五.
かすかに耳に届いた潮騒のおかげで、ハルの意識は浮上した。
耳を澄ませば、ぎい、ぎい、と立てつけの悪いしとみ戸を押しあげるときに似た音がする。
本格的に春を迎えた生ぬるい空気にまじって、潮の匂いが鼻腔に忍びこむ。かつて慣れ親しんだ匂いだった。
目を開けると、ぼんやりと淡い空。綿を千切って撒いたような雲が流れていく。
ハルは、丸太をくり抜いて造った船に転がされていた。
「もしやこのままお目覚めにならないのではないかと、気を揉んでおりました」
艶っぽい声に覚えがあった。ハルは腕を床に突いて半身を起こした。
「瀬良? なぜお前がここにいる。その前に……ここはどこだ?」
薄墨の袍を着た瀬良が、船首近くに腰かけていた。反対の船尾にも神護りがおり、その男が船を漕いでいる。
「もう着きますよ。見えますか? 曲島です。長旅お疲れ様でした」
「曲島だと?」
意識が完全に覚醒する。ハルは身を乗りだした。
広い海の中央に、こんもりと緑に覆われた小さな島が浮かんでいる。横から見ると、こぶがふたつ盛りあがったような形だ。右側は山のある分だけ空へと突き出ており、神続きの道ができる左側へとなだらかに低くなっていくのがよくわかる。木々は濃く生い茂り、道のできる箇所以外は、断崖絶壁。
曲島だった。
(いったいなぜ、船に乗せられているんだ!?)
船にはハルと瀬良、そして神護りがもうひとりの三人だけ。同様の丸木舟が数槽、ハルを囲むようにして曲島を目指しているが、乗るのはいずれも神護りらしかった。
「良峰の命令か?」
「兄上はなにもおっしゃらないから、僕が代わりにして差しあげるのです。これでやっと兄上も安心なさるでしょう。兄上……兄上には迷うお姿など似合わない」
はにかんだように兄上、と口にする響きには、そこはかとない甘美さがひそむ。
しかし、その胸の内は読めない。
「兄上が到着なさるまでに、すべて終わらせましょう。兄上には次の巫女を迎えにいくという大事な責務があります。お手をわずらわせてはなりません。ご心配なく、手はずはととのっております」
次の巫女、ということは。
ハルの顔から血の気が引いた。
「お前……曲島で代替わりの儀を行う気か! 由良と良……もうひとり男がいただろう、ふたりはどうした!?」
良平は表向き死んだことになっている。ハルは言い直して瀬良につめ寄る。
「覚えておられないのですか? 主様が洞窟を崩落させたのでしょう?」
「主様……私、か?」
思い出せず、ハルの声が揺れる。ハルの記憶は、良平と話をしたところで途切れていた。いつ、荒ぶる神が顕現したのか。
瀬良が眉をひそめる。ハルは洞窟の冷気になぶられたかのように、両腕で自分の体を抱きしめた。思い出せないのが恐ろしい。
「そうです、僕はそれを知って歓喜に震える思いでおります……! 主様と我々は思いをおなじくする者同士だと、あの崩落で確信いたしました。主様を惑わす者は皆、地面の下で眠りにつきました」
「嘘を申すな! 私を欺すのであれば相応の覚悟をしろ」
「主様に嘘を申し上げるはずがありましょうか? 主様のおかげで、兄上も憂いなくお過ごしになれるでしょう。やっと……兄上の障りを取り除くことができました」
瀬良の目には陶酔が浮かんでいる。
恐怖が背をぞわりと這いあがり、意識が一瞬かすむ。ぐらりと頭がかしぎ、ハルはわれに返った。取り囲む潮の匂いに咽せる。
ほんとうにハル自身が、由良たちに手を下したのか。瓦礫の山と、道の端々で動かなくなった人々の姿が頭をよぎる。心臓がいやに大きな鼓動を打つ。ハルは負けまいと心を奮い立たせた。
「ならば、死んだ由良を出せ! 私は、由良が自分で死んだと言うまでは信じん!」
「はっ……面白くもないことを仰いますね」
瀬良が酷薄な笑みを浮かべる。余裕たっぷりといった感じだ。由良たちを排除できたからなのか。
ハルはふとあることに思い至った。
「……お前か、これまでに何度も由良を殺そうとしていたのは」
「兄上の代わりに必要なことをして差しあげようとしたまでです。ね? 僕は嘘は申しません」
瀬良の告白と由良に打ち明けられた話が頭の中でかちりと嵌まる。由良は、良峰に抗議するたび素知らぬふりをされたと言ったが、それも当然だった。ふたりを取りなしたという瀬良が、犯人だったのだから。
