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神依る巫女の反逆 水穂国事変  作者: 白瀬あお
三章 其は何者ぞ
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六.

「なるほど、菫にすべてをなすりつけるもよし、私が見つかれば、何食わぬ顔で私を大君の前に引き出すもよし。どちらに転んでも、お前たちは痛くも痒くもないということか」

「聡いおかただ。話が早くて助かります。……すべては、大君の御代に一片の影も落とさぬため、こうするよりほかなかった」

「ふざけるな! なにが御代のためだ! 自分たちの都合のよいように、菫を利用しおって!」


 ハルは良峰の肩を怒りに任せて引いた。しかし良峰は軽くよろめいただけで、涼しい顔は少しも歪まない。


「お言葉ですが、あの娘を破滅させるのはあなた様です。あなた様がお立場をわきまえ、務めを果たしておられれば、あの娘はここで死なずにすんだ」

「いいや、違う! お前たちが背負うべき罪を、私に被せるな!」


 ハルは良峰を白砂に引き倒すと、舞殿へ駆けこんだ。


「菫! 下がれ! そこは私の戦う場だ」


 突然現れたハルの姿に菫が腰を抜かし、その場にへたりこんだ。あるいは、ハルだと気づく余裕すらなさそうだった。

 ハルは草履を脱いで菫を押しのけると、舞殿の中央にすっくと立った。


(ここで舞いとうはなかった!)


 巫女の舞は神との同化を意味する。融合といってもよい。


 なかでも、ハルは常に荒ぶる神を宿した神依りのため、ひとたび舞を舞えば、ハル自身の意識は沈んで、荒ぶる神のそれに取って代わる。

 それでも、これまで日々の慰めのためだったり、君代のために舞ったときは、舞いたいという意思によるものだった。舞はハルの一部でもあった。


 だが今は、意味合いがまるで違う。

 菫を盾に取られ、巫女であることを強制されて舞うなど。

 喉がつかえる。胸の内で黒々とした塊が荒れ狂う。


(私が甘かったんだ。島を出て、神護りさえ断ち切れば普通に暮らせると、孤独から抜け出せると、思っ、て……)


 どくん、と腹の奥がひときわ大きく脈打った。


 すべて仕組まれていた。逃亡を逆手に取り、大君の前で舞わせるために、あえて由良はハルを都まで連れてきたのかもしれない。目論見もくろみどおりにハルが都へ行きたいと望んだのを、どんな思いで聞いていたのか。

 なにを信じたらよいのかまるで見当がつかず、ハルにできるのは神護りの狙いどおりに舞うことだけ。

 自分の無力に胸を掻きむしられる。衝動が今にもハルを襲い、のみこみそうだった。


 だが菫を見捨てることだけはできない。


「菫! 誰にも、これ以上お前を害させないからな。お前のことも、君代たちのことも」


 ハルはにじむ涙を目をつむって散らし、大きく息を吸う。

辺りが一瞬で、しんとした。

 空気が、その一瞬で清廉な静謐せいひつさをまとった。

 ハルは、篝火で揺らめく舞殿の床に舞の最初の一歩を刻みつける。





 荒ぶる神を鎮める神楽には、決まった形式はない。

 気持ちのおもむくままに体を動かせば、しだいに自分の意識とそれ以外の境目が淡くなってくる。

 たとえていうなら、めまいにも似た恍惚こうこつ。えもいわれぬ快楽を味わうのとおなじ。

 荒ぶる神に語りかけ、祈りと感謝を捧げ、荒ぶる神が満足するのを全身で感じとる。舞うたびに昇天する。


 しかしこのときは様相が異なった。


(なんだ?)


