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神依る巫女の反逆 水穂国事変  作者: 白瀬あお
六章 巫女は春の名を呼ぶ
37/41

六.

 ハルは白衣や袴を繰り返し叩く。しかしどこにもそれらしきものがない。

 鼓動が一気に加速する。ハルは布袋に飛びついて膝をつき、神矢を取りあげる。


 なによりもまず矢の先をたしかめ――目を見開いた。


「矢じりはない、と思っておられましたか?」


 瀬良が忍び笑いをする。その笑いはねっとりと艶っぽい。

 動揺を抑え、ハルは静かに尋ねた。


「……これを、どうした?」

「巫女様を洞窟からお連れする際に雑草の飼い猫が咥えていたので、つつしんで頂戴ちょうだいいたしました」

「フユか? フユになにをした?」


 フユに渡した覚えはないが、なにがあったのか。


「無駄な殺生は主様にそしられますから、殺してはおりませんよ。では、弓もどうぞ」


 瀬良もハルの前にひざまずき、布袋ごと取りあげて立ち上がる。

 差しだされた袋を見つめ、ハルは迷った。だが、意を決して立ち上がると中身を受け取った。

 良峰に渡されたときと違わぬ輝き。持ち重りのするそれは、ハルの手にしっくりと馴染む。巫女が難なく扱えるように作られているのだ。


 腹の底の存在が、ゆっくりと目を開いたのをハルは感じ取った。 


(喰われるのか)


 身の毛のよだつ想像に、膝が震える。


「……さっきお前は、由良は地面の下に眠ったと言ったな?」

「ええ」


 仮にそれがほんとうでも。由良たちは、まだ間に合うかもしれない。

 瀬良にさんざん狙われても、しぶとく生き延びてきた由良だ。あの、ひとを食った笑顔で、いつのまにか死んだなど、信じられるはずがない。由良は崩落した洞窟で生きている。脱出しようとあがいているはずだ。


 ハルは奥歯を噛みしめ、ゆっくりと弓矢を構える。瀬良に向けて。

 瀬良のうしろに控えた神護りたちも、いっせいにハルに向けて弓を構える。だがふしぎとそちらに恐怖は感じなかった。


「すぐに代替わりしてやる。だから早く……由良たちを助けてやってくれ。頼む」


 瀬良は狙われているというのに、ゆったりとした動作で身じろいだ。口調はあくまでも艶めいて、それでいて冷徹だ。


「その矢で僕を射ることはできませんよ、巫女様ならわかるでしょう」

「さすが、動じないな」


 ハルは笑うと、矢の先を虚空こくうへ向ける。名寄せの弓矢は、人間を殺すためにあるものではない。


「お前たちには独自の連絡手段があるだろう? お願いだ、すぐ助けてやってくれ」

「最期に出る言葉が、まがいの助命ですか。それ、巫女様の致命的な欠点ですよ」


 ハルは目線を虚空に向けたまま、かぶりを振った。


「……私は浅ましい」


弓を引く。荒ぶる神の気配がこの身を支配していく。


「私がこのまま主様に喰われれば、次の巫女となる者はその末路を知らぬまま曲島に連れてこられるのだろう。その者もまた、不遇に苦しみ死ぬ……それがこの先もずっと続いていく。それでも私は、次の巫女より由良たちを……由良を取る」


