一.
一度は瀬良によって塞がれた洞窟の入口は、岩がどけられてふたたび通れるようにしてあった。
由良は入口の横で馬を下りると、そばの木に手綱を留め、入口の隙間に体を滑らせる。とたん、冷気に頬が強張った。
初夏に差しかかるというのに、洞窟の内は地上に吹く爽やかな風とは無縁だ。
地下深くへ連なる岩も崩れていたが、良峰らが手を入れたのか、予想したよりは歩きやすかった。
平らな地面に降り立った由良は、いくらも奥に進まないうちに唖然とした。
「やけに歩きやすいと思ったら……うわ、良平兄。ほんとうにここにいた」
湖畔で寝そべっていた良平が、頭だけを起こした。以前は削げていた頬の肉も戻ったようだ。冠のない頭が短く揃えられているのと、目尻の皺を除けば、由良がもうひとりいるといっても良いくらいである。これは髪を切れないなと由良は心の内で苦笑する。
「ここ落ち着くんだよな。お前もそうなんだろう? 神気が残ってる……けっきょく、俺たちは神護りなんだと思わされる」
「ま、ね」
由良は湖畔まで歩みを進めると、良平の隣に腰を下ろす。
「遠坂には戻らないわけ?」
「……今さら戻ってもな」
「今日、豆の元服の儀をやるって」
「そうか、良久はもうそんな歳になったのか」
良久は豆の真名だ。
良平は息子の元服姿を頭に思い浮かべたらしく、相好を崩した。
曲島での一件のあと、由良は消えかけていた神続きの道を渡り、名波の山から都へ戻った。曲島は断末魔の叫びのような地鳴りを起こし、地下道は崩れた山の土砂で埋まったからである。今となっては、水穂宮と曲島を地下から行き来するのは不可能になった。
そしてまた、水穂宮からこの洞窟へ向かう地下道も封鎖された。封鎖したのは、良峰だった。
『名寄せの弓矢を使う日がこないならば、安置する場所ももはや不要だ』
曲島へたどり着くには、相も変わらず神続きの道ができるのを待つしかない。神護りは、道が繋がるたびに供物を持って曲島を訪れる。
これまでと変わらない日々。だが。
「由良、巫女様はあれからどうなった?」
由良は笑って首を横に振る。
最後の巫女は、由良が放った名寄せの矢を受けて消えた。
「あのさ、巫女様じゃなくてハルだからね。ゆえの子の」
さらりと最後につけ加える。
良平が目の玉が転げ落ちそうなほど見開いて飛び起きた。
「……おい、由良、なぜお前がそれを知ってる」
「やっぱりそうなんだ?」
良平はあんぐりと口を開けて由良を見てから、深い息を吐いた。
「かまをかけたな。良峰がお前に手こずるわけだよ」
「良平兄こそ、俺たちに言わなかったよね? ゆえが射たはずの赤子の行方。赤子は死んだんじゃなくて、消えたって」
良平が口をつぐみ、由良は確信した。
「良平兄は消えた赤子を探してたんでしょ? 矢じりをすり替えた罪悪感も遠坂に戻らない理由のひとつだろうけど、ほんとうの理由は赤子を探すためだ。違う?」
良平は無言だった。肯定なのはその顔を見ればわかる。
「だから、ハルを見てあんなに驚いたんでしょ。鎮めの巫女が現れたからだけじゃなくて、ハルがゆえに似てたから」
「それだけじゃない。……菫とも似ていた」
良平が声を落とした。
「菫って? ああ、良平兄の子だっけ」
「俺じゃない。ゆえの子だ。ハル様の双子の姉にあたる」
「――えっ」
今度は由良が驚く番だった。
「いや、待って。嘘だろ。似てるとは思ったけど、そっくりっていうほどじゃ……」
「双子が皆、そっくりとは限らないだろ」
「それはそうだけど」
菫は落ち着きのないところはあるが、ふっくらとして愛嬌のある顔である。ハルの、意思の強さを感じさせる凜とした顔立ちとは違う――と思い、由良は気づいた。まん丸の大きな目が、おなじだ。起きる出来事にへこたれない強い輝きも、おなじ。
(そうか、ゆえは双子を産んだのか)
そのうちの一方が巫女に選ばれ、もう一方はあとに残された。良平は配流先で、ひとりその娘を育てたのだ。
「ゆえとは、遠い関係だったはずなんだがな。ふしぎなものだな」
