五.
一方、腹の底はさっきの高らかな声が嘘のように、静まり返った。
「良峰、私は他者の心の機微に疎く、察しもよくない。だから私にもわかるように説明してくれ。これはなんだ? なぜこれで主様がお歓びになる? 主様は黙ってしまわれたぞ」
「大君が、これを使うようにと仰せです」
さっぱり的を射ない説明に、ハルは箱ごと良峰に突き返して言い放った。
「良峰。私はお前が憎い。お前は私自身を認めずに害をなす。大君もだ。説明もなく命令を押しつけられて、私が諾々《だくだく》と応じるわけがなかろう。信じようがないではないか」
内心を正直にさらす。それがハルの、相手と分かり合うための唯一の方策だった。
交渉やはかりごとといった手段は、ハルという少女からもっとも遠いものだった。
「私共は、主様をお鎮めするためにおります。鎮めの巫女様と目的をおなじくする者同士ではないですか」
「ハル、やっぱりこの兄にはなにを言っても無駄だ。下がって」
背後で、由良が腰の太刀を抜く気配がした。居並ぶ神護りのあいだに緊張が走る。
ハルはその機先を制して声を張った。
「ああ。だから、私はお前を受け容れる」
「……は」
良峰が唖然とした。
「憎い気持ちはなくならん。お前を殺せば、少しはせいせいするのかもしれない。だが……それでは前へ進めん。だから、お前を受け容れる」
許せるかといえば、許せないのがハルの正直な気持ちだった。由良や、菫――大事な者を不当に扱った男を、そう簡単に許せるはずもないが。
『主様をよく鎮め、水穂国の安寧を保つのが我らの役目』
その言葉だけは信じられると思った。ハルもまた、由良たちの住むこの国が平穏であれと願うひとりだから。
良峰のすべてを受け容れることはできない。だがその言葉を発したという一点において、ハルは良峰を受け容れようと決めたのだった。
「お前の手も借りたいんだ、良峰。主様のため、この国のため。それでいい。だが私は、私のためであることも放棄しない。私は、私を犠牲にしない。すべてを満たす道はどこかに必ずあると、由良が教えてくれた。だからその道をお前とともに見つけたい。こういう考えかたは、欲張りだろうか?」
止まった時間を先に動かしたのは、由良だった。はあ、と肩をすくめる。宙で止まっていた太刀が、鞘に納まる。
「あなた様というかたは……」
良峰が深く息を吐ききる。
次に顔を上げたとき、その目は初めてハル自身を捉えていた。
「……これは次の巫女を決める際に使う神弓、神矢にございます。ご心配なさらずとも、触れた程度ではなにも起こりません」
良峰が臣従に動くなと命じ、ハルに取るよううながす。
「名波の山崩れに、都の損壊。そして神事での異例。いずれも、鎮めの巫女様がお務めを果たせていないからではと、大君はお考えです」
ハルが口を開くより先に、由良が指摘する。
「山崩れも都の損壊も神護りが原因でしょ? ……ああ、あくまでも神護りの非は認めないわけだ。けど、ハルのせいじゃない」
「とにかく、大君が代替わりを早めよと仰せなのです。巫女様」
「代替わりは早められるのか? 初耳だ。私は以前、死期の訪れとともに代替わりを行うと神護りに説明された。だがもし、代替わりを早められるなら……」
ふと胸の内に、ひとつの可能性が灯る。
それは期待をはらんで、体温をじわりと上げていく。やがて抑えきれない高揚となって、内側からハルを押した。
「代替わりを早めれば、私は死なずにすむのではないか? 死なずに、主様と私を分けられるのではないか? そうだろう、由良」
「……どうかな」
曖昧に言ったきり考えこむ由良を見つつ、ハルは目を輝かせた。
「女がこの弓矢を使うのを、私は占の最中に炎の向こうで見た。あれは代替わりの様子だったのかもしれない」
怪訝そうにした良峰に、ハルは占に使った火に映しだされた光景を話す。
「この弓矢を使うと、どうなるんだ?」
女が泣き崩れていたのが気になるが、まずはこの弓矢の役目を知るのが先だ。
「巫女様が神矢を放てば、次の巫女となる者を主様がお決めになります。我々はその者を主様の元にお連れするのです。そして主様が依り替えをなされば、代替わりが完了します」
「私もそのようにして決まったのか」
ひょっとしてハルが見たあの場面は、ハルが鎮めの巫女に決まったときのものだったかもしれない。
しかし推測は外れた。
「いえ、あなた様のときは……我々、神護りも預かり知らぬうちに、代替わりが完了しておりました。我々が依り替えの儀を執り行うまでもなく、あなた様は主様であられました。長い災厄の最中でしたから、異を唱える者もおりませんでした」
「そう、か」
知らず声を落としたハルの頭上に、由良の手がぽん、と乗った。
良峰やほかの神護りがハルの育ちを知るかもしれないという期待があったのを、見抜かれたらしい。ハルは由良に、大丈夫だという意をこめてひとつうなずいた。
良峰が箱ごと、弓矢をハルにふたたび差しだす。
「どうぞ、代替わりをなさいませ。これで主様はあなた様から出られます」
「ふむ」
ハルは改めて神弓、神矢に目を向ける。
代替わりを早めれば、ハル自身は普通の娘として生きられるかもしれない。だが、それは同時に次の孤独な娘を作りだすことでもある。
(代替わりを早めて、ほんとうによいのか?)
ハルは迷いを振りきるように、大きくひとつ息を吸う。
鮮やかな朱色に塗られた弓と矢。その先で静謐な光を放つ石の矢じり。そこここに満ちる、この世ならざる神々しい気配。
しかし、ハルが矢を取りあげるのと、その手を強く打ち払われたのは同時だった。
「――待った」
「由良? なにをするんだ、まったく」
手を打ち払われた拍子に矢を取り落としてしまい、ハルは慌てて拾いあげようとして目をみはった。矢じりが外れている。
「な……」
矢じりを取りあげ、ハルは息をのんだ。
「これは……偽物だ」
箱からは神気があふれていたのに、矢じりには神気がまったく感じられない。
腹の底が動かない。なんの声も響かない。
「な……んです、まさかそんな」
真っ青になった良峰の手から、重厚な漆塗りの箱が落ちた。
*
「良峰兄、聞きたいことがある」
由良は弓矢を携えたハルたちと水穂宮まで戻ったが、ハルを先に屋敷へ戻らせると良峰を呼び止めた。
「お前に話すことはなにもない」
「気が合うね、俺もあなたと積極的に話したいわけじゃない。だから単刀直入に尋ねるよ。代替わりをすると巫女は――生贄はどうなるの」
生贄、と。
言うなり、良峰の顔色が変わった。




