二.
「あのときは薬をありがとうございました。おかげで、すっかりよくなりましたよ」
「礼はいい。ハルと呼べ」
「ハル、ですか? そのお名前はどこから?」
良平が馬上でふり返り、ふたたび前を向く。ハルは良平と同乗している。
「由良がつけた。今では絢乃も豆も私をそう呼ぶぞ。だがなぜそんなことを訊く?」
違和感を覚える。まるで名前があるのが意外だとばかりの尋ねようではないか。
「由良が、そうか……あいつは知らないんだな。いえ、鎮めの巫女様は主様をその身に迎える際に、主様に名を取りあげられるのです」
「それは、忘れるという意味か?」
では逆にいつか真の名を思い出せるのかと思ったが、良平は声を硬くした。
「いいえ。巫女様の内から文字どおり消えます。だから本来は、曲島にお移りになった巫女様には、思い出そうという発想すら浮かばないもの。ハル様は異例中の異例です。第一、曲島から逃げようとして実際に逃げてこられるとは、胆力のあるおかただ。神護りだった俺が言うのも変ですが」
「ひとりで死にたくなくてな。お前は私に、島に戻れと言わないのか?」
「言ったところで、従ってくださるようには見えません」
「違いない」
同意すると、良平が喉の奥で笑う。笑いかたは由良に似ているが、より堂々として貫禄がにじみ出るようだった。
「それで、あなたはここでなにをなさるおつもりです?」
ハルは前方の由良に視線を移す。警戒しろとは言われたが、黙っていても得られるものはないだろう。ハルはふり向いた良平と目を合わせる。
「誤解のないよう先に言っておく。私は、お前たちの暮らしを脅かす気はない。ただ私は、神依りではない私でありたい。だから主様には私から出てもらう。今日はそのために、たしかめたいことがあって来たんだ」
良平が黙りこむ。風が良平の短髪をうしろに撫でつけ、精悍な横顔がちらりとのぞく。
視線は鋭かったが、冷たさは感じない。
ハルは良平の硬い胴に回した腕に力をこめる。伝われ、と願う。
いよいよ春めいた大地からは、草いきれの匂いが風に乗って流れてくる。
「私の真の名、か。どんな名だろうな」
良平からの返事はない。ハルも返事を期待したわけではなかった。つぶやきはしたものの、さほど熱心でもない。名なら「ハル」で事足りる。
豆は元服すれば真の名を呼ばれると楽しみにしていたが、ハルには理解できない感覚だった。名をつけただろう親の記憶がいっさいないのが、その原因かもしれない。
既知の道をたどったからか、洞窟に着くのは先日よりも早かった。
巨岩がそびえ立つ隙間に身を滑らせる。全身を包む冷気に腕をさすりつつ、ハルも由良の手を借りて洞窟に降り立つ。
あとから降りた良平は、ひととおり洞窟を見回して感嘆の声を漏らした。
「由良、いい場所を見つけたな。俺もここで暮らしたいくらいだよ」
「あの娘が嫌がるんじゃない? 都の女は床が綺麗でないと寝たがらない」
ハルは由良の持論に呆れた。
「どんな道理だ。菫はたくましそうだぞ。野宿も厭わない」
「ハルみたいだね」
「褒められてるのかけなされてるのかわからん」
由良がくつくつと笑う。目がすっと細く、やわらかい曲線を描く。
ハルが鎮めの巫女と知ってもなお、気安く――対等に話すのは、豆を除けばこの国広しといえど由良くらいのものだろう。
見目は似ても、良平の「写し」ではありえない。それに、今の由良からはいい意味で力が抜けたように見える。
良平も釣られたのか表情をほぐすと、ハルの前に右手を突きだした。
「さっきおっしゃった、たしかめたいこととは、これですね?」
良平が右手を開く。
「……よくわかったな」
声が知らずかすれた。
ハルは足を踏みだすと、良平の手にあったものをつまみあげる。
それは、透き通る湖底の水をすくい上げて固めたような、翡翠でできた矢じりだった。
菫が礼にとハルに渡した組紐と、おなじ棚に飾られていたのである。道理で、見覚えがあったはずだ。
――我はここぞ。
あれは、そういう意味だったのだ。荒ぶる神は自身の神気を感じ取っていた。だから初めて、ハルの意識のあるときに声を発した。
菫の父親が神護りである可能性に思い至ったとき、ハルは同時に矢じりの在処と、あのときの荒ぶる神の反応についても得心したのであった。
矢じりは木の葉に似た形をしており、下部に紐を通して矢柄に固定するための穴が開けられている。見ればみるほど――このような言いかたはおかしいが――偽物と瓜二つだ。
とはいえ、内から放たれる神気を感じる点では、やはり偽物との差は歴然である。
「すり替えたのはお前か、良平」
「申し訳ございません」
「謝罪はいいから理由を言え」
空になった自身の手に目を落とした良平は、広い空間を奥へ進む。いつかも見た透明度の高い湖まで来ると、良平は腰を下ろした。由良も近くであぐらをかく。
「ハル様とおなじですよ」
良平はハルもそばに来るのを待ってそう言った。
「私と?」
「鎮めの巫女を選ぶ、この国の仕組みを終わらせたかった」
由良がはっとしてハルを見、ハルはうなずき返した。それだけで、由良はハルが良平に自分の目的を話したのを察したらしい。
「良平兄、きっちり説明してくれる?」
ハルよりも由良のほうが真剣な声音で、身を乗りだす。
ここからは敬語を省かせてほしいという良平の申し出を、ハルは一も二もなく了承する。
