第8章 勘違いした子爵令嬢
その後、王太子オスカーは廃嫡された。
彼がこれまで数多くの問題を起こしても王太子でいられたのは、ジャネットとレイクスが側にいてくれたからだ。
二人のうちどちらか片方でも側を離れることになったら、その時点で廃太子になることが暗黙の了解となっていた。一人だけではとてもオスカーを支え切れないからだ。
ジャネットはレイクスのために、レイクスはジャネットのためにこれまで無理して頑張ってきたのだが、リネットの言葉でようやく悟ったのだ。
お互いのためにも、あんなろくでなしの男からは離れた方がいいのだと。
オスカー元王太子は王位継承権を剥奪されて臣下に下った。軽くて怠け者で女癖が悪い、と評判の彼を養子や婿養子として受け入れてくれる貴族はなく、王家が所有していた領地なしの伯爵位を与えられた。
文官になれる頭や、武官になれる剣術の腕もない彼が、今後どうやって伯爵家を維持するのかと、みんな首を傾げた。
何か良いアドバイスをもらえればどうにか道は開けるのだろうが、これまで彼に仕えていた者や友人達は、オスカーの本音を知ってみんな離れてしまった。まあ自業自得だろう。
ジャネットはオスカーとの婚約を破棄した後、新たに王太子となった第二王子ネオジム王子と婚約した。
彼は彼女より三歳年下でまだ学生だったが、兄と違って秀才の誉れも高く、性格もしっかりしていて有能な少年だった。
そして帝王学の学習もかなりのスピードで進んでいて、卒業後すぐに結婚式を挙げることになった。それはジャネットの年齡のこともあったからだ。
王太子教育のプランニングをしたのは、彼の側近になったレイクスだった。
「今なんとか王太子としてやっていけるのは、全てレイクス卿のおかげです。
僅かでも可能性があるのなら、無駄になっても準備を怠らないのが王族の義務だと言われて、以前から色々と勉強してきたおかげで、今とても助かっています」
「以前からジャネット様のお役に立てる人間になりたい、と殿下がおっしゃっていたから、助言させていただいただけですよ。
ネオジム様が、妻になんでも丸投げすればいいと考えていた兄上とは正反対で、本当にホッといたしました」
レイクスは盲目的にオスカーに従っているように見えていた。
しかし、その実オスカーの本性を見抜いていて、とうの昔に見切りをつけていたのかもしれない、とネオジムは思った。
それに、
(彼は僕のジャネット嬢への思いを上手く利用して、僕が進んで勉強するように仕向けた気がする。彼はなんでもお見通し。なんだか怖いな。絶対に逆らわないようにしよう)
そう心に決めた賢い新王太子だった。
そして、その後二年生に進級したリネットは、王太子の婚約者である公爵家のジャネット嬢の親友として知られるようになった。
そのためにご令嬢方からの妬みや嫉妬の目はさらに増したが、直接的な被害を受けることはなくなった。
この国の新しい二本柱と見なされるようになったレイクスとジャネット。
そしてその彼らがとても大切に思っているのが子爵令嬢のリネット。
そんな彼女に手を出したらどうなるのか、さすがの彼女達も理解したようだった。
しかし言い換えれば、リネットは周囲から怖がられてしまったということだ。そのせいで彼女には、ローリーや後輩のネオジ厶王太子、そして弁論クラブの仲間以外に友人ができることはなかった。
もっとも、その弁論クラブのメンバーがかなり増えたので、実質友人も増えたと言えなくもなかったのだが。
どこからか、こんな噂がまことしやかに流れ始めた。
あの寡黙でか弱いリネット嬢が、弁論の力で犯罪者を追いつめた。
いけ好かない高貴な人物をやり込めて、表舞台から引きずり落としたと。
『ペンは剣より強し』ということわざがあるが、ペンとは言論と同義だ。つまり、それに憧れを持つ者が増えたということだろう。
「みんな単純ですよね。噂なんていい加減なものだと相場が決まっているのに、すぐにそれに乗ってしまうのだから。ご年配の方々はいい顔はしていませんよ。
そもそもあんな噂デタラメなのに。寡黙でか弱いリネット嬢って、いったい誰だって話ですよ」
「えっ、デタラメな点ってそこですか? その他は?」
「それ以外は概ね間違ってないと思いますけどね。まあ、いけ好かない高貴な人物というところは、不敬にならないために多少濁してありますけどね。
ネオジ厶殿下もあの場にいてリネット嬢を目にしていたら、貴方の兄上のように度肝を抜かれていたでしょうね。
さすがに彼女の地を知っていた兄や僕は、特に驚きはしなかったのですが、これまでずっと抑え付けられていた分、以前よりかなり迫力は増していましたね。
まあ、あれが弁論といえるかどうかは疑問ですが、彼女の心の叫びというか訴えを聞いて、そこまで彼女を抑圧して辛い思いをさせてきたのかと、兄はかなり後悔していましたよ。今さらですが」
「あのぉ、レイクス卿には聞きづらくて避けていたのですが、リネット嬢との婚約はどうなったのですか?