 鎮めの巫女を国の礎にする仕組みそのものを、終わらせたかった。

 名寄せの弓矢を手に入れ、本物の矢じりを手に入れ、巫女の選定方法と過去の巫女に起きた出来事を知って。しかし肝心の、荒ぶる神と自分を分かつ方法が見つからない。

 なにが足りないのか。


 喉元に小骨がつかえたように、核心だけが見つからない。すぐそばまでかすめた気はするのに。

 その上、いざ自分が脅かされれば、このざまだ。巫女を終わらせたいと言いながら、その願いさえ放棄する――それでも。


『ハルは、ハルになれるよ』


 ハルは、由良だけはほかのなにをおいても助けたいのだった。助けたいという気持ちを捨てられなかった。


「残念ながら、その願いは聞けませんね」

「大事な者がいるお前なら、わかるだろうと思ったのだが。私たちは、とことん相容れないらしいな」

「大事な者がいるからこそ、です」

「……そうか」


 ハルは足を踏みだし、矢をゆっくりと下ろすと瀬良に向けた。

 外しようのない距離まで近づく。


「この矢は、お前を射貫くぞ」


 ひたりと瀬良を見つめる。

 余裕然としていた瀬良の眉が、ぴくりと上がった。


「まさか……、そんな」


 瀬良に渡された矢についていたのは、偽物の矢じりだった。


 名寄せの役目を果たさない代わりに、普通の矢として機能する。

 矢じりだけ外したはずが、なぜかフユに渡り、瀬良は偽物と知らずに神矢につけ直したのだろう。

 ひと目で偽物だと知れたが、ハルは黙っていたのだった。


「どうだ、偽の神矢に命を脅かされる気持ちは」


 瀬良の顔色が変わるのが、手に取るようにわかる。

 それまでふたりを取り囲んでいた神護りに緊張が走ったのを、ハルは目の端で捉える。矢の先は瀬良の心臓を狙ったままだ。


「良峰に知らされなかったのか? お前の兄は、名寄せの矢が偽物とすり替わったのを知っているぞ」

「そんな、兄上が……僕になにもおっしゃらないなど、あるはずが……僕の……ぼ、僕だけの兄上が……?」


 兄上、と呼ぶ言葉の響きから陶酔と恍惚が抜ける。代わりに舌足らずな声音が漏れた。寄る辺ない幼子のような声。

 瀬良の表情がしだいに抜け落ちる。目から光が消え、声が精彩を欠き、ぽっかりと穴が穿うがたれたかのごとく、瀬良という男の芯が揺らぐ。


 やがてその目がなにも映さなくなったかと思うと、瀬良はその場に崩れ落ちた。


「嘘でしょう、兄上? 僕の、兄上……」

「瀬良様!」


 神護りが素早く瀬良に駆け寄り、瀬良を取り囲む。しかしハルの矢から庇うためというよりは、むしろ瀬良からハルを庇うような動きである。


(なんだ?)


 ハルは首を捻る。しかしこれで、ひとまずこの場を切り抜けられそうだった。代替わりの儀を避けられる。ハルは息をついた。


 道ができているうちに曲島を出なければ。出て、由良を助けにいかなければ――。


 ハルは弓矢を下ろす。 

 ところがそのとたん、灼熱の塊が腹の底から突きあがった。





 妙に静かだな、とハルは怪訝に思った。

 おかしい。瀬良に矢を向け、神護りに矢を射られたはずなのに、誰ひとり気配がしない。皆、どこへ消えたのか。


 しかも視界が悪い。分厚く濁った膜に覆われた風なのだ。


 ハルはまばたきを繰り返し、向こう側をよく見ようと目を凝らす。


(なんだこれは……! おい、主様! 止めてくれ!)


 しかしハルは一歩も動けない。指一本動かせない。動かせるのは、まぶただけ。

 目はたしかに濁った膜の向こうを見ている。木々がなぎ倒され、島の川が氾濫し、砂が巻き上げられ――そのなかを神護りが逃げ惑う。


 しかし、どれもが等しくハルから遠いのだ。


 彼らの悲鳴も、うなりを上げて倒れる木の音も、すべてがくぐもって聞こえる。そのせいで、現実味が感じられない。あえて言うなら、水の中から空を見あげた感じに近いのではないか。経験したことはないが。


(どうなってる……!?)


 自身の呼吸音は近いが、向こうで起きている出来事が遠い。


(主様か?)


 荒ぶる神が顕現した結果、ハルの存在が中に閉じこめられたのだった。だから目が見えても、体が動かないのだ。声を出すこともできない。

 だが意識を保ったまま、なにひとつできずに閉じこめられたのは初めてであった。


(主様! やめてくれ! 皆が死んでしまう)


 声の限り叫んだが、それはハル自身の内側に留まり、外に出ていかない。ハルの意識は底のほうに沈められ、表層に届かなかった。

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