六.
嘆息して「来い」と背を向ける。やはりそうか、と由良は表情を歪めた。
良峰は詰所の敷地内の、もっとも大きな建屋に向かう。由良もあとを追った。
詰所と遠坂の屋敷の行き来が難しくなった父親は、今はもっぱら詰所で暮らしている。世話をするのはすぐ上の兄である瀬良だ。
由良自身は、水穂宮の詰所に足を踏み入れるのはこれが初めてである。由良を遠坂家に引き取った当人であるというのに、父とも片手で数えるほどしか顔を合わせたことはない。
床を高く上げた建物の軒下をぐるりと囲む縁側に沿って歩く。良峰は奥の間まで来ると、襖戸を開けず縁側に腰かけた。おそらく中には父親がいるのだろう。
どうやら、良峰は由良を父親に会わせる気はないらしいが。
「いつから気づいていた?」
「巫女が崇められるような存在じゃなく、ただの生贄だって? そうだな」
由良は良峰からたっぷりふたり分の間隔を開けて、縁側に腰を下ろす。
おかしいと最初に思ったのは、ハルの話を聞いたときだった。
「主様が巫女から出ていかれるのは、巫女が死んで代替わりが行われるときだと、ハルは言った。自分は死期が近いらしいとも、ね。だけど、俺が見る限り彼女は健康体だ。矢傷は受けたけど、治りも健康的な成人の平均よりも早いくらいだった」
追っ手の矢を受けたハルは足に矢傷を負った。普通であれば、しばらくは歩けないほど傷は深かった。
しかしハルは痛がりながらも歩き、名波の村を出るころには舞を舞えるまでに回復していた。本人の強靱な精神力とよい薬のおかげなのは間違いない。とはいえ、これが寿命間近の人間ならば、いくらよい薬があっても回復はままならないものである。由良自身の母親がそうだった。
「そこへ、代替わりを早める話がきて確信したよ。つまり、代替わりに巫女の寿命は関係ない」
当然、寿命が先にきて代替わりする場合もあるだろうが、それはまた別の話である。
「その上でさ。寿命と無関係に代替わりが行われるなら、さらに疑問が浮かぶ。俺たちは……少なくとも俺と民は、誰もこれまで役目を終えた巫女のその後を知らない。国のために体を張って荒ぶる神を鎮めた巫女なんだから、国をあげて埋葬してもいいのに、埋葬されたかどうかさえ知らされない。なぜか? ってね」
彼女が話を聞いたという神護りは、なぜ巫女の死と代替わりを関連づけたのか? という疑念もある。
これらを考え合わせれば、行きつく結論はひとつしかない。
「巫女は代替わりの際に、主様に喰われるんだろう。――最初から最後まで、生贄だ」
巫女に決まれば、ひとり曲島でその身をもって荒ぶる神を鎮め、次の巫女が決まれば、文字どおりその身が荒ぶる神への供物になる。
良峰はなにも言わない。だが、その表情で由良は自身の推論が正しいと知る。
「知ってるのは遠坂の人間だけ? 誰も口にしないのは、神護りにとって都合が悪くなるからでしょ」
代替わりを円滑に行う上で、生贄という言葉は邪魔でしかない。
だから巫女となる娘は、最初から人間とは異なる存在として周知される。異質な存在であれば、荒ぶる神に差しだしても罪悪感を持つ必要がないからだ。むしろ喜んで差しだす者もいるだろう。
差しだすことによる恵みへの期待はもとより、もともと人間は異質なものを本能的に恐れ、遠ざける生き物である。
ときには、と良峰が口を開いた。
「数年という短い間隔で次々に新しい巫女を差しださなければ、今の水穂国は安寧を保てない。娘が多数、喰われるなどとは知らないほうがいいと思わないか」
だから生贄である事実はその言葉ごと伏せ、巫女は崇められる存在だという部分にだけ光を当てる。
そうやって人々の目を逸らし、巫女を進んで差しださせる。鎮めの巫女に選ばれるのは素晴らしいことだと思わせる。
「お前も忘れたわけではないだろう、先の災厄を。我々は多くのものを失った。それに比べれば娘の命ですむのは安い」
良峰は由良が言い返さないのをどう思ったのか、さらに続けた。
「ともあれ、そう遠くないうちに主様は巫女を喰いたがる。これまで二十歳を越えて生きた巫女はいない。近いうち、代替わりの儀は避けられないのだ。今回は変事が続いたが、主様も新しい巫女に依り替えをなさればお鎮まりくださるだろう。巫女様とて、主様に喰われるのは本望であろう」
曲島に長く留め置かれれば、やがて自身の境遇に諦めと悟りを得るようにもなる。どこにも行けないのなら、いっそ喰われることを望んでもおかしくない。
良峰はそう言いたいのだ。
「……さっきのハルの話、聞いたでしょ。ハルは生きたがってる」
声が勝手に険しくなった。
「生かした結果、国が滅べばどうする。代償は計り知れない。お前も遠坂に生まれたなら、ひとりより国を救う道を選ぶべきだと理解できるはずだ」
自分を遠坂の人間だとは認めていないくせに、という思いを、由良はぐっとのみこんだ。
「だからハルはその意も汲んだ上で、国も自分も助かるための協力を頼んだでしょ」
良峰が困惑した風に視線を泳がせる。
それは良峰には珍しい、心の揺らぎだった。
「あの娘は……ふしぎな娘だな。神護りに望みを阻まれても、神護りを受け容れると言う。愚かなのか、なんなのか」
「度量が大きいんだよ。俺には真似できない。猪突猛進なのは困りものだけど」
