一.
遠坂の屋敷を出て、央ツ道を下る。
比較的早くに復興した上級官吏の屋敷と異なり、外門に近づくほどに、先日の大嵐の爪痕が生々しく露出している。
以前、菫を訪ね歩いたときには都に活気を添えていた家々も、今は打って変わって、柱が軒並み傾くか倒れるかしていた。土壁が崩れ落ち、部屋内が見えている家も少なくない。
菫の家も例に漏れずだった。
茅葺きの屋根だったものは見る影もなく崩れ、床が傾いた部屋には瓦礫が散乱していた。もはや、ひとの住める場所とは言えない。
中は無人だった。ふらついたハルを由良が支える。
「私が……菫たちを殺した」
「まさか。主様のなさることは、俺たちの理を超えてる。それに死んだかどうかなんて、わからないよ」
これは荒ぶる神のしたことで、ハルは無関係だと。
誰よりもハルがそう思いたいのに、割り切ることもまたできない。と、頭に由良の手が乗った。
「唇、噛まないの。血が出たら綺麗な顔が台無しだよ」
無意識にきつく噛んでいたらしい。ハルは努めてゆっくりと息を吐いた。息が楽になる。
(由良に指摘されなかったら、ずっと呼吸も止めていたかもしれない)
ハルは由良を見あげた。こんなときでも、夫婦を演じていたころと変わらない、涼やかでひょうひょうとした顔。
「どうだ? これで綺麗な顔に戻ったか?」
「ぶっ……、戻った戻った。いいね、変に謙遜しないとこ」
ハル自身は自分の顔をまともに見たこともない。せいぜいが、禊の際に水面に映ったのを見るくらいだ。だから綺麗な顔と言われて、そうかと思っただけなのだが。
でも由良の笑う顔を見るのは悪くない。心がほんのりあたたかくなる気がする。
ハルたちはさっそく周辺の家々を訪ねて回る。
水穂宮から遠い外門付近の一帯は、どこも似たようなひと間、あるいはふた間あればよいほうといった広さの家ばかりだ。被害のほども似たり寄ったりで、どこにも住人が見当たらない。
そうやって小路を行きつ戻りつして家々を訪ねても、菫たちの行方はつかめなかった。まだ民の多くが混乱のさなかにあるせいだった。
「菫たちはどこへ行ったのだろうな。病に罹った父親を連れては遠くにもいけんはずだが」
ハルは肩を落として空を仰いだ。昇門の反対側にある隠門の上、低い空が夜の色をまとい始めている。
「む、草履の鼻緒が切れてる。道理で歩きにくいと思った」
足元を見れば、親指の股の皮が剥けている。
「うそ、なんですぐ気づかないの。だいたい、沓を用意されなかったっけ?」
「沓より草履のほうがこの格好には合うだろう?」
屈もうとした由良より早く、ハルは草鞋を潔く脱いで手に持つ。
「島では裸足だったから、こうしたほうが楽だな。さ、行くぞ」
「なに言ってんの。今日は終わり。戻るよ」
「まだ菫たちを見つけてないぞ」
物が割れて散乱した家を見せられて安否がわからないままでは、気が気でない。
それに、とハルは握りしめていた手を開く。澄んだ湖面のような美しい翡翠の矢じりに目を落とす。といってもこちらは贋物だが。
「頼む、もう少し」
「もう日暮れだよ。しかも新月が近くて足下が暗い。瓦礫だらけの道を裸足で歩く無茶はさせられない」
「それくらい無茶の内に入らん……っと」
小走りに由良を追ったハルは、足裏に痛みを覚えて立ち止まった。
ふり返った由良と目が合い、ばつが悪くなって横を向く。だが、由良は切れ長の目をそれ見たことかとすがめた。
「足裏、切ったね? 帰るよ。ほんっと、世話が焼ける」
片足を浮かせて足裏を覗くと、斜めに赤い筋が走るのが見える。陶器の欠片を踏んだらしい。ひとまずは手当をしないと、足裏から腐っていく場合もある。
「すまん。うかつだった……」
捜索は中断するしかない。一気に足が重くなった気がして、ハルは両手を膝についた。
「よかったら、うちにどうぞ。手当するわよ」
「菫!」
聞き覚えのある朗らかな声に顔を上げたハルは声を弾ませた。探し人だ。ハルは足裏の痛むのもかまわず菫に駆け寄った。
「ハルじゃない! よかった、生きてた!?」
「それは私の台詞だ。嵐のあとどうしていたんだ? お前の家を訪ねたら無人だったから、気が気でなかった。探していたんだ」
