六.
惨状を想像して、ハルは奥歯を噛みしめた。視線が下がる。
「それを俺に訊くのはおかしくない?」
穏やかながら諭すように返される。由良の言うとおりだ。しかし、心の内で直接荒ぶる神に問いかけても、答えはない。
荒ぶる神はハルの内にいる。しかし、ハルに直接声をかけることは一度もなかった。
しかし、ハルが逃げた矢先の山崩れ。
偶然とは思えない。荒ぶる神は、ハルが島から出た罰で山崩れを起こしたのだろうか。だから、神護りが巻きこまれたのだろうか。
「では、私が逃げたことは」
ハルの背をどうしようもない寒気が駆け上がる。
「山崩れの件は当然、都におわす大君の耳に入っただろうね。ただ、今のところ神護りはハルの逃亡を大君に報告していない」
「なぜそこまでわかる?」
「旅の支度のついでに、少しばかり探ってきた。神護りにとっては、己の失態をさらすのとおなじだから当然だろうね」
「神護りの頂点は、大君に次ぐ偉いひとなんだろう? 隠すなんて許されるのか?」
ハルは首をかしげる。なぜ起きたことを話さないのか、ハルにはその心情が理解しがたいものだった。
「許すとか許さないの問題じゃないよ。あいつらなら、そうする」
「詳しいな」
由良は口元だけで笑うと、表情を引きしめる。
「だから今、あいつらは必死のはずだ。大君に知れる前に事を収めたい、巫女を秘密裏に島に戻したいと焦ってる。そろそろこの村にも」
由良が言い終わる前に、村の若い娘が真っ青な顔でふたりの元に駆けてきた。
娘に続いて来た道を戻り、村の端に出れば、ハルたちのほかにもあちこちの家から村人が飛びだしたところだった。
男たちが水甕を手に駆けだす。向かう先を目で追えば、遠く水田の向こうに赤く輝く一点が見えた。
日の落ちた暗闇を焦がすように、炎が上がっていた。水田の端が燃えている。
「なぜこんなことに? 田が燃えることはよくあるのか?」
知らせを告げた娘に問うと、娘は青ざめた顔で首を横に振った。
「まさか。山火事は話に聞くけど、こんなのは初めてだわ」
まるで、地面から火が噴きあがるようだった。まだ稲を植える季節でもなく、その乾いた土地で藁を乾かす最中の異変。燃えているのはその藁だった。
「ほかへ燃え移ったりは」
「しないよ。燃えるのは藁だけだ。安心していい」
前に立つ由良が言い、ハルはほっと肩の力を抜きかけたが、すぐにあることに気づいてふり返った。杖に体重を預けるようにしてつま先立つ。
「これも主様のお怒りか?」
娘に聞こえないよう、由良に耳打ちする。
「さあ、どうかな」
その言いかたに引っかかりを覚え、ハルはぐいと由良の肩を押した。
「お前、ひょっとして」
燃えているのは藁の束だ。それも、山から見てもっとも近い水田の藁束である。ここに来たときに、ハルが寝てしまい――その後、巫女の服を隠した。
ハルは記憶を探りながら、由良の目をじっと見つめる。
由良もハルの視線を受け止める。
やがて強張りを解くように吐息で笑うと、由良がハルの頭をぽんと軽く叩いた。それが返事だった。
「杖はまだ必要だろうけど。今夜のうちにここを出たほうがいい」
ハルは空を見あげた。
零れ落ちそうなほど星の散らばる空には、新月を越えてふっくらとし始めた月が浮かんでいる。君代が言った次の新月には、まだ遠い。しかしハルは杖から手を離した。
「望むところだ。杖などなくても走れる……ぞ」
負担の増した足に鈍い痛みが走り、ぎゅっと眉を寄せる。由良が杖を拾い、ハルに握らせた。
「ま、その辺りはゆるくいこう。無茶は要らないから用心だけして」
出発の前に火事の後処理を手伝ってくるという由良と別れ、ハルはその足で君代の家を訪ねた。君代もまた、火事の知らせに驚き表に出てきていた。
「君代。予定が変わった。今夜にも出発する」
