二.
「おい、由良! 遅いぞ」
怒っているのに、鞠が弾むような声が、洞窟内に響いた。
思わず笑いそうになる。
「ああほら、俺が怒られるのは理不尽じゃない?」
由良は立ち上がって入口までいくと、隙間から体をねじこんできたハルが地面へ降りるのを手伝う。良平が目を丸くする。
「ハル様……? え、生きてんの?」
「なんだ良平、知らなかったのか。こんなところで、いつまでもぐだぐだしてるからだぞ。いい加減、覚悟を決めて豆を祝いにこい」
「……ハル様は強いな」
様付けはいらん、と拗ねるハルを横目に、由良は長兄にうなずいた。
「だろ? 殺しても死なないって。今日だって、ハルが良平兄をなんとしてでも遠坂に連れ戻すって息巻くのを、俺がまず話をするからってなだめすかして来たんだって」
由良が放った矢の先端がハルの心臓を貫いた、あのとき。ハルは、真の名を堂々と宣言した。
その瞬間。
ハルではなく、荒ぶる神がのたうった。
由良が、起きたことの意味を考えるまもなかった。
大蛇の力がゆるんだその隙を逃さず、ハルは大蛇に向かって、自身の心臓に刺さったはずの矢を突き刺したのである。
――荒ぶる神は、名寄せの矢に封じられた。
一方ハルの胸には、どこにも矢の刺さった痕は見られなかった。ハルも、生命力そのものと言わんばかりの目の輝きを取り戻していた。
名寄せの弓矢は、遠からず曲島に祀られる予定だ。
遠坂の家はこれから、家の在りかたを議論しなければならないだろう。現当主の体のこと、次期当主を誰が務めるのか、そして瀬良の処遇をどうするか。良平のこともある。
遠坂に限っていえば、問題は山積みだ。
とはいえ、神護りの務めは変わらない。弓矢に封じられた荒ぶる神を祀り、神事を執り行う。水穂国の安寧のために。
巫女を捧げずに。
「ほんっと、土壇場にあんなことをするなんて、予想外だったよ」
「なんの話だ?」
「無鉄砲な娘の話だよ」
「さては私か?」
「さあ、どうかな」
まだなにか言いたそうなハルを忍び笑いでいなして、由良はハルとともに洞窟を引き返す。だが良平がついてこないのに気づいて、由良は足を止めた。ハルを待たせておいて良平のところに戻る。
あぐらをかく良平に呆れつつ、由良は「あのさ」と口を開いた。
「いつか、ハルにゆえの話をしてやってよ。俺にはできないことだからさ」
「いつか、そうだな……。ハル様……ハルの真名はなんだったのだろうな」
由良は間髪いれずに答える。
「ハル、だよ」
ハルの真名。
おそらくそれは、ゆえが最後に引き寄せて、自身の命とともに持っていってしまった。この世の向こうに。
「……そうだな。菫と双子なら、きっと春生まれだ。ハルがぴったりだな」
良平が感慨深そうに言う。由良は釘を刺した。
「あと、今日は豆の元服だって言わなかった? 絢乃と豆にも会ってくれよ」
由良は、座ったままの良平の元に戻り耳打ちする。良平が少し考えてから応じた。
「俺には……菫がいる。今日もどっかしらで夕食を調達して、俺を待ってるんだ」
「まだ煮え切らないわけ?」
由良は鼻白んだが、良平は首を横に振った。
「菫に話せたら、そのときは絢乃たちにも会いにいく。ちゃんと話すよ」
「……わかった」
おい、と先に行ったハルがふり返り、由良は足早に追いつく。
「良平兄はあとから来るって」
あとから、がいつになるかはわからない。
だがまったくの嘘でもないはずである。
「そうか。……よかった。皆が、笑い合えるとよいな」
その言葉はハルらしく飾り気のないものだった。それが胸に心地よい。
ハルの頭にぽんと手を置くと、咲き初めの花のような笑みが返ってくる。無防備に向けられたその表情に、由良の胸が思いがけず騒いだ。
なぜだかばつが悪くなり、かといって手を離すのも名残惜しくなり。
由良は一度めよりもやや乱暴な仕草で、ハルの頭をかきまぜた。
ハルが由良とともに遠坂の屋敷に戻ると、豆の支度が終わったところだった。
髪を頭のてっぺん近くで結い、薄墨の袍に白袴を着た豆は凜々しく見える。ハルはほう、とため息をついた。
着付けた絢乃も誇らしそうだ。
「見違えたな、豆」
「まだ冠をつけてもらってないから、落ち着かないけどな!」
豆が胸を反らしたところに、襖戸を開ける者があった。良峰が、いかめしい顔をいつもの倍はいかめしくして入ってくる。
「いったいいつになったら元服の儀を始められるんだ。さっさと支度しろ」
「今、終わったよ」
良峰はハルたちも揃ったのを無言で確認すると、奥の間の上座に足を進めた。豆がその正面に立つ。ハルは由良や絢乃にならって隅へ下がった。
良峰の手には、成人男性が被る冠がある。ハルは隣で正座した由良を盗み見た。由良もまた、良峰や豆とおなじく薄墨の袍に白袴。正式に神護りと認められたのだろう。
胸がじわりと、熱を持つ。感動と呼ぶのかもしれなかった。
「良久、そなたを今日より神護りと認める。主様のお心を安らげるため、そしてこの国の繁栄と安寧のため、いっそう励まれよ」
「はい。おれ、誰よりも強くなって主様とこの国の人々を護ります」
豆、改め良久が頭を下げる。良峰が進み出て、結った姿がまだ馴染まない小さな頭に、重々しい仕草で冠を被せる。
