三.
たし、たし、とやわらかいもので額を叩かれ、ハルはわれに返った。
心臓がまだ嫌な音を立てている。ハルは深呼吸を繰り返した。浅かった息が徐々に深くなるにつれ、平静さも戻ってくる。
頭が水瓶を乗せられたかのごとく重い。
しかもじんわりとあたたかい。この感触には覚えがある。たし、たし。
「……フユ、どいてくれ。重い。お前、いつのまに戻ってきたんだ? 由良も一緒か?」
頭に手をやると、フユはハルが捕まえる前に素早く飛び降りた。ハルの額を叩いたのは、フユの前足らしい。
フユへの質問の答えは、別の方向から返ってきた。
「由良様ももう戻ると思いますわ。フユは、由良様の帰りが近くなると一足先に屋敷に戻ってくるのです。ハル様もお疲れでしょう。敷物を持ってきましたので、横になられてはいかがですか?」
襖戸が開き、たおやかな声がハルの意識を現実に引き寄せる。
「少し、ぼうっとしていただけだ。大事ない」
絢乃がハルの座った場所の前に敷物を広げると、フユが駆けていった。ハルのための寝床でさっさと丸くなるとは、肝の太い猫である。
「いくら呼んでも白目を剥いたままで返事がないから、焦ったんだぞ」
豆が絢乃に続いて部屋に入ってくる。
「豆。……私は、生きているのか」
ハルは周囲を見回した。炉も祭場もない。代わりにあるのは、見慣れた造りの部屋だ。
調度品は神護りの詰所とほぼおなじでも、どれもよく見れば繊細な彫り物を施されている。
遠坂の、絢乃たちが暮らす離れであるようだった。
「あれくらいで死ぬかよ。右手の火傷だけじゃないか。しばらくひりつくだろうけど、かかさまが手当てしたからすぐ治るって」
「すみません、勝手ながらハル様がお持ちだった薬草を使わせてもらいました。痕は残らないとは思うのですが。痛みはいかがですか?」
気遣わしげな声を受け、ハルは包帯の巻かれた右手を持ちあげた。薬草の独特な匂いが鼻をつく。
「問題ない。手当て、助かった。礼を言う」
神事からはおよそ二日が経っている。包帯がなくとも差し障りはないほどに回復していた。
卜占の神事でハルは炎に手を入れ、手に火傷を負った。
燃え盛る炎に手を入れたつもりが、実際の炉の火はごく小さかったのと、熱さにはっとしてすぐに身を引いたのがさいわいし、傷は軽度ですんだ。
絢乃の介抱のおかげでもある。拳を開いたり閉じたりするたび、皮膚が引っ張られる痛みに顔が歪むけれども。しかしそれよりも、両手を突っこんだせいで組紐が焼けてしまったのが残念であった。
「良峰たちはどうしてる」
「それが――」
と絢乃が言いかけたとき、敷物の上で丸くなっていたフユが跳ね起き、襖戸の隙間から飛びだした。
ハルも腰を上げたが、入ってきた人物とぶつかりそうになり、うしろへたたらを踏んだ。
「あれ、ハル。どっか行くの?」
「……お前こそ、どこへ行っていたんだ」
由良だった。
腕の中で、捕まったフユが目を怒らせて暴れるが、気にする風でもない。
「ちょっとした散歩だよ。ただいま。それより、どうしたのその手」
普段どおりののんびりした口調に、脱力してしまう。気を取り直してハルは答えようとしたが、豆のほうが早かった。
「由良、ごめん。頼まれたとおりにハルを見張ってたけど、まさか火に手を突っこむとは思わなくてさ」
「見張りだと?」
「放っておくと無茶するでしょ」
豆がハルについてこようと食い下がったのは、だからだったのか。由良たちは、いつのまにそんな話をしていたのか。
「不可抗力だったんだ。炉の火のなかに女が見えて、鬼みたいな顔で矢を構えるからとっさに」
ハルは、翌朝に発つと言われてから卜占を行うに至った流れまで、由良たちに話して聞かせた。
「普通は矢を構えられたら、恐怖で固まるか避けるかじゃないの? なんで手を突っこむほうにいくわけ?」
「止めてやりたかったんだ」
「あのね。相手は幻でしょ。自分がどうなるか考えなかったの」
由良が大げさにため息をつく。変なことをしたつもりはなかったのだが。
「したことをねちねち言うな」
「ねちねちって、あのね」
呆れまじりに言いかけた由良を、豆が遮った。
「由良はハルが心配なんだって。あ、心配具合では、おれのほうが上な!」
「そうなのか、由良。すまない。豆もすまなかったな」
「いや、俺は別に心配じゃないけどね?」
「なんだ。そうなのか。豆、紛らわしいぞ」
ふわりとよい匂いがしそうな控えめな笑いが聞こえてきて、ハルたちがそちらを見ると、絢乃が口元を押さえて笑っている。
「ふしぎですね。鎮めの巫女様という存在はもっと、こう……ひとの理を超えたかただと思っていました。こんなに可愛らしいかただなんて」
「ハルはフユと本気で小豆を取り合うような子ですよ、絢乃」
「まあ」
目がまんまるだ。どうも本気で感心しているらしい。
「あと馬の扱いが雑だったぞ。完全に馬がハルの奴婢だった」
「まあ、まあ」
「お前たち……。ひとつくらいは私を褒めたらどうだ?」
「褒め……そうだな、殺しても死なない、とか?」
由良と豆が顔を見合わせて噴きだす。絢乃も「ふふ」と品よく笑顔を見せる。
口を尖らせたハルも、肩の力が抜けた。占の神事での出来事に緊張した心も、ほっとゆるむ思いがする。
「お前たちは、互いに心を預け合っているのだな。由良が守りたがるのも、もっともだ。……よい光景だな」
鼻の奥がつんとした。
「なに言ってんの?」
「いいものを見せてもらったと思っただけではないか」
由良が残念なものを見る目を向けるので、ハルはむっとした。しみじみしたところだというのに。
「あのさ。ハルも、『よい光景』の一部なんだけど?」
「……私が?」
「そ。なに傍観者を気取ってんの」
ぽん、と頭に由良の手が置かれる。
とっさに言葉が見つからず、ハルはもごもごと口を動かした。一時は諦めかけた、ひとの営みとの自然な交わり。
(私も、交われたのか?)
頭に置かれた手から、あたたかいものが流れこんでくる。
胸の内がむず痒い。甘い痺れをともなうような、くすぐったさが湧いてくる。
こんな感情は知らなかった。
「……殺されても死にたくないな」
ハルはそう言うのがやっとだったが、由良は満足そうに笑ってうなずいた。
由良は卜占の結果を知りたがった。
しかし、実のところハルも肝心の占がどのように終わったのかを知らない。首をかしげたハルの代わりに答えたのは絢乃である。
気まずそうに。
「占に使用した骨は、ひびの形を見るどころか、炭と化してぽろぽろと崩れてしまったんですって。だからその……主様は、なんの意思もお示しにならなかったと聞いております」
ハルは驚かなかった。予感があったのである。
もしも、荒ぶる神がハルを曲島に戻すのであれば、とうに戻したはずなのだ。それこそ、名波の山越えをする前に山崩れを起こす――いや、もっと前、神続きの道を消すだけで事足りた。しかし現実には、ハルは神護りの陣中までたどり着いている。
だから、少なくとも「すぐに戻るが吉」という結果は出ないだろうと考えていた。しかしハルが得意顔をできたのは、つかのまだった。