「ええ? えらく急な出発だねえ」
「世話になったな」
そうかい、と君代が納得した風にうなずく。その足で家の中にとって返すと、あふれるほどの薬草や実を載せた笊を持って戻ってきた。
「薬の材料だよ。これも持っていきな。足の怪我も治りきっていないんだから、必ず手当するんだよ。あと、腹を下したときにはこっち」
効能をひととおり説明すると、君代はそれらを麻布に包んでハルに渡した。
「礼を言う。息災でな。強い子を産め」
「あはは。あんたらしいね。あんたが作った薬も、ちゃんと全部持っていきなね」
元気で、という君代の声が染みた。先を急ぎたいのは本心だが、君代との別れは思ったよりも名残惜しい。
冷えた夜風が肌をそわつかせる。ハルはひとつ身震いをしてから、借り家へ足を向けた。そこにハルの作った薬を置いたままだった。由良も一度は戻ってくるはずである。
村の男たちも火消しを終えて戻ってくる。さいわい、火が燃え移ることはなかったようで、ハルは人知れず安堵した。証拠隠滅のためとはいえ、燃え移れば申し訳が立たない。
ところが、一向に由良が戻らない。
男たちに尋ねても、さっきまで一緒に作業をしていたのにと首をかしげるだけだ。ハルはなおも、村に戻ってくる者を尋ね回る。
由良の行き先に心当たりのある者はいなかったが、代わりにもたらされたのは重要な情報だった。
「由良は見なかったが、代わりに神護りを見たぜ?」
ハルは薬草の入った麻布を小袖の懐に入れ、杖をぎゅっと握りしめる。
心臓が不穏な脈を打つ。薄気味の悪い予感が内側からせり上がる。
「あの薄墨の服はたぶんそうだ。この村に向かっておられるようだったが、なんの用だろう?」
今出ていけば鉢合わせする可能性がある。下手に動かずに隠れたほうがよさそうだ。由良も待たなければならない。
しかしこの村には、これといって隠れられそうなところがない。
ハルはすぐさま借り家にとって返すと、中のものを移動させた。甕を倒して水をすべて地面に流し、端に寄せられた藁の山を広げる。敷いてあった筵を巻き、柱に立てかける。炉の灰を掻きだして、これも藁の下に隠してひとの気配を消す。そのときだった。
「これなるは、神護りである。主様のお告げにより、これより各家を検めさせてもらう」
表で張りのある男の声が響いた。
荒ぶる神のお告げは方便だ。神託は降りていない。由良の言ったとおり、彼らは大君にハルの逃亡を報告していないのだ。
最初に声を張り上げた男のほかにもうひとり、神護りがいるらしい。入口は藁を編んだ簾にしたものが下がっているだけなので、会話までは聞こえなくとも、複数の足音が荒々しく行き来するのは感じ取れた。村の家を順に探るようだ。
ハルは藁の中に飛びこみ、息をひそめる。
「だから、ここはただの倉庫なんだって。見たってなにもありゃしないよ」
君代の声にはっとして、ハルは藁を手で押さえて隙間から入口のほうを覗いた。
君代が腰に手を当てて入口を塞ぐように立っている。
「ただの倉庫なら見せても構わないはずだ」
ハルは息をのんだ。神護りは、子が腹にいるというのに、君代を乱暴に押しのけると家の中に押し入ってくる。
入ってきたのはひとりだ。続いて君代も入ってきたのが、足を擦るような音でわかる。ハルは藁の中で目を閉じ、息を殺した。心臓の音がやけにうるさい。
閉じた瞼の裏がときおり赤く光る。神護りの掲げた松明の明かりが、瞼に届くためだった。
鍋や器が乱暴に倒される音がする。男の検分は手荒だ。
この調子ではいつ藁の束も手で払われるかと思うと、ハルはいよいよ覚悟を決めた。とはいえ、武器になりそうなものはといえば杖くらいのものだが。
「水が零れている」
男の足が甕の近くで止まる。鼓動よ止まれとハルは願った。