五.
自覚があったのか、「ああ」と由良が困惑気味に笑う。
「ごめん、そういうんじゃないけど。その様子だと、ここへ来た夜のことは覚えてなさそうだね」
「夜? なにかあったか?」
「寝言がすごかった。飯を寄越せと暴れてさ。あれ、もう寝言の域を超えてたね」
「む! ならば起こせばよかったではないか」
憤慨するハルを由良がいなす。ハルは先ほど君代から聞いたばかりの話を伝えた。神護りも立ち入りを禁じられた場所の話である。
「聞いたことないな。曲島じゃないの?」
由良は胡乱げだ。
「曲島なら、『ずいぶん前に聞いた話』だとは言わんだろう。この水穂国のどこかに、神護りの入れない場所があるのではないか? 私はそこを目指そうと思う」
「仮にそんな場所があるとして、神護りが入れないなら民だって入れなさそうだけど?」
「む、それもそうか」
由良の指摘でその可能性に思い立ち、ハルの意気はたちまちしぼんだ。
「ま、詳しい情報を得るために神護りの懐に飛びこむのは、ありだと思うよ」
「危険ではないか」
「危険だね」
由良がひょうひょうと笑う。ひょっとして気概を試されているのだろうか。
ならば、とハルは意思を固める。策もなくただ飛びこむだけ? とんでもない。
「わかった。では、私は都を目指す。遠坂という名だったか、当主一族は都にいるのだろう? 神護りのいない楽土がもしないと判明したときには、当主以下、神護りを叩き潰す」
「それはそれは……大きく出たね。どうやって?」
由良の顔は、どうせできないと思っている者の顔だ。
そしてそれは正しい、とハルも内心で認める。ハルは太刀のひと振りも持ったことがない。このままでは、飛んで火に入る夏の虫さながら、ハル自身が捕まるだけだろう。
「それはこれから考える。だから由良、お前も一緒に来てくれ」
無為のまま村に留まる気はない。
「困ったな、犯罪者にはなりたくないんだけど」
「そうではない。女のひとり旅が不審がられるのは、お前の言うとおりなんだろう。だから、都に着くまででいい。私に付き合ってくれ」
「熱烈なお誘いだね」
由良が茶化すのを無視してハルは続けた。
「都に着くまで追っ手の目をくらますにも、普通の娘のふりをするのが有効だ。このまま夫婦のふりをすれば万全だろう。誰も私を鎮めの巫女だとは思うまい」
「……だって。フユ、どうする?」
いつのまにかハルの足元にまとわりついていたフユを、由良が抱きあげて肩に乗せる。フユはそっぽを向いた。
「どうしようかなあ、だそうだよ?」
「私はフユではなくお前に頼んでいる。お前が返事をしろ」
由良は目元をわずかに険しくして籠を取りあげると、ハルから目を逸らして歩きだす。
しばらく無言だった由良は、ハルを見ないまま切りだした。
「ひとつ忠告する。今のハルにとっては、神護りだけじゃなく村の人間も敵だよ。巫女が逃げたことが知れたら、まず間違いなく誰もが神護りの側につく」
なるほど、とハルは杖で地面を打つ。
「認識が甘かった。神護りだけを欺けばいいというものではないな。気をつけよう」
「……あのね」
由良の声に苛立ちがにじんだ気がして、ハルは足を止めた。由良の感情が乱れるのを見るのは、初めてではないか。
ところが、由良はすぐに片手をひらりと振った。
「いや、いいや」
フユが由良の肩からハルの肩に跳び乗る。ハルはフユの顎を撫でてやった。
「フユが、ついていってやるって。フユが行くなら、俺も異論はない。都へ行こう」
ハルたちはさっそく旅の準備に取りかかった。
といっても、ハルは怪我の回復に専念するのが先である。食糧などほとんどの物資の準備は由良に任せることになった。
「それに、ハルには元手がないでしょ」
首を捻ると、ものを手に入れるために必要な対価だと説明された。手に入れたいものと交換できる価値のあるもの。
由良が見せた「元手」は中央に穴の空いた銅製の円盤だ。親指の腹よりひと回り大きなそれは、銅貨というらしい。供物という形で物を捧げられる経験しかしてこなかったハルには、新しい知識であった。なるほど、ハルだけではたちまち頓挫したに違いない。
由良が同行に応じたのは、そういう意味でもありがたいことだった。
ハルは代わりに、村の女たちが着なくなったお古を解き、着るものを仕立てることにした。針と糸を手にするのは初めてである。巫女の衣は、これまで年に一度、神護りから新しいものを与えられていた。
「……痛っ」
血が指の腹に盛り上がる。始めて半日と立たないうちに、七回も指の腹を刺してしまい、ハルは腹立たしさで布を投げつけた。
「なんで針が布ではなく指に刺さるんだ! この針は変なのではないか?」
ハルが血の玉を舐めつつ顔をしかめると、君代が呆れた。
「あんたは、ひと針が雑なんだよ」
ハルは渋々ながらにふたたび布を取りあげる。
「この世にこれほどの困難があるとは知らなかった。これなら、山で熊に追われるほうがましだ。針一本で仕留めてやる」
「あんたに縫い物は遙か高みの偉業だってことがよくわかったよ」
けっきょく縫い物は諦め、ハルは代わりに薬作りを教わることになった。
君代が畑で育てた薬草や、その旦那が山で採ってきた薬草の根についた泥を落とし、乾燥させたり、煮沸したり、すり鉢で擦ったのち団子状に練り合わせたりする。
縫い物よりはよほど単純な作業に思え、ハルは熱心に取り組んだ。山育ちで毒草に詳しいハルは、旦那が間違えて採ってきたそれらも瞬時に見分けることができ、薬作りは縫い物よりもよほど向いていると言えた。
「そういえば、名波山で山崩れがあったけど、あれ、神護りの方々が巻きこまれたそうだよ」
ハルは薬草を刻む手を止めて顔を上げた。
「山崩れだと?」
「ちょうどあんたたちが来た日にあったんだよ。この前の新月の夜だっけ。なんでも、主様への捧げ物をした帰りだったそうだよ。恐ろしいことだねえ……!」
血がどくりと騒いだ。
腹の底で、荒ぶる神のうごめく気配がする。さながら黒々とした泥がとぐろを巻くような。なにとも形容しがたい、不穏なもの。
ハルは腹に拳を当て、その鳴動を押さえこむ。
「それで、神護りはどうなった?」
「さあ……こっちの村にはなんの知らせもないからねえ。でもふしぎだよ。曲島に行かれる際には、神護りはいつも名波山を迂回なさるんだ。都から見て名波山は忌み角にあるからさ。なのに、どうして山にいらっしゃったのかしらねえ」
その日の夜遅く、由良が家に戻ってくるなり、ハルは昼間の話をした。ところが意外にも由良の返事はあっさりしたものだった。
「山崩れには、山に入った二十名ほどが巻きこまれたらしいよ」
知っていたのかとハルが憤慨しても、由良は平然とした顔を崩さない。
「崩れたのは主に未申の斜面だって。都から名波の山裾を縫って『神続きの道』に出る道も、崩れた土砂で塞がれてる」
「神続きの道とは、海に現れる道だな?」
ひと月に一度、ほんのいっときだけ、曲島と美原を繋ぐ細い砂の道。
「そう。つまり現状は、都と曲島を行き来するのはほぼ不可能ってこと。俺たちみたいに名波山の獣道を使わない限りはね。巻きこまれた神護りはほぼ即死だそうだ」
「主様が……お怒りなのか?」