兄のせいで愛し合うお二人の間にヒビを入れてしまって、本当に申しわけなく思っているのです。できれば元の鞘に収まっていただけると嬉しいのですが、第三者が口を挟むわけにもいかず。
ジャネット様も心配されています」
「ネオジ厶殿下にはなんの責任もないので気になさることはないですよ。
責任を感じるべきなのはむしろ僕だと思います」
学生食堂の隅の席に座り、テーブルに両肘をつき、組んだ両手に顎を乗せて、ぼんやり天井を見上げながらローリーが呟いた。
その意味がわからず首を捻るネオジ厶殿下に、ローリーはため息をこぼした。
そしてなぜリネットが『自分は都合のよい女』だと思い込んだのか、その理由について語った。
✽✽✽✽✽
それは遡ること七年ちょっと前、リネットとレイクスが婚約して間もないころのことだった。
ローリーは親族のご婦人達と顔を合わせる度に、どうしてリネットがレイクスの婚約者に選ばれたのかと尋ねられた。
その度に同門で信用ができる家のご令嬢だからだと思いますと、彼は適当に答えていた。しかしそれでは彼女達は納得しなかった。
そこで幼なじみだから気心が知れてるからと答えたがこれもだめ。
だから仕方なく真実を告げた。兄が彼女を好きだからですと。しかしみんな笑って信じなかった。
あんな眉目秀麗で優秀なレイクス様が、淑女らしくない、あのおしゃべりで落ち着きのない下位のご令嬢を好きになるわけがないでしょうと。
(えーっ、真実を教えても納得しないならいったいどうしろって言うのさ)
とローリーは思った。
そこでもう仕方なくなって、父上に聞いてくるが、もしそれでも納得できないのならば、次は直接父や兄に聞いてください、と彼女達に言った。
そして忙しい父親をどうにか捕まえて、なぜ兄とリネットを婚約させたのかと訊いた。すると父はこう言ったのだ。
「まだ成人前のお前には詳しく話せないが、このスチュワード侯爵家は特殊な家で、嫡男の結婚には色々と制限があってな、リネット嬢はその特殊事情に都合のいいご令嬢なんだよ。
彼女と結婚できればレイクスは幸せになれるし、この家の繁栄も続くのだ。だから、ローリーも二人の仲を応援してやって欲しい」
と。
「兄上は幸せになれるのですか?」
「彼女とならなれるさ。彼が彼女を強く望んだのだからね」
スチュワード侯爵は優しい笑顔を浮かべてそう言った。
彼が口にした『都合がいい』とは、レイクスにとってリネットは好ましいという意味だった。そして彼女となら息子は幸せになり、そのことでこの侯爵家も繁栄するだろうという意味。
父の話を総合的に考えて、ローリーはそう理解した。
しかし、皆が彼のように理解力があるわけではないし、そもそもその言葉の正しい意味を知っているわけではなかった。
なぜか『都合がいい』という言葉は、マイナスのイメージで受け取られるようだ。
しかもローリーは、『リネット嬢はその特殊事情に都合のいいご令嬢』の『その特殊事情』の部分を当然省いたので、『リネット嬢は都合のいいご令嬢』という言葉だけがご婦人方の中で認識されるようになったというわけだ。
そしてそれは彼らの話を盗み聞きしていたリネットも同じだった。
しかしそれをまさか彼女に聞かれていたとは思わなかったローリーだった。
ずいぶんと後になってそれに気付いたときには、すでに後の祭りだったのだ。
いくらそれは誤解なんだと言っても、彼女は全く聞く耳を持たなかった。なにせ長年多くの人からもそう言われ続けて、完全にそう刷り込まれていたのだから。
自分はただの『都合のよい女』なんだと。
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