七.
神護りたちが、ようやく対岸と繋がりそうな神続きの道を我先にと逃げる。しかし大波が神続きの道をのみこみ、彼らは立ち往生した。小舟は、とうに波間に消えている。
どうすればいい。
(意識があるんだ、なにかできるはず! 主様! 頼むからやめてくれ! 鎮まってくれ!)
ハルはぐっと手足に力を入れる。だがやはり、蝋で固められたかのようにぴくりともしない。
(せめて名寄せの弓矢があれば……)
喰われたくはない。だが少なくとも、代替わりを行えばこの厄災は終わらせられる。瀬良たちは助かる。
瀬良を助ける気があるのかと問われれば、うなずけるものではない。しかし、神護りが生き残れば由良が助かる可能性も皆無ではない。
それだけではない。
荒ぶる神が暴れるままにすれば、水穂国全土に災厄が広まる恐れがある。
(弓矢はどこだ……っ!?)
唯一自由になる視線だけをめぐらせ、ハルは必死で周囲を探る。吹き荒れる暴風はハルを中心にして起きているらしく、ハルの周りだけは奇妙に凪いでいた。
名寄せの弓矢は足下に落ちていた。
ハルは、ままならない手足に意識を集中させる。碇をつけられたのかと思うほど、重い。あるいは土壁を指一本で崩そうとするかのようだ。
こめかみに汗が流れる。奥歯を噛みしめ、ハルは屈もうとする。骨が軋み、今にも砕けそうだった。
(痛いっ!)
骨ごと握り潰されそうな気分になりながら、足下に手を伸ばす。
外からは、その光景は滑稽に見えただろう。その場にただしゃがむだけのことができず、ハルは全身を震わせる。
しかし誰ひとり、その様子に気づいた者はいなかった。皆、曲島から逃げることしか頭になかったのである。
(なんとか……頼む!)
骨がみしりと悲鳴を上げるのも構わず、ハルはなおも手を伸ばす。
ところが、何者かが足下の矢をかっ攫った。
(は……!? ちょっ、返せ!)
忽然と消えた矢を前に、ハルは呆然とした。ところがその何者かはすぐに戻ってくる。
「みゃあ!」
(フユ……! おい、さっきのやつ返せ……っ)
「みゃあ?」
黒猫は出会ったときとおなじ金色の目でハルを見つめると、ハルの目の前で悠々と弓を咥えた。一歩も動けないでいるハルを尻目に、すたすたと暴風の中へ戻っていく。
(フユ! 嘘だろう……?)
ハルは呆然とした。飼い主に似てひょうひょうとした動きを微笑ましく思うまもない。弓矢が取られてしまった。
身ひとつで、どうやって荒ぶる神を止めればいいのか。忙しなく思考を働かせるが、今度はフユではなく瀬良がにじり寄ってくるのが目に入り、ハルはわれに返った。
「兄上には僕がいないと……代替わりに失敗すれば、兄上が責められる……だから巫女様、あなたにはここで死んでいただかなければ……」
瀬良が猛烈な風の中、じりじりと這い進む。強靭な精神力、いや執念だった。
その手には、ハルが由良に返してもらったはずの小刀。
(代替わりできないから私を殺す? それこそ、ゆえが赤子を殺したときのように災厄が止まらなくなるぞ!)
しかしハルは微動だにできず、ただ刃の先がきらめきながら迫るのを覚悟し――。
「ハル」
細い、糸のような声を耳が捉えた。
ハルを囲う分厚い膜が、わずかに揺らめいた。
(……由良!?)
ハルは目を見開く。しかし同様に驚きをにじませた声は、ハルのものではなかった。
「由良!? なぜまがいが、ここに」
瀬良は振りあげた小太刀ごと、由良に手首をひねられていた。
「そんな顔しないでよ、瀬良。俺だって驚いてるんだからさ、洞窟では俺を突き落としてくれてありがとう」
いつも綺麗に縛られていた由良の髪が、暴風に乱れる。濁った膜の向こう、ふたりの顔が等しくうかがえた。
驚いていると言うわりに、由良の口調は普段と変わらない。
ハルのほうが驚きのあまり頭が働かない。
「どうやって来たんです」
「知りたい?」
「……」
「ハルなら素直に知りたいと言うところだよ。ねえハル?」
分厚い膜がまた揺らめく。
由良はハルを見て笑うと、瀬良に向き直る。ハルはその笑顔にほっとする。だが、瀬良を見た由良の目は笑っていなかった。
「洞窟を出るはずが突き落とされたときには、万事休すと思ったよ。けどま、あんたがしたのには気づいてた。ハルが俺のところに来たとき、ついてきた監視役……そいつが怪しかったからね。ちょーっと『お話』したら、あっさりあんたの名前が出たよ。だからあらかじめ、良峰兄に協力を頼んでた。あんたとともに舟に乗ったのは、俺たちの息がかかった神護りばかりだよ」
ハルは今になって合点がいった。神護りたちはハルに弓矢を構えはしたが、なぜか瀬良を取り押さえるように動いていたのだ。すべて由良の策だったのか。
「それに、これは思わぬ副産物。あんたのおかげで、あの洞窟が曲島に続いてることに気づけたから、そこだけは感謝しておこうかな。それにしても、この小刀はハルの護身用に買ったはずなんだけど?」
これまで聞いたことのない、冷ややかな声だ。
しかし、ハルはそれよりも内容に目をみはった。
「神続きの道の真下は地下道らしいね。しかもびっくり、この道は名寄せの矢が安置されていた場所にも繋がってた」
ハルの無言の驚きを受けて、由良が説明する。こんなときでも得意げで、怖じるとか怯むとかする様子が少しもない。
(……そうか、だからか!)
由良が突如として現れたように見えたのは、その地下道を通ったからなのだ。
「良峰兄にはすべて話してある。ここはこっちで片をつけるから、さっさと退場してくれない?」
「まがいになにができるものですか。兄上でなければ……」
「その『兄上』が俺に任せるって言ったんだよ。わかった? ……よくもこれまで俺を殺そうとしてくれたね」
瀬良がはっとしてうなだれる。由良は彼から武器を取りあげ、別の神護りに引き渡す。
瀬良たちが地下道に消えると、由良がハルに近づいた。その手には、名寄せの弓矢。フユが持ち去ったものだ。
暴風に舞いあがった砂礫が目を直撃し、由良が顔を歪めて片手を頭にかざす。折れて鋭利な刃のような切断面の現れた枝が、その腕にぶつかる。
折れた枝は由良の腕に刺さり、裂けた肌から血が流れ落ちた。
枝だけではない。拳よりも大きな石が軽々と舞い、由良の体を痛めつける。
(由良、来るな! 主様、止めてくれ! 由良が死んでしまう! 指でも足でもなんでもいいから……動け!)
ハルは意識を総動員して、末端の神経に命令する。
(動け! 由良を逃がせ!)
「ハル、聞こえる?」
由良が、全身に傷を負いながら近づいてくる。笑みさえ浮かべて、優しい声で。
ハルにはそれが恐怖だった。みずから死に近づこうとは。
(聞こえるが、いいから帰れ!)
ハルが届かない叫び声を上げるのと、由良が名寄せの弓を構えるのは同時だった。
矢が、ハルの心臓にぴたりと向く。
「――意味を、ずっと考えてた」
ハルが息をのむ前で、由良が続けた。




