二.
君代に続いて石段を下りつつ、ハルは由良の背中に向けて声をひそめる。
「契りを結んだばかりの夫婦のことね。未婚の男女が旅をすると勘繰られるけど、兄妹というには無理があるでしょ。だから、夫婦。ああ、ハルはそのままでいいよ、俺が適当に話すから。ついでに言うと、女ひとりの旅はもっと勘繰られるからね」
そういうものなのか。世間の事情を知らないハルはなるほどとうなずく。ここはおとなしく由良の言うようにするのが賢明だろう。夫婦と言われてもぴんとこなかったが。
案内された家の中は意外にも広い。石段を降りきったハルは、またしても感心した。
中央に石で囲まれた炉がしつらえられ、向こう側に筵が敷かれている。手前には、ひとの頭ほどの甕や桶、小さな鍋がいくつか、それに木の匙や素焼きの器といったものが並ぶ。屋根となる藁を支える丸太からは、藁で編んだ籠がいくつも吊り下げられている。
ハルたちは炉の前の筵を勧められる。
君代が鍋を炉にかける。ほどなく食欲をくすぐる匂いが立ちのぼった。素朴で優しい匂いだ。ひと口食べて、ハルは歓声を上げた。
「なんだこれは……! こんなにうまいものがあるのか」
「いやだ、芋粥で感動する人間を初めて見たよ」
湯気の立つ雑穀と芋の粥を、ハルはみるみるうちに空にした。すかさず君代がお代わりをよそう。ハルはそれも見事な食べっぷりで完食した。
食事を終えると、君代がハルの足に巻かれた布を剥がして傷を洗う。
「この矢傷、狩りの矢とは違うみたいだね。矢が当たったにしては、傷が浅いよ。肉が抉れてない」
洗った傷口に薬草が貼られ、ハルは呻いた。
「不幸中の幸いってやつだねえ。旦那の応急処置のおかげで、傷の大きさにしては炎症もひどくないよ。けど、そうだねえ、問題なく歩けるようになるには、次の新月のころまでかかるかな」
「次の新月だと!? 十日以上も寝てられるか。明朝には出発する」
清潔な布を改めて傷口に巻かれたハルは憤然と立ちあがったが、とたんに痛みが頭のてっぺんまで突き抜ける。あえなく、よろよろと腰を落とす。
「くっ、薬草が染みる! さっきまで歩けていたのに」
「それは気を張ってたからだよ、ハル。薬草のせいじゃないから」
無知な童を相手にするみたいに穏やかに諭され、ハルは唇を噛んだ。ただでさえ、思いがけず眠りこんだせいで、まだ山裾から離れられていないのだ。いつ神護りに追いつかれるか、気が気でない。
「焦ってもしかたないよ。先のことは、明日になってから考えな。ここは今は空き家だから、遠慮せずに使っていいよ。今夜はゆっくりお休み」
君代が食器をてきぱきと片付けて出ていく。出だしからつまずいたが、こうなったら一刻も早く治すしかない。
ハルは筵の上にさっさと横になった。
「おい、寝るぞ由良。……由良? どうした」
「お前さんは切り替えが早いね」
由良はまだしばらく起きているという。ハルは、炉の火を調整する由良を見ながら、尻まで垂らした長い髪をひと房つかんだ。
「そうだ由良、明日にでも私の髪を切ってくれ」
島では舞と並んで禊も日課だった。そのおかげでハルの髪は濡れ烏のようである。だが惜しいとは思わない。
「切るのはやぶさかではないけど、君代に頼んだほうがいいんじゃない?」
「なぜだ?」
「いや、ほら見知らぬ男に触られるのは抵抗があるかと思うんだけど」
「見知らぬといえば、君代もそうだろう。私は由良でも君代でも切ってくれるならどちらでもよい。私が鎮めの巫女と気づく者はいないだろうが、念には念を入れないとな。それに」
髪を指に巻きつけ、離す。長い髪はするりと解けて筵に落ちる。
「……神護りとて、私の顔などまともに見なかったからな」
無意識に声の調子が落ちるのを、軽やかに由良がすくい上げた。
「いいよ。ま、俺が切るほうがいかにも夫婦って感じもするし」
自分で水を向けたにもかかわらず、ハルはつかのま目をみはった。
「……お前、神依りを前にしても態度が変わらんな」
「そう? だとしたら主様よりも恐ろしいものを知ってるから、じゃない?」
「なんだそれは?」
「さあ。それより、もう寝たら? 早く治したいんでしょ」
ハルは怪訝に思ったが、追及するほどの間柄でもない。なんとなくだが、由良も説明する気はないように見えた。
ハルは仰向けになると目を閉じる。
(ふしぎな気分だな。眠りにつくときに、そばに誰かがいるというのは)
胸の内側からあたたかいものが染みだしてくる気がする。言葉にすれば、安心とか、安らぎとかいうものがそれに近い。
ハルは思いついて頭を起こすと、怪我をした右足は伸ばしたまま背筋を伸ばして由良とまっすぐ目を合わせた。
「お前がいなかったら、私は今ごろ神護りに捕まって島に戻されていた。心から礼を言う」
由良が不意をつかれたというような顔をする。
「……ああ、うん。まだ気を抜くには早いと思うけど? むしろこれからでしょ?」
「そうだな。改めて、神護りから逃げる算段をつけたい。明日にでもお前の知ることを教えてくれ。私だけでは、知識が足りん」
ハルはふたたび横になった。とたんに眠気が襲ってきて瞼を閉じる。
「はいはい、明日ね。おやすみ」
やけにやわらかな声を子守歌の代わりに、ハルは穏やかな眠りに落ちた。
*
遠くで梟が鳴く夜更け、入り口の石段を何者かが下りるかすかな音がした。
「まっすぐで、滅多に見ないほど心に澱みがないね、鎮めの巫女様は。お前さんもそう思うだろう? フユ」
ふり返らずにささやくと、あぐらをかく由良の膝にフユが乗った。喉を鳴らして由良をにらむ。
「おや、さては俺と正反対だって? よくわかってるね。俺はお前さんさえいれば、あとの人間はいなくていいな」
由良は巾着から小豆を取りだし、手に乗せる。フユが待ちきれない様子で、由良の手のひらに口をつけた。昨夜、フユとハルが小豆を取り合ったのを思いだし、忍び笑いが漏れる。ハルは本心に素直だ。
フユは手のひらの分を食べ終えると、もっと寄越せと由良の手を前足で叩く。
由良は小豆を足すと、ハルが深く寝入るのを確認して炉の火を消した。
やがて小豆を平らげたフユが、眠るハルの前を行ったり来たりし始める。落ち着かない様子なのが手に取るようにわかった。由良は、フユの耳のうしろをひと撫でする。
「俺がこれからすることを、お前さんは知ってるもんな」
由良は腰帯に結びつけていた濃紫の組紐を外した。外に出ようと腰を浮かせる。
――ぞわり、と。
背中が、ただならぬ気配に総毛立った。
まるで大君に拝謁を賜ったときに似た、圧倒的な威圧感。
意図せず手が震える。
高揚感はかけらもない。あるのは、地面にめり込むかと思うくらいに頭を押さえつけられる感覚だけ。生き物としての本能が、頭の中で警鐘を鳴らす。
由良はおそるおそる炉の向こうをふり向いた。
「なん……なんだ、これは。新手の術だったり……する?」
唇が勝手にわななく。ハルの髪が白銀に輝いていた。まばゆくて目を開けていられない。由良は思わず眼前に手をかざした。
そこにいるのはハルであって、ハルではなかった。