二.
ひとは少女を、鎮めの巫女と呼ぶ。少女を敬う。尊び、崇め、同時に畏れる。
しかし決して、少女をひとの営みに交えようとはしなかった。少女は足をもつれさせながら足を前に出す。
「……もしや、鎮めの巫女様のお力が弱くなってきたのではないでしょうか」
喘ぐようにして走り、どうにか追いつこうところだった。少女は声を張り上げかけ、途中でやめる。
「実は俺もそう思っていた。主様のお声があれほど鮮明に聞こえたのは、初めてだ。当代の巫女様はもう、潮時かもしれぬ。主様をお留めするのは難し……いや、よそう。ここで口にするのはあまりに恐ろしい」
足が止まった。
年長らしき男が声をひそめて応じ、ふたりの足がさらに早まる。砂を蹴るようなせかせかとした足音にわれに返り、少女は小走りで追いつくと見事な鹿毛をもつ馬の後ろ足を蹴る。馬のいななきが響き渡った。
「私は死ぬのか!?」
神護りがぎょっとしてふり返る。驚愕の貼りついた顔がなにか言う前に、少女は口走った。
「主様!?」
「潮時ってなんだ! 死ぬのか!?」
「ひっ……! いえっ、主……巫女様、今のは決してそういう意味では……! 我々は巫女様の献身に心から感謝して」
少女は年若の男が言い終わるより先に詰め寄り、腕をつかむ。
「ならお前が代われ」
「そんな、我々にはとても務まりません……! 巫女様の代替わりは、しかるべきときにしかるべき者によって行いますゆえ」
「いつ?」
「それは……っ」
男の目が泳ぐ。
「いつだ? 言え!」
「その……巫女様のお命が絶えられたときにございます」
少女は息をのんだ。
年若の男をつかんだ腕が、だらりと落ちる。
「鎮めの巫女様は最期まで、主様とともにあられることができます。巫女様は選ばれた尊い御方です」
荒ぶる神はこれまで何度となく暴れ、国に厄災を引き起こしてきた。
大地は割れ、日照りで作物は枯れる。かと思えば豪雨が続き、川が氾濫を繰り返す。土地は痩せ国は飢饉に喘ぎ、疫病が蔓延した。年老いた者や子どもなど、弱い者から次々に命を落とした。
「主様が外におわしませば、この国はまた混乱に見舞われるでしょう。止まぬ嵐に長雨、川も海も荒れ、漁に出ることもできず、稲穂も倒れて腐る。……民はもう十年もその苦しみに耐えました。巫女様が主様をお鎮めくださって、やっと元の穏やかな生活に戻ることができたのです。我々が今日あるのは、巫女様のおかげです。この意味を巫女様ならお分かりいただけるでしょう」
巫女は尊い、だから民のために死ぬべきだと、言う。卑怯としか言いようがなかった。
腹の底から、形容しがたい感情が溶岩のように噴出し、少女は歯を食いしばった。
拳を固く握りしめる。爪が肉に食いこみ、血の筋が浮きでる。
「……このたびの玉は、巫女様の十七の祝いに用意いたしました。お心が落ち着かれましたらゆっくりご覧ください」
神護りは一礼して背を向ける。そのとき、かすかな月光を背にしてすまなそうに目を伏せるのが見えた。ひとりで祝えというのか。
一度はなんとか抑えつけた感情が、今度こそぶつりと振り切れた。
「お前たちは私のために死ぬ気がないのに、私にだけなぜそれを当然のように要求する? 私はお前たちの犠牲になどならん!」
ふたたび馬のうしろ足を蹴り上げる。さお立ちになった馬が暴れ、年若の男が手綱に引かれてよろめく。間髪いれず男の前に回りこみ、少女は男が腰に佩いた太刀を抜き放った。
「私に近づくな! 誰がこのまま、巫女のままで死ぬものか!」
少女は太刀の先を神護りに向けたまま後退する。
「巫女様、太刀をお納めください。なにとぞ……!」
