三.
腹の底が煮え立つような、怒りなのかやるせなさなのかもわからない感情が渦巻き、ハルは右手を握りしめて腹を押さえた。握りしめた矢じりが手のひらに食いこむ。
そのとき、頭になにかが乗った。
「ほれ、辛気くさい顔をしないの」
じんわりとぬくもりが染みこんでくる。
由良の手だった。
握りしめたハルの手から力が抜ける。ほっと息をついた。
同時に、胸の奥がむず痒いようなふしぎな気分になり、ハルは困惑した。荒ぶる神が腹の底でうごめくのとは違う。冬に思いがけず陽だまりを見つけた感じに似ている。煮え立つような感情は、そのふしぎな気分のおかげで霧散していた。
「だから神矢をすり替えたんだ? すり替えなければ、災厄は起きなかったのかもしれないのにね」
由良が返し、ハルは意識を切り替える。
由良の声には、彼には珍しく皮肉めいた響きがある。怒りを押し溜めたのが、隣にいるハルには伝わってきた。
災厄そのものへの怒りももちろんあるだろう。しかも、その不祥事さえなければ、由良が遠坂で冷遇され、兄弟と軋轢が生じるることもなかったのである。ハルは自分がされたのとおなじように、由良に手を置いた。
頭には届かず、せいぜいが二の腕だったが、由良はハルの手に気づくと苦笑した。翳りの差していた顔に表情が戻る。ハルはほっとした。
「鎮めの巫女を断絶させようとまで思ったわけじゃなかった。ただ、ゆえの一件を俺自身が消化できずにいた。時間がほしかったんだ。夜分に置いた同僚が処罰され、俺自身も配流が決まって……遠ざけられたあいだに次の巫女が選ばれる可能性に思い至ったら、とっさの行動だった。だが、自分のした罪の重さはわかっているつもりだ。遠坂には戻らない」
「でもお前は、都にはひそかに戻った」
ハルが指摘すると、良平が顔をしかめる。
「ハル様、あなたが現れたからです。ゆえが巫女となる子を殺し、俺が名寄せの矢を奪い、巫女は現れないはずだった。……なのにあなたが現れた」
「ちょっと待った。名寄せの弓矢ってなに?」
由良が口を挟み、良平と互いにぽかんとした様子で顔を見合わせる。ハルも遅まきながら、その言葉に気づいた。
「この矢は、名寄せの矢というのか? 神矢が?」
正確には矢じりだけになったものをかざして、ハルは良平にたしかめる。良平もようやく、ふたりがなにに引っかかったのか察したらしい。
「神弓・神矢の別名だ。そのままずばり、巫女の『名を寄せる』。主様は巫女になる者から名を取りあげる。代替わりの儀でこの弓矢が使われるのは、巫女を選定する意図もあるが、巫女という器から名を抜いて空にするためだ」
巫女という器――そう聞いて、ハルの心が薄ら寒くなる。今の自分は空っぽなのか?
ハルはその疑念を振り払う。今はそんなことを考えている場合ではない。
「代替わりを短い期間で行えばどうなる? ついこの前、私は大君の命令で代替わりの儀を行うよう言われたのだが、私が今からこれを使ったとする。すると次の巫女が決まるだろう? でも私はその巫女をひとりで曲島に置きたくない」
「――ええ」
良平も重々しい声で同意する。光が差した思いで、ハルは息を深く吸った。
「だからその巫女が孤独に苛まれる前に……そうだな、たとえば一年でさらに次の巫女へ交代する。……それを繰り返せば、負担は軽くなるのではないか?」
ところが意気揚々と語ったハルに対して、良平の反応は芳しくなかった。
「ハル様は代替わりの儀によって……」
「良平兄、その先は俺が言う」
由良は良平を制すると、ハルに向き直った。
「ハル、あのさ。巫女は死期がくるから代替わりするんじゃない。代替わりの際に、主様に……喰われるんだよ」
最後の言葉はともすれば聞き逃しそうなほど小さく、ハルと由良のあいだにぽつりと落ちた。
「……なんだそんなことか。なにを言われるのかと身構えたではないか」
「え、なにその反応」
由良があっけにとられた。
「こっちはハルが傷つくだろうと思ってあれこれ」
「気遣ってくれたのか? けどな、私もその可能性を考えなかったわけじゃない。だからやっぱりそうかと思っただけだ」
「ハル」
由良のまなじりが下がった。
「勘違いするな。だからといって諦めてはいない。代替わりで解放されようという考えが、甘かっただけだ。ほかの手を考える」
「呆れるほど前向きだね……」
「うしろを向く暇がないのだ。お前も一緒に前を見てくれるだろう?」
「わざわざ聞く?」
「聞きたい。お前はよくはぐらかすからな」
由良が苦笑して立ち上がり、背を向けて袍の裾を払う。
「……俺も、ハルの見る先を見たいと思うよ」
「なんだ? よく聞こえなかった」
ハルが由良に訊き返すと、背後で良平が小さく噴きだすのが聞こえた。
「なんだ、良平」
「いえ、なんでも」
咳払いをした良平をなぜか由良がひとにらみして、ハルに向き直る。
「……さしあたってハルが巫女様になった経緯が気になるな。今の話から考えると、ハルも名寄せの弓矢で指名されたはずだよね」
ハルは首をかしげる。
「だが神護りは迎えにこなかったぞ」
「良平兄。巫女に選ばれれた娘は、名のほかにそれまでの記憶も取りあげられるものなの?」
「記憶は……聞いたことがないな。だが、自分の名がなくなれば、記憶も曖昧になることはあると思う」
頭に残った情景も、抱いた感情も自分という存在に紐付いている。その自分は、名という柱によって支えられた家屋。
柱がなければ家は崩れる。当然、紐付けられていた記憶も崩れるという理屈だ。
「なるほど。じゃあハルが主様に出ていただくには……」
由良が返答を咀嚼するように考えこみ、足下の石を拾って手で遊ばせた。
*
「――推測だけど」
と、由良がその石を湖に放り投げるのと同時に、それは起きた。
落雷を彷彿とさせる轟音。地面が、天井が、壁が――洞窟全体が。
鳴動した。
それまで気ままに湖の水を飲んでいたフユが、毛を逆立てる。フユは真っ先に異変を察し、入口へ一目散に駆けだした。
「あいつ! ちゃっかり自分だけ逃げて……」
言いかけた由良は次の瞬間、弾かれたようにハルに目をやった。
「……ああもう、厄介だなハルは!」
くすみのない白銀の輝きが、由良の目を射る。
だがそこに、ハルが持つ溌剌とした生気や、強い意思は見られない。
ハルの意識はすでに失われていた。
地鳴りと同時に、由良の頭は圧倒的な力で押さえつけられた。その圧に耐えきれずによろめき、由良は頭から地面に倒れこむ。
「由良!」
良平が駆け寄る。由良は良平の手を借りてなんとか体を起こした。どん、という轟音がふたたび上がり、入口のほうで岩が崩れる音がする。
「急げ!」
洞窟が崩れるまで一刻の猶予もない。




