一.
刻々と明るさを増す空と、由良を従えたフユ(というようにハルには見えた)に急きたてられるようにして山を下りると、急に視界が開けた。
砂の色がむき出しになった大地と、点在する人家。およそ二十軒あるかないかといったところか。人家は円錐形で、どれも分厚い茅で覆われている。
いくつかの人家から、煙がたなびく。
由良が大地を指して、水を張る前の水田だと説明する。そこで人々は稲を育てるらしい。ほかにも、栗や小豆、大豆なども栽培されているという。
「これが皆の暮らす場所なのか」
ハルは感心した。島では、ハルの背丈ほどもある巨岩のせり出した場所を庇代わりにして寝起きしていた。家を造ろうとは思いもよらなかった。
「のどかな集落だよ。この辺ならこんなものだろうね」
見渡すかぎり、平坦な大地とまばらな人家は、どこまでも変わらない景色に見える。
「この辺りは下分の端だから。上分へ行けば、頑丈な造りの家が増えるよ」
「想像がつかんな」
ハルが顔をしかめると、由良がひょいと乾いた水田へ下りた。
「少しここで待ってて。この先は道が開けてる分、追っ手にも見つかりやすい。先にいって様子を見てくる」
由良は水田の端に積まれていたものを抱えあげ、あとから下りたハルに押しつけた。
「なんだこれは?」
「稲だよ。念のためにこれで身を隠しておいて。フユも置いていく」
「ふむ。米が入ってない」
「刈り取ったあとの藁だからね。こら、物欲しそうにしないの」
由良が人家の方向へ去ると、ハルは改めて藁束を見つめた。
これで身を隠せと言われても、適当な場所が見当たらない。どこまでも水田が広がるだけなのだ。
川べりならば、水辺の草の合間に身を隠せるだろうが、あいにく近くにはなさそうである。そして、ハルにはこの場所から動いてよいのか判断がつかなかった。
「まあよい。隠れるなら、この藁の山に隠れたほうが手っ取り早いな」
ハルはフユを抱きかかえると、うずたかく積まれた藁に潜りこむ。藁の中は意外にもあたたかい。目を閉じれば、昨日からの出来事がめまぐるしくよみがえる。
(今ごろ、神護りは私を必死に探しているのだろうな)
どうすれば、神護りから逃げ切れるだろう。神護りから逃げて、ほかの民とおなじように家を建て作物を育てて、穏やかに暮らしていけるだろう。
最初こそ考えを巡らせたものの、いつしか意識は深い眠りに落ちていく。
やがてすっかり寝息だけが聞こえるようになったころ。
ハルの黒髪が突如として白銀に輝いた。
眠っているはずの目が、カッと見開かれる。
フユが毛を逆立てて藁の山から飛び出した。
「あのね。逃亡中に昼寝って、肝が据わるにもほどがあるでしょ。俺も昼寝のひとつやふたつ、したいんだけど」
藁の擦れる気配で目が覚めたハルは、藁の束をどけた由良の顔を見て顔をしかめた。
「目を閉じてから、まだ片手で数えるほどしか経ってないだろう」
「これを見てもそう思う?」
由良が真上を指差し、ハルも空を見あげた。陽は落ちかけており、遠く山の稜線が朱く染まっている。目線を由良に戻せば、その影が長くハルの上に落ちていた。
「ほう、今日はときの過ぎるのが早いな」
思ったより長く寝入ったらしい。由良が何度かハルの名前を呼んだらしいのだが、それもまったく気づかなかった。
「そういやフユがいない。どこかへ行ってしまった」
抱いていたはずだが、と左右を見回すと、みゃあ、という鳴き声とともにフユが由良の足のうしろから姿を見せた。
「なんだ、由良のところに行っていたのか」
「フユが俺に居場所を教えてくれなかったら、今日もなにも食べられずに終わるところだったとは思わない?」
ハルは目を見開いて頭をかきむしった。藁がぱらぱらと肩に落ちる。
「食い物はどこだ」
「さあ、どこかな」
含み笑いをする由良を、ハルは思いきりにらんだ。
「おいフユ、由良に噛みついてもいいぞ」
「食事にありつきたかったら、これに着替えて。その服じゃ、正体がばれるのは時間の問題だ」
異論はない。ハルは藁に埋もれた自身の出で立ちを見おろすと、さっそく袴の帯を緩める。だが、降ってきた藁の束に邪魔された。
「なにをする。おい!」
抗議して藁をどけると、さらに大量の藁が降ってくる。生き埋めにでもするつもりかと憤慨してふたたび藁から顔を出したが、由良がいない。
「由良?」
声は背後から聞こえてきた。
「ハルは恥じらいを身につけるべきだね」
恥じらいとはなんだ、とハルは尋ねようとした。
だが、さらに藁が降ってきそうな気配がする。ハルは慌てて着替えを手にとった。
渡されたのは淡い紅色の小袖に茜色の前掛けみたいな衣だった。前掛けには紐がついているので、これで小袖も留めるのだろう。着方そのものは巫女装束と大きく変わらないようで、ハルはさほど労せずに着替えられた。
「こんなものか」
由良の前に出ると、由良も藍色の直垂に着替えていた。巫女の衣を藁の山に隠し、由良についていく。
ハルは、まばらに立つ人家のひとつに連れていかれた。いぶかしく思うまもなく、中からふくよかな女人が現れる。
「いつ来るのかと待ちくたびれたよ。迎えにいこうかと思ってたんだ。ああよかった、着丈が合ったようだね」
髪を無造作に耳の下でまとめた女人は、由良よりひと回りは年上らしい雰囲気だった。特に腹が前にせり出しているのが目を引く。ハルに衣を渡したのは、彼女だろう。話しかたも動きもきびきびとしており、好感が持てる。由良と知り合いなのかと思ったが、違うらしい。
女人は君代と名乗った。
「せっかく新婚の旅路だっていうのに、災難だったねえ。案外、旦那が目立ったからかもしれないよ? ちょっと見ないほどの男前だからねえ」
「は? 新婚とは、なん――」
だ、とハルが言う前に、由良が平然と答える。
「追いはぎの放った矢が妻に刺さったときには、生きた心地がしませんでした」
「追いは……」
ぎ、とまたしてもハルが口を挟むまもなく君代が相づちを打つ。
「そりゃあそうだよ。しかも、なにもかも取られたんだって?」
「ええ……」
「可哀想にねえ。でも命が無事でよかったねえ。さあさ、安心しなさいな。もう大丈夫だから。粥でも食べて、ゆっくり休みな」
神妙な顔の由良を君代が慰め、中に招き入れる。
どうやら由良は、追いはぎに遭ったという話を用意して君代に助けを求めたらしかった。
「おい、新婚とはなんだ?」