良久が顔を上げた。
新米ではあるが、立派な神護りだ。これから、この国を支えていく柱となる。
「おめでとう、良久。無事にこの日を迎えられて、嬉しいわ」
絢乃が真っ先に良久を抱きしめる。良久は居心地悪そうに身じろいだ。
「おれ、もう赤子じゃないんだって。かかさま、そこちゃんとわかってる?」
「まあ、まあ。そうね、良久。あなたはもう大人ですよ」
絢乃が体を離し、良久がハルに駆け寄る。
「これでおれも、いっぱしの神護りだからな。ハル。もし今後なにかあったら、そのときはおれが護ってやる」
「頼もしいな豆――じゃなくて良久」
「で、どう、完成形のおれ。ハルもおれに惚れたか?」
「惚れる? とは」
ハルが首をかしげると、良久が唖然とした。
「……簡単に言うと、そうだな、心臓を射貫かれた気分になることだぞ」
「ああ、なるほど。それならわかる。私も由良に心臓を射貫かれたからな。あれは肝が冷えた」
皆の視線が、微妙な空気を含んでハルを向いた。
「……ハル、それ違うから」
「む、なにが違うんだ、由良」
答えようとした由良とハルのあいだに良久が体をねじこんだ。「由良は黙ってて」と制する。
「ハル、おれこの日をずっと待ってた。やっと言える。ハル、おれの奥さんになってくれ!」
「まあ……っ、まあ、良久、そうだったの? どうしましょう」
高い声でおろおろし始めたのは絢乃だ。男たちはと見ると、良峰も由良も絶句している。ややあってから、良峰がつぶやく。
「これは……告白か」
ハルはといえば状況が飲みこめずに、はて、と首をかしげたきり思考が止まっていた。
聞き違いでなければ、良久の伴侶になれと言われた――ということでいいのだろうか。
ところが、ハルが返事をするより先に。
「駄目だよ、ハルは」
隣から返事が聞こえた。
視線が由良に集中し、ハルも由良をまじまじと見つめる。
「む。どうせ、無鉄砲だからやめておけという意味だろう。失礼なやつめ」
「……え」
なぜか良峰と絢乃が揃ってぽかんとする。由良が珍しくむっとしたと思ったら顔をそむけ、ハルは首をかしげる。
「なんだ、そんなの問題ないじゃん」
良久だけが得意満面に薄墨の袍の胸を反らす。ハルは苦笑して、足下にすり寄ってきたフユを抱きあげた。
「良久。私は今、これまでになく体が軽いんだ。だから少なくとも、今はお前の妻にはならん。これから、君代たちにも会いにいきたいしな」
名波の山裾で出会った、面倒見のよい姉のような女人は、今ごろどうしているだろう。子を産んで、てんやわんやだろうか。顔が見たい。
君代だけではなく、村の皆に会いたい。今度はただのハルという娘として接してほしい。
今、ハルの中にある新しい望みがそれだった。
すべてが終わったあと、どうしたいか。以前は思いつかなかった新しい望みが、ほかにも次々に湧いてくるのを感じる。
「だが、私がこうしてここにいられるのも、すべてはおまえたちのおかげだ。なにしろ、由良は私に名をくれた大事な男でもあるからな」
「そんな熱烈な告白されたら、おれ完敗じゃん!」
「なぜだ? お前がいなければ、私の心はとっくに折れていた。お前も大事な男だ」
ハルが笑いかければ、良久が頬を真っ赤に染めあげてもごもごとなにか言う。
「ハル様はひとたらしのようだ」
良峰がぽつりと零す。そこにはかすかに呆れ笑いのような響きがあった。
ひとたらしとはどういうだろう。しかし、これまでより親しみやすさを覚える良峰の表情を見たら、まあどんな意味でもいいかと思う。
「良久、次に会うときには立派な神護りになっていろ。――由良も」
ところが、息災でな、と続けかけたハルより早く、由良が「あのね」と口を開いた。
「ひとりで行く気?」
不機嫌そうだ。なぜかはわからないが。
「女ひとりの旅は勘繰られるって言わなかった? ひとりは危険なんだって」
ハルは、名波の村に寄ったときの由良の話を思いだした。
「しかしあれは、お前が私を捕らえるための方便だろう」
「違うから。ほんとうに危険だから、護衛が要ると思うな。俺とか」
「いいのか?」
ハルは意外な申し出に目をまたたいた。
だが、じわじわと喜びが満ちてくる。心が躍るとはこういうことを指すのだろうか。
「では、名波までついてきてくれ。由良」
「最初からそのつもりだったよ。ハルは放っておくと、ろくなことがなさそうだから」
由良が眩しそうに目を細めて笑う。心なしか、やわらかさの増した声だった。春の陽気に包まれたかのような。
「お前がくれた名は、よい名だな」
ハルは襖戸を開け放ち、外縁に出る。
どこもかも、眩しい――と思った。
「今日は良久、お前とお前たち神護りのために舞を捧げる。そこで見ていろ。これが私からの祝いだ」
ハルは外縁から庭に降り立ち、空を仰ぐ。
曲島から見た空に続く空。だが初夏の近づいた爽やかな風が連れてくる気分は、島で空を見ていたときとはまったく違う。
澄み渡った空に、一瞬、神気が吹き抜けたような気がした。
ハルは、自分のものとして馴染んだ白衣に朱の袴の裾をととのえる。
ひと呼吸して。
大きく一歩、ハルは空へと軽やかに跳躍した。
<了>




