序章 カミからの離反
私たちの存在は否応なく、この時間と空間に囚われている。
いやそれどころか、私たちが他の動物たちと区別され得るとされる「理性」であっても、その時間的かつ空間的な束縛からは免れ得ないのだ。
一定期間に多くの人々が受け入れていた思考の枠組みは、通称「パラダイム」とよばれているが、それは当時の人々にとっては常識かつ決して揺るぎのない事実と思われたものだった。
それがその時代にとってはまだ早すぎるのかもしれない、稀有の素養の持ち主によって塗り替えられることがしばしばあったことは、もはや言うまでもない。
そう、あの世界における変化も、きっかけは些細なものにすぎなかった。
しかし、彼は世界の秘奥、すなわち神による「創造の神秘」にメスをいれた。
それによって彼がどのような艱難辛苦を味わうことになったのか。
それを詳らかにすることが、この小説の中心的な意図としているところである。
1
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
その響きは、朝の訪れとともに一日の始まりを知らせる鐘の音だ。
偉い聖職者の方々からすれば、その響きには独特の含蓄が含まれているなんて言ったりするのだろう。
しかし、朝っぱらからのこんな轟音の「神の声」は、率直に言って、僕にとってはひどく耳障りなものに過ぎなかった。
そんなことを、夢現に考えていると部屋のドアが騒々しく開いた。
すると僕の部屋に入ってくるなり。
「お兄ちゃん!早くしないと遅刻しちゃうよー」
妹のメアリーはそう言って僕を急かそうとする。だが。
「僕には分かっているんだ。まだそんなに焦るような時間ではないことくらい。もうすこしゆっくり寝かせておいてくれよ。君は、いつも早起き過ぎるんだよ」
「私が起こしてあげていなかったら、今頃、お兄ちゃんは落第者だよ。ちょっとは感謝してよ」
頑なな妹の態度を改めさせることに毎度のことながら失敗しつつ、僕は食卓に向かうことにした。
・・・
「おはよう」とあいさつすると、すでに食卓にいた母と父は笑顔で返事をした。
メアリーのやつはまだ食卓には現れていなかった。
「ロバート、あなたいつまで妹に面倒を見てもらうつもりなの?少しは自立しなさい」
さっきの笑顔とは対照的に、厳しい口調になる母。それに同意しているつもりなのか、父も「うんうん」頷いている。
「低血圧ぎみだから、毎朝起きることは僕にとっては、『ヘラクレスの難行』並みの偉業なんだよ。だからついつい、かわいい妹に手を焼いてもらうことになるのさ」
自分の不手際を指摘されて、白々しく妹を盾に言い逃れようとしてみる。
しかし、それは母にとっては想定済みの口実であったらしく。
「またあなたはそんなことを、恥ずかしげもなく言って!そんな事では、『デーウ』による祝福にあずかることはできないわよ」
また「デーウ」か・・・。
母は、口論になったり、僕らを戒める時には決まってその名前を口にする。
誤解を招かないように簡単に言っておくと、「デーウ」と言うのは、僕らの世界での唯一のカミの名だ。僕が以前、学校で受けた授業では、この世界の八割ほどの人々がその存在を信じているらしい。
母はその名前を持ち出せば、僕の不良をただすことができると思い込んでいるが、僕はそんなにやわな人間なんかじゃない。
とは言っても、もちろん、僕だって「デーウ」の存在を疑っているわけではない。けれど、ここぞとばかりにその名前を持ち出してきて、攻めるのは何か違っている気がする。
「カミさまも朝の優雅なひと時くらいは、大目にみてくれるさ」
僕は母に最大限、喰ってかかることにした。でも、そんな折、我が家のじゃじゃ馬が食卓に入ってきた。
「お母さんもお兄ちゃんも、何を言い争っているか知らないけど、早く朝ごはんにしようよー。もうわたしお腹と背中がくっついちゃいそう」
そんな一言で、朝の「運動」は一区切りつき、僕たちは朝の食卓を囲んだ。
食事を終えると、僕と妹はいつものように修道学校に行く準備をした。
一方で、父は職人ギルドへと行く用意を済ませ、母は家事の残りを終わらせるための支度をした。
そうして、家族全員が自分たちの日々のルーチンを消化したところで。
「いってきます」
僕と妹がそう言うと、母はいつものように「気を付けてね」と僕たちを気遣いつつ送り出してくれた。
その日は、よく晴れた日ではあったが、遠くの空を見やると何とも言い難い、不穏な雲がちらほらと浮かんでいた。
2
僕たちが通う「シント修道会学校」は、村のはずれの山の中に位置している。
山の中と入っても、修道会は頂上付近ではなく中腹にあって山自体も大して高さは無い。
だから、子供である僕たちが通えるギリギリの範囲内にあると言っていいだろう。
とはいえ、片道一時間ほどは要してしまうので慣れていないと、大人でも音をあげるほどの距離であるのは間違いない。
そんな通学の道程は、僕たちからするとちょっとした日々の冒険であった。
この国すなわち「バロウ」は、北方の島国ながら、非常に豊かな四季の彩をみせる。
そしてもちろん、僕らの通学路の周りの景色も季節によって様々な変化のある色彩を眼前に表出する。
