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神依る巫女の反逆 水穂国事変  作者: 白瀬あお
六章 巫女は春の名を呼ぶ
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三.

 腹の底が煮え立つような、怒りなのかやるせなさなのかもわからない感情が渦巻き、ハルは右手を握りしめて腹を押さえた。握りしめた矢じりが手のひらに食いこむ。


 そのとき、頭になにかが乗った。


「ほれ、辛気くさい顔をしないの」


 じんわりとぬくもりが染みこんでくる。

 由良の手だった。


 握りしめたハルの手から力が抜ける。ほっと息をついた。


 同時に、胸の奥がむず痒いようなふしぎな気分になり、ハルは困惑した。荒ぶる神が腹の底でうごめくのとは違う。冬に思いがけず陽だまりを見つけた感じに似ている。煮え立つような感情は、そのふしぎな気分のおかげで霧散していた。


「だから神矢をすり替えたんだ? すり替えなければ、災厄は起きなかったのかもしれないのにね」


 由良が返し、ハルは意識を切り替える。

 由良の声には、彼には珍しく皮肉めいた響きがある。怒りを押し溜めたのが、隣にいるハルには伝わってきた。


 災厄そのものへの怒りももちろんあるだろう。しかも、その不祥事さえなければ、由良が遠坂で冷遇され、兄弟と軋轢あつれきが生じるることもなかったのである。ハルは自分がされたのとおなじように、由良に手を置いた。


 頭には届かず、せいぜいが二の腕だったが、由良はハルの手に気づくと苦笑した。かげりの差していた顔に表情が戻る。ハルはほっとした。


「鎮めの巫女を断絶させようとまで思ったわけじゃなかった。ただ、ゆえの一件を俺自身が消化できずにいた。時間がほしかったんだ。夜分に置いた同僚が処罰され、俺自身も配流が決まって……遠ざけられたあいだに次の巫女が選ばれる可能性に思い至ったら、とっさの行動だった。だが、自分のした罪の重さはわかっているつもりだ。遠坂には戻らない」

「でもお前は、都にはひそかに戻った」


 ハルが指摘すると、良平が顔をしかめる。


「ハル様、あなたが現れたからです。ゆえが巫女となる子を殺し、俺が寄せの矢を奪い、巫女は現れないはずだった。……なのにあなたが現れた」

「ちょっと待った。名寄せの弓矢ってなに?」


 由良が口を挟み、良平と互いにぽかんとした様子で顔を見合わせる。ハルも遅まきながら、その言葉に気づいた。


「この矢は、名寄せの矢というのか? 神矢が?」


 正確には矢じりだけになったものをかざして、ハルは良平にたしかめる。良平もようやく、ふたりがなにに引っかかったのか察したらしい。


「神弓・神矢の別名だ。そのままずばり、巫女の『名を寄せる』。主様は巫女になる者から名を取りあげる。代替わりの儀でこの弓矢が使われるのは、巫女を選定する意図もあるが、巫女という器から名を抜いて空にするためだ」


 巫女という器――そう聞いて、ハルの心が薄ら寒くなる。今の自分は空っぽなのか?

 ハルはその疑念を振り払う。今はそんなことを考えている場合ではない。


「代替わりを短い期間で行えばどうなる? ついこの前、私は大君の命令で代替わりの儀を行うよう言われたのだが、私が今からこれを使ったとする。すると次の巫女が決まるだろう? でも私はその巫女をひとりで曲島に置きたくない」

「――ええ」


 良平も重々しい声で同意する。光が差した思いで、ハルは息を深く吸った。


「だからその巫女が孤独にさいなまれる前に……そうだな、たとえば一年でさらに次の巫女へ交代する。……それを繰り返せば、負担は軽くなるのではないか?」


 ところが意気揚々と語ったハルに対して、良平の反応はかんばしくなかった。


「ハル様は代替わりの儀によって……」

「良平兄、その先は俺が言う」


 由良は良平を制すると、ハルに向き直った。


「ハル、あのさ。巫女は死期がくるから代替わりするんじゃない。代替わりの際に、主様に……喰われるんだよ」


 最後の言葉はともすれば聞き逃しそうなほど小さく、ハルと由良のあいだにぽつりと落ちた。


「……なんだそんなことか。なにを言われるのかと身構えたではないか」

「え、なにその反応」


 由良があっけにとられた。


「こっちはハルが傷つくだろうと思ってあれこれ」

「気遣ってくれたのか? けどな、私もその可能性を考えなかったわけじゃない。だからやっぱりそうかと思っただけだ」

「ハル」


 由良のまなじりが下がった。


「勘違いするな。だからといって諦めてはいない。代替わりで解放されようという考えが、甘かっただけだ。ほかの手を考える」

「呆れるほど前向きだね……」

「うしろを向く暇がないのだ。お前も一緒に前を見てくれるだろう?」

「わざわざ聞く?」

「聞きたい。お前はよくはぐらかすからな」


 由良が苦笑して立ち上がり、背を向けて袍の裾を払う。


「……俺も、ハルの見る先を見たいと思うよ」

「なんだ? よく聞こえなかった」


 ハルが由良に訊き返すと、背後で良平が小さく噴きだすのが聞こえた。


「なんだ、良平」

「いえ、なんでも」


 咳払いをした良平をなぜか由良がひとにらみして、ハルに向き直る。


「……さしあたってハルが巫女様になった経緯が気になるな。今の話から考えると、ハルも名寄せの弓矢で指名されたはずだよね」


 ハルは首をかしげる。


「だが神護りは迎えにこなかったぞ」

「良平兄。巫女に選ばれれた娘は、名のほかにそれまでの記憶も取りあげられるものなの?」

「記憶は……聞いたことがないな。だが、自分の名がなくなれば、記憶も曖昧になることはあると思う」


 頭に残った情景も、抱いた感情も自分という存在に紐付いている。その自分は、名という柱によって支えられた家屋。


 柱がなければ家は崩れる。当然、紐付けられていた記憶も崩れるという理屈だ。


「なるほど。じゃあハルが主様に出ていただくには……」


 由良が返答を咀嚼そしゃくするように考えこみ、足下の石を拾って手で遊ばせた。



     *


 

「――推測だけど」


 と、由良がその石を湖に放り投げるのと同時に、それは起きた。


 落雷を彷彿ほうふつとさせる轟音。地面が、天井が、壁が――洞窟全体が。


 鳴動した。


 それまで気ままに湖の水を飲んでいたフユが、毛を逆立てる。フユは真っ先に異変を察し、入口へ一目散に駆けだした。


「あいつ! ちゃっかり自分だけ逃げて……」


 言いかけた由良は次の瞬間、弾かれたようにハルに目をやった。


「……ああもう、厄介だなハルは!」


 くすみのない白銀の輝きが、由良の目を射る。

 だがそこに、ハルが持つ溌剌とした生気や、強い意思は見られない。


 ハルの意識はすでに失われていた。


 地鳴りと同時に、由良の頭は圧倒的な力で押さえつけられた。その圧に耐えきれずによろめき、由良は頭から地面に倒れこむ。


「由良!」


 良平が駆け寄る。由良は良平の手を借りてなんとか体を起こした。どん、という轟音がふたたび上がり、入口のほうで岩が崩れる音がする。


「急げ!」


 洞窟が崩れるまで一刻の猶予もない。

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