 舞うほどに、真っ暗な井戸の底へ飲みこまれるような感覚に襲われる。

 体が、芯から急速に熱を失っていく。


 すう、と真っ逆さまに落ちてゆく。

 外から見ればそれは美しい巫女の舞であったため、ハルの異常に気づいた者はいなかった。誰もが見惚れた。それが鎮めの巫女の舞だと疑わなかった。


 が、実のところ、ハルの動きは溺れまいともがく者のそれに変化していた。

 苦しい。

 気持ち悪い。

 おぞましい。

 見えない手で、喉を締めあげられる。息ができない。


(やめてくれ)


 息をしようと大きく口を開けるも、空気が入ってこない。ハルははくはくとあえぐ。

 厚くて重い膜はハルの全身にまとわりつき、もがけどもがけども沈んでいく。


 これでは溺れてしまう。


【――こらえずともよいぞ】


 声をともなわない、空気の振動が起きた。

 荒ぶる神が起きあがる気配がして、全身の肌という肌から冷たい汗が噴きだす。


【――身を任せてしまえ】


 瞬間。


 どん、と水穂宮に雷鳴がとどろいた。


 ハルの体が下からぐわり、と引っ張られ、舞殿に貼りつくように倒された。その髪が白銀を帯びる。

 風がハルの横っ面を殴りつけ、篝火の台が倒れる。ごう、と火が燃えあがり、舞殿の四方を囲む欄干らんかんに燃え移る。その向こう、大君のおわす正殿の御簾がはためいたかと思うと吹き飛ぶ。

 祈年祭の祭祀の場は、たちまち阿鼻叫喚あびきょうかんが飛び交った。


 誰かが大君に叫び、聴衆が悲鳴を上げ腕を額にかざして逃げ惑う。風が木々をなぎ倒し、舞殿の瓦屋根が軒並み吹き飛んだとき、滝のような雨が襲いかかった。

 悲鳴さえも豪雨にのみこまれる。


 雨がハルの顔を打ち、衣は濡れそぼった。

 目に雨が流れこみ、鼻の奥がつんとする。

 だが見えない力に頭を押さえつけられ、指一本伸ばすことも叶わない。


 閃光せんこうと同時に、どん、と轟音が響く。鳴物なりものを構えていた奏者も、輿の周りに控えていた神護りも逃げだす。しかし水穂宮の殿舎をも壊す風を前に、たちまちなぎ倒される。

 ハルの意識は、今まさに荒ぶる神に飲みこまれようとしていた。


 怒りも、不甲斐なさも、やりきれなさも、悔しさも。抱えた感情ごと。

 しかし、すぐそばで舞殿を支えていた四隅の柱が崩れ始めたのを見るにあたって、ハルはわれに返った。


(菫……!)


 倒壊間近の柱の下には、いまだ腰を抜かしたままの菫がいる。このままでは菫が柱の下敷きになる。ハルは暗い穴の底に引きずりこまれそうな意識をかき集め、菫のほうに這い進んだ。

 バキバキッ……と丹塗りの柱が根本から折れる。ハルは菫の衣に引っかけた指を渾身こんしんの力で引き寄せ、その上に覆い被さった。


 どん、と轟音が耳をつんざき、柱が目の前に迫る。

 瞬間。


「――ハル」


 喉を締めあげ、頭を押さえつけた見えざる気配がふっと弱まったのを、ハルは感じた。





 豪雨は絹糸のような雨に変わり、崩壊した宮を慰撫いぶするように明け方まで降り続いた。

 誰ひとり、その雨を恵みの雨だと思う者はいなかった。

 正面九間、奥行四間もの壮麗な、本瓦をいた、水穂宮の正殿は倒壊した。


 倒壊したのは、正殿だけではなかった。内裏だいりに数多ある殿舎も、官吏が勤める詰所も、無事ではなかった。いずれも屋根が吹き飛び壁は崩れ、床は水浸しになった。


 舞殿も、大門も、崩れ落ちた。


 巻きこまれた市中の民は、亡くなった者だけで百近くを数えた。軽傷の者も併せれば千はくだらない。

 とはいえ空前の雨嵐に襲われたにしては、被害が水穂宮とその周辺に留まったのは、まださいわいと言うべきであった。

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