春の命の芽吹きから、冬の乾燥したふと寂しさをもよおすような情景など、僕らは幼い時から、ワクワクしながら世界の生物や植物の多様さに驚かされてきた。
「今日は、どんな不思議なものと出会えるだろう?」そう心に問いかけながら、修道会までの道のりを妹と歩いていくことは、僕にとって、紛れもなく知的な好奇心を存分に満たしてくれる日々の「オデッセイ(大旅行)」であった。
「あっ、見てお兄ちゃん!何かころがっているよ」
妹の言葉に気が付いてみると、道の真ん中にコッペパンのような茶色いものが転がっていた。「これは」僕は近づいてそれを確認する。
「ツチノコだな。間違いない。この時期にいるのは珍しいけど」
初夏のこの時期にしては珍しい。しかし、個体としてはごくごくありふれた「ツチノコ」の成体だった。
触れようと試みたけど、その体躯には不釣り合いな猛スピードで逃げていった。
ふと妹の方を見ると、何か言いたげにしている。
「どうした?」
「カミさまはなんで、あんな奇妙な生き物でさえも創造なさったのかな?」
子供らしい率直な意見であった。
だが、ツチノコの存在意義なんて僕らに分かりっこない。
でも生物の誕生に「デーウ」の加護があるのは間違いのない事実だ。
その事は、学校でも繰り返し教えられてきた。
けど時折、僕も妹のような疑問を持つことがあったりするけど、まさか人にいう訳にもいくまい。そんな疑問は常に胸の内にしまっておく他なかった。
「なんでだろうな。まさしくカミのみぞ知るところかな」
「もうお兄ちゃんってば、ちゃんと考えてないでしょ!」
そんな他愛ないやりとりをしていると、光陰矢のごとし。
あっという間に学校の正門前に、到着していた。
「おはようございます」
そう言って、学校の入り口を通る。先生方は笑顔で僕たちを迎え入れてくれた。
そんないつもと変わらない朝の風景。
けれども、あんなことになるなんて誰が思い至っていただろうか?
いや、そんなの「デーウ」にだって予測できたものか。
考えてみれば、あの時から僕の「信仰心の糸」はぷっつり途絶えたきり。
そのままになってしまっていた。
3
その日の学校での日常も普段通り。神学や論理学、音楽といった科目の授業をうけてお昼にはみんなで慎ましい食事をとった。
そして、午後の授業をうけて、ようやく帰りの時間になった。
ふと、窓の外を見ると晴天だった空模様はどこへ消えたのやら。
空は、何となく不吉な雲で充満していた。
僕らの住む地域では、夏場はよく通り雨や夕立に見舞われることがある。
だから、学校には生徒たちはみんな傘をおいて、非常のときに備えていた。
今日もその日頃の備えが、役立つときだ。僕はその程度にしか、考えていなかった。
そして、傘をもって妹と二人で、学校を後にした。
後から考えれば、この選択が僕と「世界」とを対峙させる端緒だったと思える。
そんな風に、因果いうのは僕らには訳も分からない形で必然的に、めぐってきてしまうものなのだ。
人の運命は、嵐になぎ倒されていく「葦」に等しい。
・・・
ぽつり、ぽつり。雨の雫が、僕たちの頬を濡らし始めた。
「やっぱり降ってきたか。メアリー、急ぐぞ」
帰りの道中、まだ半ばも過ぎていないところで降りだしてきた雨に、否応なく打たれる。
初夏の気候も相まって、じめじめとした空気がまとわりついているように感じる。想定され得る限り、最悪のコンディションだ。しかしながら、雨足は次第に激しさを増していた。
これはもう、このまま足早に帰る訳にもいかないようだ。僕らは、近くの木の下に身を寄せることにした。
「雨すごいな、ここですこし休憩するとしよう。なに通り雨さ。心配はいらないよ」
僕は、まだ年端もいかない妹を気遣うつもりで、そんなことを言ってみた。考えてみれば、いつもの僕らしくない発言だったと現在からしたら思える。
「けどね、お兄ちゃん・・・」
妹は何かを言いたげであったが、僕に対して遠慮するような素振りであった。
「どうした?何かあるなら言っていいんだぞ。僕に遠慮なんてするなよ」
「うん。実は、学校を出た時からお手洗いに行きたくて」
「そうか。困ったな」
女子のそれが、僕のような男子と違っていることくらいは承知していた。ましてや、外では女子はすることもできない。
将来の淑女に傷がつくようなことは、兄として妹にさせる訳にはいかなかった。
「この近くの家で借りよう。それと、この雨だ。少しの間、雨宿りもさせてもらおう」
そう言って、僕らは強まる雨の中、付近の家を探し始めた。すると、幸運なことにも一軒の民家を、すぐに見つけることができた。
「すみません」とドアをノックしながら声をかけてみる。
すると、中からもう仕事を引退して久しいような高齢のおじいさんが現れた。
「おやおや、こんな雨の中どうしたんだい?」
おじいさんは、まだ幼い僕らのような子供たちが、こんな天気のなか外にでているのが、たいそう不思議な様子で尋ねてきた。
「学校からの帰り道に、雨に降られちゃって。すみませんが、少しの間、雨宿りさせてもらえませんか?」
「そうだったのかい。みすぼらしい家だが、遠慮せずあがっておいき」
親切なおじいさんのおかげで、僕らの災難は回避できたかのようにみえた。しかし、そんな安直な判断は軽率であったことを僕らは知る由もなかった。
(続く)