では、と良平が大きく息を吸う。
続く話は、ハルが占のさなかに見た場面――良平が、新たに鎮めの巫女として選ばれた赤子を迎えにいったときのものだった。
*
鎮めの巫女となる赤子を、父がゆえから取りあげる。事が起きたのは、これでひと区切りついた、と良平が背を向けた一瞬だった。
ゆえが良平の腕に噛みついたのである。
「なにをする! ゆえ、離しなさい!」
良平はゆえごと腕を振り払おうとしたが、ゆえの歯は肉にぎりぎりと食いこんだ。良平をにらむ双眸は手負いの獣そのもの。しかし所詮は女の力だからと見くびった良平は、ゆえを引き離そうとした部下を下がらせた。
それが間違いだった。
ほんの一瞬、部下に視線を向けたそのとき、良平が手にしていた神弓・神矢をゆえに奪われた。
「ゆえ!? ……くそッ!」
子を失うまいとする母親の力は、良平の想像を超えた。ゆえは、またたくまに赤子に向けて矢を引いた。その矢が赤子に刺さるのと時をおなじくして、自分の舌を噛み切る。
「ゆえ!」
夜分にある、ゆえたちが住む家の外縁に崩れ落ちたゆえの口から、声にならなかった悲鳴の代わりとでもいうように血が噴きだした。赤黒く染まっていく床を、良平は呆然と見おろすしかなかった。
ゆえは、遠坂の分家のさらに遠縁の娘であった。
良平とは同い年というのもあり、ゆえが神護りの集まりに際して本家に連れてこられた際は、良平が相手をするよう求められた。
とはいえ、おなじ神護りの家の人間であっても、立ち位置は天と地ほどに違う。
良平は当主の嫡男、一方、ゆえは夜分のなかでも最も都から遠い位置に配された下位の神護りの娘。
さらに、男ばかりの兄弟の長子である良平にはおなじ年頃の女の扱いはわからず、一緒に過ごしたからといって距離が近くなるものでもなかった。
ゆえは気性の激しい少女で、居並ぶ大人にも尻込みせずに堂々と意見を言った。夢見の才があり、ときに変事を夢に見てはうわ言を繰り返すので、気味悪がられていた。
ゆえは以前から、鎮めの巫女に拠って立つこの国の在りかたに疑問を持っていた。
『どうしてその子だけ、ひとりぼっちにならなきゃいけないの?』
巫女はこの国のために必要とされる尊い存在であり、選ばれるのは栄誉であると大人が諭しても、ゆえは納得しなかった。
『栄誉なら、みんな巫女に立候補するはずじゃない? どうして誰も手を上げないの?』
ゆえの鋭い疑問に、当主である父はなんと答えたのだったか。おそらく、ゆえをたしなめたのだと思う。肝心の答えは覚えていない。たしか、良平にとっても腹に落ちるものではなかった。
以来、ゆえは本家に顔を出さなくなった。
良平は、自分も引っかかりを覚えたのを心に秘し、ゆえを神護りのくせに賢明でない娘だと嘲った。だが実のところ、無意識のうちに恐れたのだ。
その疑問を突きつめれば、神護りの存在意義が危うくなる、と。
ときおり、ゆえの噂は耳にした。彼女は、ほかの神護りから遠巻きにされている様子であった。無理もない。良平もほかの神護りと同様、噂を聞くそばからゆえのことは頭から追い出した。
月日が経ち、良平は次期当主として本格的に実務に関わるようになった。父とともに神事の執り行いにも携わる。
そんなある日ひょっこり、水穂宮の詰所にゆえがやってきた。
『ねえ、巫女を決定するにはどんな手順を踏むの?』
『鎮めの巫女様と言え』
『なにそれ、自己保身?』
正直なところ、厄介だなと思った。良平は眉をひそめた。
久しぶりに会ったゆえは、刺々しかった。
良平はそのころ、絢乃を娶ったばかりだったが、絢乃とさほど歳が変わらないはずなのに、絢乃のようなたおやかさも気立てのよさもない。
髪は乾燥してぱさつき、爪には縦線が入っている。体つきにも、およそ成人した女人の丸みというものが見られない。目だけが爛々《らんらん》と強い光を放っていた。
巫女の選定は、秘事中の秘事。
知るのは大君と、神護りの当主のみである。良平でさえ、鎮めの巫女を戴く立場でありながら、詳細は知らされない。
良平が正直にそう答えると、絢乃は詰所を漁り始めた。良平が声を荒らげても聞き入れず、鬼気迫る表情であちらこちらをひっくり返す。騒ぎを聞きつけた父が駆けつけ、羽交い締めにし、ようやく静かになった。
ゆえは連行された。
『夢……夢で主様が……! わたし、この子を!』
良平の胸まで千切られそうな、悲痛な声だった。気性の荒いゆえの嘆きを聞いたのは、初めてだったが、それきりだった。
良平が次にゆえを目にしたのは、巫女に選ばれた子を迎えに上がったその場でだったのだ。
いつのまに子を産んだのか、誰の子なのか。答えを知る者はいなかった。どこにも。
「ゆえ! おい! しっかりしろ」
良平がゆえを抱きあげたときには、すでにゆえは事切れていた。
そのとき良平は初めて、ゆえがなぜ幼いころから巫女に執心したのか理解した。
ゆえは将来、自分の産む子が巫女に選ばれると夢で見たのに違いなかった。
だから巫女の真実を知りたがった。そして、知ってしまった。
一族の中ですら異端扱いされていた彼女には、相談できる場がなかったのだろう。すべては遅かった。
どうにも複雑で処理できそうもない思いが胸の内側でとぐろを巻き、良平は事切れたゆえを抱えた。




