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神依る巫女の反逆 水穂国事変  作者: 白瀬あお
六章 巫女は春の名を呼ぶ
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八.

「主様は、俺の前で最初に顕現されたとき『縛ったな』とお怒りだった。『まったきものではない』ともね。その意味を、考え続けてた。……名寄せの弓矢の役割を知って、やっとわかったよ。主様は取りあげた真の名で、代々の巫女を縛ってきたんだ」


 弓矢は暴風で今にも吹き飛ばされそうだ。

 だが、由良は余裕の笑みを崩さない。


「ということは、だ。逆を願うなら、主様から真の名を取り返せばいいんだ。ま、それが難しい。代々の巫女にはできなかったしね」


 巫女は、自分に真の名があった事実すら知らずに死ぬ。

 理由は簡単だ。この島から出られず、真の名があると教えてくれる者がいないから。


「けどさ。ほんとうはハルにも、主様からなんとか名を取り返せと言いたいところだけど。……ハルにはおそらく真の名がない。いや、正しくはなくなったと言うべきかな。なぜなら、ハルは――」


 暴風が由良の声をかき消す。ハルはもどかしい思いで耳を傾けたが、聞こえない。


「だから、最後の手段。瀬良に襲われる危険を考えて、フユに持ち去られる前に矢じりをすり替えておいてよかったよ」


 由良は迷いのない仕草でさらに一歩ハルに近づく。


「こっちが、本物の矢だ」


 ハルの混乱はいや増した。由良は本物の名寄せの矢で、ハルを射ようとしているのだ。


(ばかか!? 由……良! 由……)


「…………――良! そんなことをすればお前が……」


 ようやく声が表に出て、ハルは肩で息をした。水の底に沈んでいたのが、やっと水面から顔を出せた心地に似ている。ハルは息も絶え絶えだった。


「ハル?」


 ハルを覆う分厚い膜がやけに生々しくうごめき、ハルは不吉な予感に背を押されながらどうにか首を下に傾け、目を見開いた。


 真っ白なうろこに覆われた大蛇が、絡みついている。


 大蛇はハルの視線に気づくと、のっそりと鎌首をもたげる。曲島に咲く椿の花よりも、血よりもなお赤い目が、ハルを縫い止める。


「主様! いつから……!?」


 瀬良がいたときは、大蛇はまだ現れていなかったはずだ。ハルは分厚い膜で外から隔てられていたが、瀬良の視線の先はハルであって大蛇ではなかった。荒ぶる神がその体を現したのは、瀬良が逃げ、由良が弓矢を構えてからだ。


 とうとうハルでは鎮められずに、外に出たというのか。

 こうなれば、ハルが喰われるのは時間の問題だ。


(由良はどうする気だ!?)


 大蛇は悠然とハルの体を這う。その胴体はあまりに長く、大蛇が動くのにともなって内蔵が引きずりだされていくのに似た感覚がハルを襲う。


 尾は見あたらなかった。真っ白な頭から続く胴は、先へいけばいくほど色が薄く、透けていく。消えたのではなく、ハルと一体化しているのだ。


 肌を撫でる、ぬるりとした感触に怖気が全身を襲う。


 大蛇は丸太のごとき体をくねらせると、胴の下のほうをハルに巻きつけたまま、頭のほうを伸ばして由良へ襲いかかった。弓矢の狙いがぶれ、由良が大蛇に抵抗する。


「……っ、と! これでも俺、主様にいはひと言もふた言も言いたいことがあるんだけど」


 由良はあくまでも余裕ぶったが、大蛇に首を絞められて無事ですむはずがない。

 ハルはかろうじて動くようになった手を大蛇の胴体に回して引っ張ろうとしたが、うまくいかない。大蛇のせせら笑いが空気の震えとなって伝わる。


「由良、駄目…………だ、私はいい、だから私から……逃げ……ろ……!」

「なーに言ってんの」


 由良はハルを笑い飛ばしたが、次の瞬間には細くうめき声を上げた。大丈夫だと言わんばかりに笑顔を向けられても、ハルの心臓は凍りついた。

 普段だったら、呆れたことだろう。しかし今は、ただただ恐ろしい。


「やめ……、私はともかく主様を射る……な……! お前も、お前の大事な者たちも死ぬぞ……!」

「あー、主様に仇なすつもりはないよ、ハル。ゆえがやったようにするだけだから」


 大蛇が絡みつき、ほとんど覆われた顔から、切れ長の涼やかな目が真剣な光を灯してハルを見る。しかしハルの頭は混乱したままで、由良の意図がつかめない。


 ますます焦るハルと反対に、由良は落ち着いている。けれど、首を圧迫されて苦しそうで見ていられない。


「ハルは俺を……良平兄のまがいでも写しでもないと言ったけど。ハルだって鎮めの巫女様でも主様の器でもないから。大丈夫、呼び名でもそれなりに『縛った』はずだから、ちゃんと俺に引き寄せる。最初に欺したのは俺だけど……信じて」

「なにを言いたい……!?」


 大蛇に締めあげられながらも、由良は決して弓矢を離さない。何度も、何度も、こちらに向けて矢を構えようとする。


「頼むから、逃げてくれ……!」

「いいから。――信じてみて」


 ふたたびの言葉はまっすぐにハルの胸を貫き、手が止まった。

 自身の体がしかるべき場所にすとんと着地したような、ふしぎな感覚に陥る。


(……そうか)


 なにも持たない器だと思ってきたが、ハルは持たなかったわけではなかった。

 ずっと空の器のままでもなかった。


 ――自分を自分たらしめる「くさび」。


 それはハル自身が名を取りあげられてからこれまでに形作り、築きあげてきたもの。そして今すでに、ハルのなかにあるもの。

 君代たち村の人間や、菫を初めとした都の人々、神護りたち。抱える思いは違っても、ハルがこれまでに出会ったすべての者が次々に頭に浮かぶ。今のハルを作るもの。


 そして。ハルは前を見て怒った。


「とっくに信じてるんだが!?」

「……ぷっ、はは」


 由良が笑ったのが、大蛇の咆哮を縫うようにハルに届いた。

 荒ぶる神に支配されるのでもなく、民の犠牲になるのでもなく。自分を偽ることもなく。

 ただ、自分はこう在りたいと望んで、手に入れてきたもの。そのすべてが、荒ぶる神とは異なる、ハルという一個の人間なら。


「っと、さすがにこれ以上は無理そう……っ! いくよ」


 今にも首をへし折られる寸前の一瞬の隙を突き、由良がふたたび弓矢を構える。

 ごう、と風が暴力的な音を立て、大蛇が――荒ぶる神がハルの前に躍りあがり。


(ならば、私の真実は)



「私は……私の真の名は、ハルだ」



 矢が。

 ハルの心臓を貫いた。



 風がぴたりと止む。曲島を静寂が満たす。


 空を覆い尽くしていた雲が、かき消える。



 やがてしらじらと明けゆく空に、春告鳥の鳴き声が軽やかに響き渡った。

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