三.
【――術などではないわ】
由良は腰に佩いた小刀に無意識に手を置きかけ、はっとその手を止めた。
「主様……!」
由良は飛びすさった。腰が抜けてへたりこむ。
荒ぶる神が、ハルの口を使って語っている。ハルのものとは思えぬ、闇を這いつくばるような声で。いや、声ですらないかもしれない。空気がびりびりと帯電するさまを、由良は連想した。
この家どころか辺り一帯を轟かせそうな神気を前に、とてもではないが正対できない。由良はさらにあとずさる。
圧倒的な力の存在。満ちている。
その力の塊は、意識のないらしいハルの小柄な体を今にも突き破りそうですらある。
ともすれば逃げたくなる気持ちを、由良は必死で抑えこむ。
(神依りとはこういうものか。頭では理解していたつもりだったけど、これは……)
一時的に神をその身に降ろすのとは訳が違う。神が依りついたまま、一体となって生きる。自身の身でもって荒ぶる神を鎮めるのが、神依り。
なんと危うい存在だろう。
たしかに、島に留めておくべき力だと言わざるを得ないものであった。
「ハル、いえ……鎮めの巫女様はどちらへ?」
喉がからからに渇く。声がかすれた。
【――男、娘を縛ったな】
荒ぶる神が気分を害したのが、空気の揺らぎで伝わる。
【まったきものではないがな】
なんの話だ、と疑問が口をつきかけたが、荒ぶる神の気配がさらなる怒気をはらんだ予感に由良は口をつぐんだ。さらにあとずさる。
今はもうほとんど入口脇の壁に背中がつかんばかりの場所で、フユを腕に深く抱えこむ。
【――よいことを教えてやろう】
荒ぶる神は由良の問いに答える気はないらしく、あとを継ぐ。
【名波の男たちには、土を被せておいた】
名波といえば、由良がハルと出会った山である。つまりは、男たちとは追っ手の神護りだ。ハルの口角がにいっと上がり、由良は唾をのみこんだ。
やにわに、フユが由良の腕から飛びだした。荒ぶる神を顕したハルのほうへ駆けていく。
「フユ、やめろ! 手を出すな!」
制止もむなしく、フユがハルに「みゃーあ!」と飛びかかった。
手燭の火を吹き消したように、白銀の輝きが消える。
あとにはハルの穏やかな寝顔だけがあった。
「……フユ。さっきのは俺たちだけの秘密だからな」
由良はもはや不要になった組紐をふたたび腰帯にくくりつけると、直垂の袖口で顔を拭う。
全身にぐっしょりと冷たい汗を掻いていた。
*
ハルたちが名波の山裾の村に着いて、三日が経った。
ハルは、この日やっと床から起き上がった。気を張った反動なのか、高熱が続いていたのである。
「では、その腹には子がいるのか。ただの食い過ぎかと思っていた」
「あとふた月ほどで産まれる予定だよ」
ハルは洗濯物をすすぐ手を止める。君代が呆れた。
「あんたってば! 裏表のない人間は好きだけど、こうもあけすけだと心配になるよ。しかもまあ、思いきりがいいこと。あんなに綺麗な長い髪だったのに、あっさり切っちまったんだねえ」
君代が笑いながら、今にも破裂しそうな腹をさする。
「体が軽くなったぞ。生まれ変わったみたいだ」
村に着いた翌朝、ハルは由良に髪を切ってもらった。今はもう肩下までしかない。ハルはそれを君代にならって、頭のうしろでひとつにまとめた。
おかげで、外見だけなら今のハルは村の娘そのものである。
意思の強そうな目だけは、どう変装しようとも曇らなかったが。
君代がまた顔全体で笑い、ハルの隣に尻をつく。
大半の者はまだ眠りの中だ。小川の清らかな音だけが耳を心地よく撫でる。
ハルはかたわらの竹籠から洗濯物をとり、小川の水で洗っていく。
まだ夜の明ける前に目が覚めて外を歩いてみたら、大儀そうに身を屈めて洗濯をする君代を見つけた。それでハルは手伝いを買って出たのである。
「あんた、大雑把やしないかい? そんなんじゃ汚れが落ちないよ。もっとていねいにやらなきゃ。前に介抱した娘のほうがよっぽど器用だったよ。あたしがみっちり仕込んであげる」
君代はハルの手にあった衣を取りあげ、たらいに入れた汁を丹念に揉みこむ。
「なんだこれは?」
「灰汁だよ。これで汚れが落ちるんだ。あんたは物を知らなすぎる。妊婦も知らなきゃ、灰汁も知らないなんて、親の手伝いをさぼってたのかい?」
「いや、親を覚えてない。おそらく死んだのだろう。私はひとの住む場所から隔絶されていたんだ」
「そりゃ……悪かったよ」
「なにがだ?」
からりと笑い、ハルは灰汁で汚れを落とした衣を川の水ですすぐ。
