四.
「ええ、占の結果はそう聞いております。神護りは皆、承知しております。でも大君が」
絢乃が唇を舐める。見る者をはっとさせる美しい顔が曇り、ハルは嫌な予感がした。
「大君? 言ってみろ、絢乃。私に遠慮せずともよい」
ところがそのとき、襖戸の向こうで性急な足音が近づいてきた。
「主様はこちらにあられますか?」
言い終える前に派手な音を立てて襖戸が開く。良峰が肩を上下させて入ってきた。
「その呼びかたはやめてくれ。由良たちは私をハルと呼ぶ。お前もそうしてくれ」
「とんでもございません。あなた様はこの国を安らかに保ってくださるおかたです。どうしてそんな態度が取れましょうか?」
良峰が由良を一瞥した。侮蔑のこもった視線を、由良はひょうひょうと笑って受け流したが、ふたりのあいだに一瞬、緊張が走るのが感じ取れた。
「ならせめて、鎮めの巫女と呼んでくれ。主様が顕現しておられないときに、主様と呼ばれるのは不快だ」
「申し訳ございません。改めます。ところで、急ぎお願いしたきことがございます」
堅苦しい口調で頭を下げた良峰は、その場に腰を下ろすこともしない。
「なんだ? 私はまだこの者たちと話を終えていない」
「大君からの火急の命でございます」
絢乃がはっと顔を強張らせる。ハルは腰を上げた。
「わかった。聞こう」
「俺も行くよ」
由良がハルを庇うように進みでる。しかし良峰が遮った。
「遠坂の者でないものが、しゃしゃり出るな。お前の来てよい場所ではない」
「……へえ? それはますます気になるな。ハルをどこに連れ去る気? また無理やり舞を舞わせるの? それともこのまま攫って島に返す? 次は嵐ではすまないかもね」
「大君の命だと言っただろう。卑しい想像はやめろ」
「じゃあ、俺に見られてもやましくないでしょ。嵐の件もあるし、なにかあったとき俺を置いておいて損はないと思うよ」
由良が笑顔で舌鋒鋭く返す。良峰はハルと由良を交互に見、ふいと歩き出した。
由良がハルに向けて肩をすくめる。ハルたちもついていった。
目指すは水穂宮らしい。
神護りの詰所に行くのかと思いきや、詰所には立ち寄っただけだった。良峰は松明を持ってくる。ハルたちはさらに敷地内の、倉に似た建物に案内された。
良峰が、木が朽ちて色褪せた閂を外す。嵐に遭ったというのに、なにひとつ壊れていないのが奇跡だる。
中から流れだした空気の気配に、ハルは知らずあとずさった。
腹の底がうごめく。ぐわり、と。
それが怒りによるのか、歓喜なのか、荒ぶる神がなにを思って反応したのか、ハルには知りようもないが。
「なんだここは」
良峰は返事をせず、粛々《しゅくしゅく》と中へ進む。ハルも続こうとしたが、由良に制された。
「ハルはうしろね」
由良が先に良峰を追う。ハルもそのあとをついていく。
倉かと思ったのは間違いで、中はがらんとしていた。床は地面がむき出しで、中央に一カ所だけ穴が開いている。ぱっと見る限りでは石で方形に囲いが組まれた井戸のようだ。井戸と異なるのは、石で縁取られたのが三辺だけだということである。
良峰はその縁取りのない一辺を越える。
石段が地下へと続いていた。
ひとがひとり歩けるだけの狭い石段は、すぐには底が見えないほど深く続いている。
良峰が持つ松明の明かりが揺れ、ほの赤く地面を照らす。巫女装束の袖口を冷気が撫で、ハルは腕をさすった。沓音が三人分、やけに大きく反響する。
石段を降りきった先にも、まだ細い通路が続く。自然のものとは思えないほど、まっすぐに延びた道である。
「お前がいた洞窟みたいなところだな」
