三.
少女が連れてこられたのは、ひとがふたり入れる程度の奥行きの、小さなほら穴だった。
山の斜面に開いた入口はうまい具合に岩や木で覆い隠され、じっと目を凝らしたところで穴があるとは思いもしない。
折しも降り始めた雨のおかげで、追っ手の声も聞こえない。逆にいえば少女たちの声も漏れる心配もなさそうだった。
「こういう場所を見つけるのは得意なんだよね、俺」
ひょうひょうとした口調で言いつつ、男は慎重な様子で入口を岩で塞ぐと、少女をふり返る。少女は胡乱な目を向けた。
「何者だ?」
「なにって、猫だよ。見たことない?」
男の涼しげな声に呼応するように、彼の足元から獣が飛びだす。少女はあとずさった。
全身を黒い毛で覆われた四つ足の動物だった。大きさは両手に載せられるくらい。三角の耳がぴんと尖っている。金色の光はその動物の目だった。炯々《けいけい》と輝いている。
「私が尋ねたのはお前だ。……しかしこれは猫というのか。初めて見た」
「そうなんだ? 名前はフユ、雌だよ」
フユと呼ばれた猫が少女の前までくると、たし、たし、と前足で少女の足の甲を叩く。思いがけずその仕草に頬がゆるんだが、足首のすぐ上に刺さった矢が目に入ったとたん呻いた。
「痛い……っ、で、お前は何者だ」
「ま、自己紹介は矢傷の手当てをしながらね。はい、まずは座って」
男はのんびりとした様子で言い、フユの頭を撫でる。つんとそっぽを向かれ、男は苦笑しながら火の支度を始めた。洞穴を使い慣れているのか、あっというまに枯れ木を集めてきて火を熾す。
男は細身で、声だけでなく切れ長の目から受ける印象も涼しげだった。細い眉は緩やかな曲線を描いて、面差しを穏やかに見せている。一方、顎の線は鋭く、薄い唇もきりりと引き締まっていた。十人中九人は美青年だと賞するだろう。
歳は二十代前半くらい。胸下まで伸びた髪をひとつに結わえ、片側にさらりと流しているのもまた涼しげだ。
しかしどうにも毒気を抜かれる。調子が狂う。少女は警戒しつつも、火の前に座った。矢がどこにも当たらないよう、右足の膝を立てる。
明るくなった洞穴を見あげれば、ごつごつとした岩肌が目に入る。地面には、フユのものではない獣の足跡があった。古い跡だから、ここをねぐらにしていたのかもしれない。地面は雨の空気を吸ってか、しっとりとしている。
男はみじんもためらいを見せずに少女から矢を抜くと、自身の袍の片袖を引きちぎってきつく巻く。藍鼠色の布に赤黒い染みが広がる。そのあいだ、少女は痛みで涙目になりながら歯を食いしばった。
「助かった、礼を言う。これでまた歩ける」
「もう歩く気? まだ血が完全に止まってないし、追っ手もうようよしてると思うけど」
追っ手。男は呆れた風に笑いながらも、そう、はっきりと言った。少女は痛む足をこらえて腰を浮かせる。
「答えろ。お前は何者だ? あいつらの仲間か」
男は少女を見あげ、笑ってフユを少女に差しだした。
意図がわからないまま、少女はフユを抱きとる。小さなぬくもりが心地よい。
「相棒を助けてくれてありがとね。俺は、橘家の由良。歳は二十二、男。兄がふたりいる。仲間かと問われれば答えは否。これでどう?」
フユが腕の中でみゃあ、と鳴く。フユの姿が見えなくなったため、探していたのだと由良がつけ加える。少女はふたたび腰を下ろした。
矢が耳をかすめたとき、その先にいた小動物をとっさに庇ったのを、少女は今になって思いだした。
「あの矢は私を狙ったものだ」
まさかという思いが強い。だが矢は鎮めの巫女を、ひいては荒ぶる神を狙っていた。荒ぶる神に矢を向けて、なにが引き起こされるか考えなかったのか。
曲島と水穂国を繋ぐ道で引き留めようとした神護りとは、様子が違った。強引なやり口。これからはいっそう、気を引き締めてかからないと。
「そうだとしても、フユが助かったのは事実だからね。ほら、俺にはつれないのに――もう懐いてる」
膝に乗った小さなぬくもりをこわごわ触ると、フユは少女をじっと見あげてから甘え声で応えた。なるほど、これは食糧にはできそうもない。