「ハルにも言わなかったのはなんでだ?」
「確証がない。それにたとえ事実だとして……双子の内、自分だけが神依りを定められたあげく、実の母親に矢を射られたと、どうやって言えるというんだ?」
「ハルなら、わかってくれるよ」
「血を分けた兄弟に命を狙われたお前が、よくもそんな呑気なことを言えるな」
「……」
「悪い。今のは忘れてくれ」
良平が気まずそうに目をそらす。いつのまにか洞窟までついてきていたフユが、由良の代わりとでもいうように良平の手をぺろりと舐める。
この黒猫は実に、由良以外の人間には優しい。
「……ゆえは、ハルを殺そうとしたんじゃない。助けようとしたんだ。名寄せの弓矢を使ったのはだからだよ」
フユを撫でていた良平がはっと顔を上げた。
「なんだって? なぜそんなことがわかる?」
「それは、俺がゆえとおなじことをしたからだよ」
由良はフユを良平から引き寄せると、嫌がるフユを抱えて撫で回した。
「子が巫女に選ばれると知ったゆえは、死に物狂いで主様から子を取り返す方法を探したんだと思う。それで、名寄せの弓矢の意味に行き着いたんだ」
真名を寄せて、自分のもとに縛るための弓矢。
巫女が使えば、それは荒ぶる神に縛られるも同然になる。
「弓矢を使えば赤子を取り返せるかもしれないと、ゆえはとっさに考えたんじゃないかな。けど実際には、赤子の存在をさらに薄くしてしまったんだと思う」
名を取りあげられれば、本人の存在は「薄くなる」。この国人々は太古の昔から、名をつけることで対象をこの世に固定してきたのだから、逆もしかりだ。
だが直接体を射られ、神気を受けたのだから、ひとたまりもなかっただろう。
おそらく、存在が薄くなるどころではすまなかった。
「そこまで気づいていながら、ハル様を射たのか?」
「喰われたらそれで終わりでしょ。消えるだけなら、死ぬよりいい。……消えても、また見つけるつもりだった」
それ以上は由良にも確信はない。だが、見つけられる目算はあった。
ハルに出会ってから抱き続けていた違和感。それは前向きなハル自身の性格のおかげで軽く流されがちなものだったが、由良は引っかかっていた。
もしもハルが本人の言うとおり、ひとりきりで生きてきたのだとしたら。
なぜハルは、他者との会話に支障がなかったのか。
相手が誰であってもまっすぐに切りこみ、柔軟な対応を知らない点は、曲島の環境によるものだ。しかし、ハルには相手の話を理解するだけの素養はあった。語彙が少ないのはたしかだが、ないわけでもない。
つまりは、良平たちの前から消えてからも、ハルには他者との関わりがあったのである。
とすると、ハルはいわゆる「神隠し」に遭い、どこかに飛ばされたのではないか。
ハルはそこで、巫女になるまで誰かと過ごした。
とはいえ一度は荒ぶる神に引き寄せられ、しかも神気を直接体に取りこんだ身。ハルは成人を迎えるまでに曲島に戻される定めにあった――ということではないか。
だから由良は、今にもハルが喰われそうだったあの局面で、最後の手段として名寄せの弓矢をハルに向けた。
「ゆえは死んだから無理だったけど。俺なら、ハルがどこかに飛ばされても引き寄せられるだろう、なんてことも思ったわけ」
「危ない橋だな、おい……」
由良は「だってさ」と、わざと表情をおどけた風に崩した。
「ひとりで死にたくなくて足掻き続けてきた子が、最後の最後になって自分はいいから俺に逃げろと言ったんだよ。喰われるままにさせちゃ、男として最低だと思わない?」
「お前……そこまで」
良平はそれきり押し黙り、由良の元から逃げてきたフユを抱きあげてひと撫でする。
「……泣くなら、ここで泣いていけよ」
「なんで泣くんだって」
「いやほら……いなくなっちゃったんだろ、ハル様」
それを聞いて、由良は――噴きだした。
「そっか、そこまでは聞いてないんだ?」
どうやら良平の耳に入った情報は、由良がハルを射たところまでらしい。重要な部分が抜け落ちている。
由良は説明しようと口を開きかけたが。




