーグル号前」だった。端的に、今回の任務に向かう測量船付近で待ち合わせというのは、さすがはヘンロー先生のもってきた案件だなという印象だった。一切の無駄を省いて、最短で用を済ませる。
そんな精神が垣間見える。だけれど、僕は悪くはないと思っていた。
少なからず、今回の旅行に期待する自分がいないと言っては、嘘になってしまうだろう。
ふと見ると、ひと際大きな船が停泊していた。その船の前にひとだかりができている。遠目でも分かるが港には場違いな正装で身を固めているその人は、何を隠そうヘンロー教授その人だった。
教授は僕の姿に気づくと。
「ロバート、よく来てくれた!こっちだ」
そう言って、件の船の前に僕を呼び寄せた。
教授のもとに寄ると、隣には見るからに海の男といった感じの大男が、にこやかな表情で僕を見ていた。
「ロバート、君に紹介するのは初めてだったな。この人は『ベーグル号』の艦長のフィッツロイだ。艦長と言っても、地質学の見識もなかなかの者なんだが、本人はあまりそう言った様子を見せることはないがな」
教授の紹介を受け、謙遜した様子で大男ながら恥ずかしそうに、フィッツロイが話し始めた。
「いえいえ、私などは、ロンディ大学の先生と生徒さんに比肩できるものなんて何もありませんよ。ロバートさん初めまして。艦長のフィッツロイと申します、以後お見知りおきを」
巨体に見合わぬ丁重な挨拶というそのギャップに、僕は少しおかしくなってしまった。
しかし、人を見た目で判断してはいけない。教授の言を信じるなら、この人も地質学の一角の者であるのは間違いないのだから。
しかし、近くによって見るとひと際その大きさに目を奪われてしまう。測量船などと聞いていたから、てっきりもっとこぢんまりとした船を想像していたのだが。目の前にそびえる「ベーグル号」の大きさには単純に驚かされる。船の直径は目測だが、百二十メートルほどはあるし、何やら謎の焼いたパンの匂いもただよっていた。
「ベーグル号」には不思議が満載している、そんな印象を受けた。
そうして、教授とフィッツロイの目の前で「ベーグル号」に目を丸くしているとフィッツロイが。
「ロバートさん、さすがにこの船の大きさには驚かれるでしょう。ちょっとした客船くらいの大きさはありますからね。そして何と言っても、この『ベーグル号』は測量船ながらパン焼き器が搭載された最新式です!」
フィッツロイの言葉に僕は、ますます驚いた。測量船にパン焼き器とは。
必要性は置いといても、そんなものを搭載できる今の造船技術の進歩には、率直に驚愕するほかない。
考えてみれば、かつての海上生活といえば、悲惨の代名詞のようなものだった。
海の上ではビタミンその他の食物繊維類が不足する。そのため、壊血病という腐った血液があふれ出すような病に罹患する者が後を絶たなかったという。それが、今やパン焼き釜をも搭載できるような船さえも開発されているとは。
人知と時代の進歩に驚嘆しながらも、ここにきて僕はようやく不安を催した。
何故なら、ここに至って再び自らの無知を自認したからである。
そもそも今回は、「測量」のための任務である。ところが、僕は当たり前ながら地質学などの見識など持ち合わせてはいない。そこで、研究室での教授の言葉を思い出した。
「餞別として、最新の地質学の参考文献を君にはプレゼントしよう」
今になって、その必要性に気が付いた。そして、僕が口を開こうとした刹那、教授も全く同じことに考えが至っていた。
「そうだ、大切なものを渡すのを忘れていたよ。ほら、これは私からの餞別と思ってくれていいからね」
そうして手渡された分厚い専門書には『地質学原理』と書かれていた。
著者はチャールズ・ライエルとなっていた。
「教授この本は?どのように活用したらよいでしょうか」
僕は、率直に質問した。すると、教授は。
「この本は、最新の地質学の研究の集大成のようなものだ。従来の地質学としては、異端かもしれないが、この本から君が学べることは多いだろう。堅苦しいことは言わない。自由に活用してくれたまえ!」
なるほど、教授らしい。「自ら学べ」の精神だ。しかしながら、僕にとっては唯一の手引きである。この本に基づいて、今回の任務を果たすほかないであろうことは想像に難くない。
「分かりました、ありがとうございます。先生の期待に沿えるように、善処いたします」
するとそんな、形式ばった師と弟子のやりとりを目の当たりにして、堪え得なかったのだろう。フィッツロイが。
「そう固くなる必要もありませんよ!大丈夫です。ロンディの学生であるロバートさんなら、今回の任務は必ず果たせるでしょう」
そう言って、僕を鼓舞してくれた。
するとそのとき、プシュー、プシュー。蒸気機関が躍動する音が聞こえ始めた。
「さあ、準備はいいですか?ロバートさん。そろそろ出航の時間です。船に乗り込んでください」
そうして、僕は「ベーグル号」に乗り込んだ。別れ際に教授は。
「ボンボヤージュ!無事に帰ってくるんだぞ」
そう言って、手を振ってくれた。
船に乗り込むと、甲板から「ベーグル号」の出航を見送る無数の人々が見えた。
プシュー、プシュー。ひと際大きな音が響く。するとそれと同時に、「ベーグル号」が少しずつ港を離れていく。
いよいよ出航である。
様々な思いを乗せて、「ベーグル号」が往く。
この先に待ち受けるのは、鬼か蛇か。
未知の未来へと進み始めた「ベーグル号」の高鳴りに共鳴して、僕自身の心も奮い立っていた。
次回、未知の旅路へと歩みだした「ベーグル号」。その行く手に待つものとは?
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