そう思ったところで腹が鳴った。
「煎った小豆ならあるけど」
「食う」
間髪いれずに言うと、由良が喉の奥で笑う。
「フユとの仲違いを覚悟してね?」
その言葉の意味はすぐに知れた。小豆はフユの食糧のようで、由良が腰帯に下げた巾着から小豆を取りだすと、フユが飛びついた。少女も負けじと飛びつく。
互いに一歩譲らぬ戦いを制したのは、フユである。少女の頬にはひっかき傷。
「足りん。こいつの食い意地はいったいどうなっているんだ?」
「両手いっぱいに小豆を握りしめて言われてもね……。ていうか、鎮めの巫女様も食い意地って言葉知ってるんだ」
それくらいわかる、と憤慨しかけ、少女はぎくりとした。
「気づいていたのか」
意味ありげな視線を追い、少女は自分を見おろした。白衣に朱色の袴。気づかれて当然である。
「先に言っておくが、私は二度と島には戻らないからな……! もう、ひとりきりはたくさんだ。話しかけても返事がないのは寂しいし、苦しい。あんな場所で誰にも顧みられずに死ぬと思うだけでぞっとする。私は返事のある安堵がほしい」
たとえば、今みたいに。なにか言えば反応がある、ただそれだけのことがどれほどの安堵をもたらすか。ともすれば、これまでの反動で思いの丈をひと晩でもふた晩でもぶちまけてしまいそうだった。
沈黙が落ちる。
やはり、この男も巫女は民のために死ぬのが正しいと言うだろうか。それが巫女としての務めで、選ばれたことが光栄なのだと言うだろうか。
初対面だというのに、つい正直な気持ちを明かしたのを悔やみ、少女は唇を噛む。そのとき由良が噴きだした。
「矢傷を受けた身で啖呵を切られてもね。まずはここを逃げ切ることと、怪我を治すことを考えたら? で、鎮めの巫女様の名前を教えてよ」
「は……?」
ごく軽い口調で言われ、少女は面食らう。由良は、少女が鎮めの巫女でも、神依りでも、言葉遣いを改めるつもりがないようだった。神依りの意味は、この国の者には周知のはずだが。
しかし、由良の変わらない態度に、少女は自分でも驚くほどほっとした。胸の内で強張っていたなにかが、溶けだすのを感じる。
対等な扱いを受けるのは、初めてだった。
「鎮めの巫女だと言っただろう」
「それは通称。それに今その呼び名で呼ぶわけにはいかないでしょ。どうしようか」
まったく深刻ではなさそうにして由良が頭を掻く。いつのまにか雨の音は止んでおり、様子を窺いに外に出た由良が、今のうちだ、と少女をうながす。
雨の上がった空の、澄んだ空気を胸いっぱいに吸う。いつのまにやら、夜の底から抜けだしていた。
星の光がごく弱く、優しくまたたく。山の中はひっそりと、だが命が目覚める気配に満ちていた。敵も味方もなく、ただ今日を生きる命の力強さを感じる。
少女はもう一度、その気配を取りこむように息を吸う。
ふたりの頭上で鳥のさえずりが響き渡った。
少々気の早い春告鳥が、木の枝から飛び去るのが見えた。
「よし、お前さんはハルに決まり」
「単純だな」
「単純なほうが覚えやすいでしょ。フユとも相性がよさそうだし」
みゃ、とフユが胡乱げに鳴く。少女は、どう思う? と目でフユに問いかけた。今度の返答はみゃ、と愛らしい声。小豆を取り合った敵だが、戦友と認められたらしい。
「なるほど。悪くない」
「でしょ。――ハル」
少女の身の内を、涼やかな風が吹き抜けた気がした。
我が意を得たりとばかりにうなずいた由良が、目元をやわらかくする。
少女は口の中で「ハル」という語感を転がしてみる。よい響きだった。悪くない。
「なんだ、由良」
「お、やっと俺の名前を呼んだね。行こう、足が痛むだろうけど、もう少し我慢して」
はい、と落ちていた枝を渡される。ハルの胸辺りまである長い枝だ。杖にするといいと言われ、そのとおりにすると楽になった。
「腹が減った」
「それもまだ我慢して」
ハルの文句をさらりと左から右へ流し、由良が前を行く。フユが軽やかに、そのさらに前に躍りでる。
ハルも歩くことに専念した。すべては、山を越えてからだ。