旅の途中で由良を襲ったのも、瀬良の放った刺客か。
「主様には心から感謝いたします。まがい物は厄介で、本物の輝きも持たないくせに、本物並みに大きな面をしてのさばる。早々に始末したかったのですが、ほとほと困っておりました」
「お前たちが、由良に本物の輝きを見出せなかっただけだ。人間にまがいなどない。お前たちはそんなことも気づけないのか」
「巫女様はなにもご存じない。まがいによって、兄上がどれほど苦しめられてきたか……兄上、兄上……お可哀想に、僕がおります。兄上の望みはすべて僕が叶えて差し上げます……」
憎悪を含んだ声は、兄を呼ぶごとに陶酔を帯びていく。ハルは薄気味の悪さを感じずにはいられなかった。
曲島がいよいよ目前に迫る。瀬良が姿勢を正し、ハルを引っ立たせる。
「道がなければ上陸は不可能だ。潮にのみこまれて死ぬぞ」
曲島の周りの海は海流が複雑に入り組んでいる。潮目を読むのは極めて困難で、漁師も曲島の海域には船を出さない。神域に手を出そうとした者は皆、海の藻屑と消えた。
「主様がおられるのに、道ができないはずがありません。ここまでだって、無事に着いたではないですか。いったいどれほど眠っておられたと思います? 三日ですよ。これは主様のお導きです。――ほら」
瀬良が島に唯一の浜辺がある辺りを指さす。
ハルが目を凝らすと、その先の海上に白い点が見えた。白い点はハルが見守るなか沖へと連なっていく。
「道ができた……!?」
はっと空を見あげる。太陽は地平へ傾き始めたものの、まだ空は春特有のほの青さを残している。星はおろか、月の姿もない。まだ夜半でもないのに、もう道ができたのだろうか。
「っ!」
腹の底が、ざわめいた。
荒ぶる神の気配。圧倒的な力の目覚める予感。
ハルをせせら笑う、空気の揺らぎ。
どれほどあがいても、曲島で命を終える運命だとばかり、うごめく。
「……させるか!」
ハルは瀬良に飛びつき、胸ぐらをつかむ。だがほとんど同時に別の神護りに引き剥がされ、羽交い締めにされた。足場の不安定な小舟が左右に揺れる。
「くそっ! 離せ!」
「窮屈な思いをさせて申し訳ありません。さあ、島へ降りましょう」
瀬良が乱れた袍をととのえ、自ら櫓を操って神続きの道に小舟をつける。
「舟のよいところは、大幅に旅程を短くできることですね。陸路ではこうはいきません。難点は、主様がお許しにならなければ海路を使えない点ですが」
「主様はお前を許しておらん!」
瀬良は穏やかすぎる微笑みだけを返すと、ハルともうひとりの神護りを先に舟から降ろす。次いで自身も布袋を担いで降りた。
ほかの舟も次々に接岸し、神護りが降り立つ。腰には太刀を佩き、背中には矢筒と弓を背負っている。
神護りはさらに、大量の品々を舟から下ろし始めた。そのあいだも、白く細い道は美原へと延びていく。
「これが、主様のお幽れになる島ですか……さすが、気配が違う」
ハルにとっては馴染んだものだった。荒ぶる神の帰還を、鳥獣が、虫が、木々や足下の砂までもが畏れ、崇める。そよぐ葉、流れる水、転がる石。なにもかもが、荒ぶる神とともにある。
神気が内に満ちていく。ハルは深く息を吸う。ハルもまた、荒ぶる神ともにある。
「時間がありません。さっそく代替わりの儀をいたしましょう」
瀬良の背後の神護りたちがいっせいに動く。捧げ物を供える台がしつらえられ、そこに舟から運び入れた品物が並べられる。
米、粟、ひえ、豆、猪や鹿肉に、山海の馳走。ぬめるような光沢のある布帛に美しい色合いの玉、金胴製の琴や鐸。
ありとあらゆる供物に、ハルは失笑した。
(豪勢な。腹を鳴らしたときもあったが……今はちらとも心が動かん)
それらは、ハルの求めるものではなかった。
最後に、瀬良は布袋をハルの目の前まで運び、しずしずと足下に捧げ置いた。
「……名寄せの弓矢か」
中身を見ずともわかる。
「ええ。主様には次こそ、主様によく仕える巫女を選んでいただけますよう」
ハルは無表情を装ったが、心のなかで快哉を叫んだ。瀬良の思い通りに事は運ばない。
なぜなら、神矢の矢じりは――本物は、ハルが持っている。
と、そこまで考えてハルははっと自分の手を見つめた。
(ない! 私はあれをどこへやった!? いつのまになくなった?)