君代の手ずから、こつを教われば、なるほど色が鮮やかになった気がする。
ハルが鎮めの巫女と呼ばれるようになったのは、成人を迎える前の十二の歳。秋だった。ハルはなぜか曲島の浜辺にいた。赤くくすんだ桜の葉が、浜辺にまで降り落ちていた。
荒ぶる神がハルの体に依りつくまで、あっというまだったと思う。
鎮めの巫女になる前はどうしていたのか、記憶はない。
「じゃあ、あんた……その歳で、ずっとひとりで生きてきたのかい」
汚れた衣服をハルに渡しながら、君代が大きな口を歪める。
「そうだな。山菜採りなら任せろ。たまに滑って足を折ったりしたがな。そういうときはひもじくなるから、ひたすら水を飲んで寝る。君代も、裸足で山を歩くのは慎重にな」
ハルはさらりと答えた。そういえば、ここまで裸足で来たが、由良は沓を履いていた。自分も履き物を用意しなければ怪しまれそうだ。
「……誰も足の手当てをしてやらなかったのかい?」
「そもそもひとがいないからな。だから君代に手当をしてもらえたのは、人生最大の幸運だったな。改めて礼を言う」
「その前に追いはぎに遭ったっていうのに、前向きだねえ」
君代が感心と呆れのまじった笑いをして、濡れた衣を水から引きあげるハルの手に手を添える。そのぬくもりがじわりと胸に染みた。
ハルは衣の水を絞ったが、不十分だと言って君代が絞る。水がぼたぼたと落ちた。きちんとした生活を送っているのだ、と思うと君代に感心する。
「よく生きてこれたよ。大変だっただろう、熱を出しても看病してもらえないんじゃ、ねえ」
「ああ、そういえば一度、倒れたことがあったんだが、そのときに目の前を太った百足が歩いてても、殺生を禁じられているために食べられなかったのはつらかったな。あのときは死ぬかもしれないと思った」
笑って言うが返事がない。おや、と思って見ると、君代が微妙な顔でハルを見ていた。
「あたしが親ならあんたをひとりにはしないのに。……よし、あたしがあんたにたくさん仕込んであげる。でもあんた、いい旦那に出会えてよかったねえ。あんたの旦那、妻を助けてくれって、血相変えて飛びこんできたんだよ」
そうなのか。追いはぎの信憑性を高めるための演技だろうとは思っても、自分のことで誰かが血相を変えるところを想像するだけで面映ゆい気分になる。もちろん、悪い気はしない。
「由良がいなければ、私はここにいられなかった。感謝しかないな。……なあ君代。水穂国を出る方法を教えてくれ」
神護りから逃れ、ひとりの民として暮らす。それがハルの目的であり願いだ。
しかし焦る心と反対に、足はまだ杖のおかげでかろうじて歩けるという程度。現状を思えば、情報だけでも集めたい。
「この国が美原の全土を平定しようっていうときにかい? 冗談だけにしておきなよ。それこそ海にでも出ない限り、どこまで行っても水穂国に変わりゃしなくなるんだから」
「やはり、この国は広いな」
ハルは肩を落とし、灰汁で濁った小川に小石を投げこんだ。
実のところ、君代の返事は、この三日のあいだにハルが由良から聞いたものと大差がなかった。
美原はもとは大小様々な三千にもおよぶ国に分かれていたが、それらは興亡を繰り返し、今は大きく三つの国に分かれる。
なかでも最大の勢力を誇るのが、この水穂国である。
水穂国は今も他国への侵攻を続け、他の二国を支配下に置こうとしているらしい。
「あんたは覚えてないだろうけど、鎮めの巫女様がご不在だったあいだ、国じゅうがひどい雨風に見舞われてね。作物は全滅するわ、家は壊れるわでどこも大変だったんだよ。この辺は被害が小さくて済んだけどさ」
君代の話は、ハルが鎮めの巫女の任に着く直前を指すものだ。
ハルは島を出るきっかけとなった神護りの話を思い出した。民は十年、厄災に耐えたと彼らは言っていた。
「やっと巫女様が代替わりして、主様も落ち着いてくださって。嵐も納まったし、このところは毎年、豊作だよ。水穂国が美原をあと一歩で平定できるというところまでこれたのも、巫女様と神護りのおかげだよ。ほんとうにありがたいことだよ」
君代が手を合わせて、見えない荒ぶる神に向けて頭を下げる。
「……なにがありがたいものか。巫女がどうしていたかも知らないで」
思いがけず呪詛めいた低い声が出て、君代がぎょっとしたがハルも自分で自分に驚いた。
「ハル? どうしたんだい急に」
「なんでもない」
ハルは拾いあげた小石をまた投げようとして止め、握りこむ。