そう言うものの、神護りは荒ぶる神に傷をつけるのを恐れて手を出せないらしい。
少女は返事をせず、かたわらの馬に命じる。
「伏せて私を乗せろ」
「巫女様!?」
たじろぐ神護りをよそに、馬は荒ぶる神に恭順を示すようにたてがみを震わせ、その場に伏せた。少女はすぐさま鎧のない、荷を乗せるための鞍に跨る。
「私はもう、ひとりはごめんだ! 行け!」
少女が叫ぶなり、馬が胴を起こし狂ったように駆けだす。
まっすぐ前へ。
ひとりきりではない場所へ。ほの白い砂の道に導かれるまま暗闇を、ぐんぐんと駆ける。
海につかのま出現した砂地が、容赦なく蹴散らされていく。
「主様が、主様が……! 島をお出になった、これは国が乱れるぞ……!」
少女の目は、対岸の水穂国だけを捉える。
神護りの悲鳴は、もはや少女の耳に届かない。
対岸に着いたのを感慨深く思うまもなく、少女は浜辺を過ぎ、さらに奥にそびえる山へ突き進んだ。
海岸沿いの道ではたちまちのうちに捕まる。土地勘はまったくないが、山道を行くのには慣れている。
腰の高さまで茂った草が行手を阻み、少女の体を弾く。足元は朽ちた葉と拳大の石、それから折れた枝がごろごろしており、いくらも行かないうちに馬が足を動かすのを嫌がるようになった。少女はしかたなく馬を降り、鞍も手綱も外す。自由になった馬が茂みの奥へ消えた。
乾いた冷気は冬の最中ほど鋭くないものの、少女の身にことさら染みる。
狼だろうか。獣の遠吠えが夜気を震わせる。やがて遠吠えは男の声に取って代わった。
「巫女様を捕らえろ! 一刻の猶予もならん! 主様をお鎮めいただかなければ……!」
「巫女様を早く曲島へ! 野放しにしてはならぬ!」
曲島は少女が暮らしてきた島である。追っ手の神護りに違いない。行き交う声や気配から察するに、両手の指でも足りないほどの人数に追われている。
心臓が派手に騒ぎ、膝が震える。見つかれば、もう二度と島を出られなくなる。
少女は低木の陰に身をひそめて男たちが通り過ぎるのをやり過ごすと、足音に細心の注意を払いながら、ひたすら足を前に進める。
適当な大きさの枯れ枝を拾い、藪をかき分ける。腹の虫が鳴った。
(供物を食べてから逃げるべきだった。早まった)
神饌は貴重な食糧だ。思い出して唾がこみ上げたとき、藪の中を金色に輝く光が横切った。その光が消えると同時に、藪が擦れる音が立つ。
(なんだ?)
少女は金色の光の去った方向へ足を踏み入れる。また金色の光がちらつく。
(猪……ではないな。大きさから言って兎か?)
兎といえば食糧。頭の中で両者をそう繋げるなり、また腹が空腹を訴える。少女は神護りを警戒しつつ、光を追った。光は明滅しながら、草の生い茂る山を音もなく移動する。
(逃げるにも、腹が減ってはどうしようもない。食ってやろう。出てこい)
少女は息をひそめ、気配を殺して獲物との間合いをはかりながら近づいた。
「おい、なにかいるぞ! あそこだ!」
低い声が静寂を破り、見つかったかと少女の肩が跳ねる。と同時に、獲物が地面を蹴り姿を現した。兎ではない、と少女が気づくより早く、空気が切り裂かれる音が耳横をかすめ、それに向かって吸いこまれていく。
それがなにか、考える前に少女も地面を蹴っていた。
「痛っ……!」
右足に、煮え立つような熱が生じる。熱は頭まで突き抜ける痛みをともない、獣を腕に庇った少女は、自分が今まさに着地に失敗しそうなのを悟る――が。
崩れ落ちる、その直前。
背後からの「しっ」という制止の声と同時に、少女は腕の中の獣ごと黒い腕に抱えこまれた。
「静かに。ついてきて。――あいつらに見つかりたくないならね」