「ぶつかられる側としては、早く退いてほしいものだ」
良峰の言葉は実感に満ちたものだろう。しかしこれまでとは違い、好意的な雰囲気が感じられる。
猪突猛進と評されたハルを思って喉の奥で笑うと、良峰がふいに声を改めた。
「……お前も笑うのだな」
「何度も死ぬような目に遭わされて、笑えるわけがないでしょ」
「死ぬような目に遭ったのか?」
「よくも平然と言えるね」
由良は鼻白んだ。ハルは「受け容れる」と言ったが、由良はこの兄を受け容れられる日が来るとは思えない。目的のためと割り切って付き合うのが精いっぱいである。
「嘘も欺瞞も、ハルにはないから楽なんだよ。いつのまにか気が抜ける。笑えるのはそのせいだよ」
それでも、もしも由良が良峰を受け容れる可能性があるとしたら。受け容れることはできなくても、歩み寄れる一点があるとしたら。
その一点にいるのは、ハルかもしれないとふと思う。
「だから、豆とハルを寄越してくれたことには感謝するよ」
良峰は押し黙り、やがて縁側から立ち上がった。視線は遠くに向けられている。
その先には現在では倒壊してしまった、かつての正殿――大君のおわす場所がある。
「……私は、神護りだ。お前とは違う。娘ひとりで確実に国を救えるなら、私はそちらを選ぶ」
「ああ、そう。……変わらないんだ」
由良は少しでも良峰に期待した自分に苦笑した。この様子では、どれだけハルに心動かされようと、良峰は考えを改めない。
だが由良も、分かり合えないならと屋敷から逃げたころとは違う。ハルのようにどこまでもまっすぐ――とはいかないが、由良には由良のやりかたがある。
「けど、実際問題として矢が偽物では良峰兄も困るでしょ。仮の協調体制くらいは組めるんじゃない?」
言いながら、由良はまた苦笑した。
なぜこうも自分はハルに肩入れしてしまうのだろう。
*
由良が自分の心の変化に苦笑いしたころ。
ハルが弓矢を手に遠坂の屋敷に戻ると、絢乃が木のものさしを手に豆の採寸をしていた。
両手を広げた豆の袖丈を絢乃が丁寧にはかっていく。ハルも君代に教わって縫い物をしたのを懐かしく思い出す。まるで上達しなかったが。
君代はどうしているだろう。タケルは健やかに育っているだろうか。村の者たちの、親しみよりも畏怖がくっきりと表れた目が頭をよぎる。ハルはまたたきをして、その残像を散らした。
「ハル、遅かったな! 由良は一緒じゃなかったのか? 良峰はなんの話だった」
しばらく声をかけずに眺めていたら、豆が先に気づいてハルに手を振る。絢乃もこちらを向いた。
「由良は神護りの詰所だ。兄弟で水入らずの話があるのだろう」
「うそだー。これまでそんなこと一度もなかったぞ」
豆が腕を振った拍子に、絢乃が当てたものさしが落ちた。絢乃が「まあ」とおっとりした様子で拾う。
「ならば由良は成長したのだな。ところで豆も成長したのか?」
衣を新調するのだから、成長の意味合いは違うが。しかし、体の成長とは関係ないという。
「豆はまもなく元服なので、衣の準備をするのです」
「衣というと神護りのか」
「はい。豆もいよいよ正式に神護りの一員になります。薄墨の袍に白袴姿に変身するんですよ」
絢乃の言葉の選択は独特だと思いつつも、ハルは指摘せずにいたのだが、豆が抗弁した。
「かかさま、おれ別に馬とか猫とかに変わるわけじゃないからさあ、変身ってのはやめてくれよ」
「まあ、まあ」
目を細めて手を動かす絢乃は、しごく嬉しそうだ。たっぷりと幅のとられた薄墨色の布を豆の体に当て、目印に針を刺す。その顔は誇らしそうですらある。それもそうだろう、とハルは君代をまた思い出す。子を産むのは命がけである。
やっと生まれた子も、病や飢え、寒さなどであっけなく命を落としていく。元服を迎えられるのは、ことのほか大きな歓びだろう。
「ハル様、この髪型も今だけなんですよ。呼び名も、元服したら実名を使いますし」
豆という通称は幼名だ。以前、ちらりと話をされた覚えがある。
実名は生まれると同時に授けられるが、通常その名は成人を迎えるまで伏せられる。ということは、ハルがつけたタケルの名も、成人まで伏せられるのだろう。
名には力がある。その力が奪われ、子が弱るのを防ぐため、むやみに明かさないのである。
無事に元服を終えて初めて、実名を口にできるらしい。
「では、豆と呼ぶのもあと少しなのか。惜しいな」
愛おしく名残惜しい。ハルは豆の頭を撫でたが、豆はかえってご機嫌斜めになってしまった。
「おれは早く実名で呼ばれたいぞ! 豆なんかまるきり子どもだろ。好いた女に呼ばれたくない」
「まあ……! 豆には好いたひとがいるの?」
「かかさま、おれもう成人だよ? いるのが普通じゃないか」
だから、袖丈も裾も長めにしてくれよ、あっというまにいい男になるんだから――と豆が絢乃に念を押す。
ませた子どもだ、とハルが笑いをかみ殺していると、由良と良峰が揃ってやってきた。由良はいつもの笑顔で、良峰はしかめ面。わだかまりが解消したのではなさそうである。
良峰が豆を下がらせる。豆は、また自分だけ除け者かと憤慨しながら出ていった。
「さて、鎮めの巫女様。我々は早急に本物の矢じりを見つけなければなりません。……神弓・神矢はどちらに?」