「あっちは綺麗な湖が見えたけどね。こっちはなにが出てくるやら」
ふり返った由良はおどけて言ったが、その手はさりげなく左腰に佩いた太刀に置かれる。ハルははっとした。由良の前には、良峰がいる。
「由良、早まるなよ。お前がなにかするときは私が加勢するから」
由良の袖を引いて耳打ちする。それだけで由良には通じたらしい。苦笑する。
「まさか。しないって」
今日の由良は、萌黄の袍に白の袴という、春の野を思わせる取り合わせである。薄墨色を着ることは許されていないのだ。ハルはふたりの確執を思い、由良の袖を引く。由良がまた苦笑した。
通路を突き当たりまで進むと、また石段が見えた。今度は昇りである。一本道なので迷うことはない。しかし、どれほど時間が経ったのか。
己の感覚が頼りなくなってきたころ、良峰がようやく立ち止まった。
由良がその横に並び、ハルは広い場所に出たのだと知る。ハルが追いつくと、ふたりがハルの分の場所を空けた。
湖はない。急峻な山をぽっかりとくりぬいたような空間だった。表の喧噪はいっさい届かない。静寂だけが満ちる。
巨岩がそびえる壁はゆるやかな曲線を描いて天井へと高く高く続く。
壁に目を凝らせば、岩の隙間に光が明滅するのが見える。さながら蛍の群れが壁に貼りついたかのように、苔が発光していた。
全身の肌がそわりと粟立つ。
曲島とどこか似た神気が満ちている。
ハルはなにかに呼ばれた気がして、広い空間を見渡した。神気は、ある一点からあふれているようだった。
「これは……」
引き寄せられるように、ハルはそこに近づく。
奥の壁際に、岩の突き出た箇所がある。突き出た先は平らになっており、そこに黒漆を塗った箱が静置されていた。
「残念ながら、私を飾る装身具、というわけではなさそうだな」
箱の横幅は両手を広げたほど。対する奥行きや高さはその半分程度か。大きさからしても、中身は鏡や簪といった小物ではないと察せられる。
心臓が急激に拍動を速める。
良峰が進みでる。さらに足音がしてふり向けば、薄墨の袍を着た神護りが続々と通路から現れた。その数はざっと二十くらい。いずれも、神護りの内ではそれなりの地位にあるものと思われた。
「このたびの神事により、大君はひとつの決断を下されました。主様のご意思にも沿うものでしょう」
良峰が箱の蓋を取り、箱を捧げ持つ。
「どうぞ、鎮めの巫女様」
ハルにはその瞬間、神々しくも清浄な空気が蓋からあふれだしたように感じられた。
肌を撫でるのは、島の風。日によって潮の匂いのまじる、濃い緑の気配。
ハルは箱の中身を見ようと身を乗りだす。
【――取るか? 娘よ】
ハルはぎょっとしてあとずさった。人間のすることを高みから見物してやる、とばかりの愉悦を含んだ声。
「ハル、どうした?」
「主様の声が聞こえた……! 取るか? と笑っておられた。この中身はなんだ?」
「ハル、下がって。俺がたしかめる」
「いや、お前になにか起きては困る。由良こそ下がってろ。見てみる」
「ちょっ、待っ、ハル!」
ハルは由良を押しのけ、良峰の持つ箱を覗きこんだ。
「弓矢……か? これは……」
白絹の布を脇にやる。黒漆の箱の中には、日の昇る色に似た鮮やかな朱色の短弓と、対となる矢が入っていた。
ハルが追っ手に射られた矢のような、一般的に使われる銅でも鉄でもなかった。矢じりは、山あいを流れる澄んだ川の色をしている。
「翡翠です。邪気を祓い清め、生命の再生を司ると言われております」
これは神事の際、占の炎の向こうに見えた弓矢に間違いなかった。
しかしそれ以外にも妙に胸が騒ぐ。どこかで見た覚えがあるのだ。