「心配してくれてありがと! でもこのとおり、無事に避難生活中なのよ」
菫があっけらかんと笑い、ハルたちについてくるよううながした。
うち、と菫は言ったが、着いた先は家ではなく昇門だった。
よく見れば、昇門には菫と同様に住む家を失った者が集まり、思い思いに筵を敷いているではないか。先日、由良に会いにいった帰りもこの門を通ったはずだが、目を配る余裕がなかったらしい。ハルは改めて圧倒された。
着の身着のままで避難したと思われるが、悲壮感はさほど感じられない。夥しい筵の上では、すでに夕餉を始めている者もある。見た限りでは炉もないから、どこかで炊き出したものを配っているのかもしれない。
疲弊した顔のなかにも、復興に向けて立ちあがろうとする気概がうかがえる。ハルは胸をつかれた。
筵の敷きつめられた隙間を縫うようにして、菫が進む。菫はたびたびつんのめるので、片足を引いて歩くハルのほうがひやひやした。
「こんなところにいたとはな。盲点であった。祈年祭の舞の一件では……恐ろしい思いをさせた」
「えーっ、ハルまで知ってるの!? そうなのよ、わけわかんないうちに連れていかれて、鎮めの巫女様の服を着せられちゃったのよ。あんな経験、人生に一度あるかないかだわ」
菫は筵のひとつを周りの者から借りると、そこにハルたちを待たせて包帯や水をもらってくる。
菫は、舞殿に駆けつけたのがハルだと気づいていなさそうで、ハルはほっとした。同時に、うしろめたさで胸がひりつく。
ハルの内心を知る由もなく、菫は手際よくハルの手当てをする。
「大君の前で鎮めの巫女様の代わりを務められるなんて、どんな幸運!? 父さんの病もハルに薬をもらえたおかげで治ったし、胸が熱くなったわよ! なーんて、実際は緊張しすぎてほとんどなにも覚えてないんだけどね」
「……とにかく健在のようだな」
都の損壊を目にしたばかりのハルには、菫の底抜けの明るさが救いだ。
「父親も回復してよかった。どこにいる?」
「そうそう、訊きたいことがあるって言ってたもんね。実は昨日、夢にハルが出てきたから、そろそろ来るかもって思ってたの。父さんにもそのことを言ったらそわそわしちゃって。父さんもハルたちを気にしてる雰囲気だったわよ。といっても、ほんとうの父ではないんだけど」
「え?」
訊き返しかけたとき、菫が「あそこ」と門の端を指さした。
「父さん、ひとの多い場所が苦手なの。避難生活だからっていうのもあるんだろうけど、落ち着かないみたいで。早く家を直せたらいいんだけど」
菫の指した先を見れば、男が民の喧噪から距離を置くようにして、筵にあぐらをかいている。目を閉じているが寝ているのだろうか。あれが菫の父か。
ハルは由良と目を合わせると、そちらに足を向ける。由良もおそらく、気づいている。
由良が先に男の座る筵までいき、男の肩を引く。
「菫が持っていた濃紫の組紐は、お前のだな」
声をかけたのはハルが先だ。
「あのときは気づかなかったよ。まさか生きてるとは、思わなかった」
由良が続けて問い正す。菫の父親がこちらを向く。
「だよね、良平兄」
配流先で死んだはずの、遠坂家の長男。
「……由良か。また来ると思ってたよ」
病床にあるときには考えもしなかったが、菫の父親は驚くほど面差しが由良に似ていた。
避難した者がひしめく筵では、どうぞ聞いてくださいと公言するようなものである。
ハルは遠坂の屋敷で話そうと提案したが、良平はかぶりを振った。
「俺は死んだ人間だ。遠坂には戻らない」
「じゃあ、とっておきの場所へ行こうか。良平兄、逃げたら承知しないよ」
由良が菫を遣いに立てて遠坂から馬を二頭調達する。一行は以前、由良が寝起きしていた洞窟へ向かうことにした。
良平が菫には聞かせられないというので、三人である。菫は今ごろ、遠坂で足止めされているはずだ。
「あなた様が、当代の鎮めの巫女様であられますね。ある日突然、曲島に降り立ち、主様をお鎮めくださったという……先日は驚きました」
やはり気づいていたのかとハルは得心した。気絶したのは、だからだったのだ。




