五.
ハルは、がらんとした広い床にごろりと横になった。部屋は広く、だが誰もいない。曲島と大差なかった。まなうらに、これまでのできごとが浮かぶ。
今から思えば、由良との出会いも不自然だった。
「橘と名乗るから、ころりと騙されて……」
ハルは、他者の心に裏がある可能性にちらとも考えが及ばなかった。
他人がこうだと言えば、「こう」で、違うと言えば「違う」のが、ハルにとっての真実。常にそばにいた由良であればなおさら、その発言を疑うべくもなかった。
だが、名波の山越えも、裾野の村への逃亡も、さらには都までの途上も。
荒ぶる神によって追っ手が山崩れに巻きこまれたのを除けば、すんなりと事が運んだことこそが奇妙だと疑ってかかるべきだった。
怪我をしたところを匿われ、身を隠す手助けをされ、最初から疑おうとは思いもしなかった。
逃亡が成功したのは夫婦の偽装のおかげだと思いこみ、あまつさえ由良に都への同行を頼んだ。
神護りが隣にいるのだから、ほかの神護りが捕らえるまでもなかっただけなのに。由良がフユに巻いた組紐は、おそらく神護りの連絡手段だろう。
ハルは寝転んだまま左手を突きだした。手首に巻かれた組紐は、由良のものとよく似ている。
「くそ……っ」
ハルは組紐を引きちぎろうとし、寸前で思いとどまる。これは菫にもらった大事なもので、無関係だと言い聞かせる。
悔しい。腹立たしい。やりきれない。
ハルは突きだした拳を勢いよく床に叩きつけた。一度、二度。三度。締めきった襖戸の向こうで複数の神護りの気配を感じたが、入ってくる様子はない。四度、五度。
「くそ……っ!」
ハルが神依りだからだろう、捕まったとはいっても手荒な扱いはいっさいない。縛られてもいない。
だが、四方八方を神護りに囲まれている。
この先はもう、どこにも逃げ切れない。
また、ひとりになるのか。獣の気配だけが色濃い曲島の、手を伸ばしたところで届くわけもない空を見ながら、ひとりで生きるのか。
誰にも、ひとりの娘として扱われないまま。
「由良の目にも……私は映っておらんかったのだな」
釘を打ちつけられたような痛みが胸の奥深くを貫く。
ハルは振りおろした腕を力なく投げだすと、冷たい床の上で背中を丸めた。
祈年祭当日。日が暮れるころ、ハルはようやく外に連れだされた。
両脇を神護り二名に固められて建物から出る。
一年の豊凶を占う大事な祭祀だからか、神護りの屋敷内には至るところに篝火が焚かれ、黒漆の輿がハルを待ち受けていた。
装飾は四隅の金だけながら、ひと目で高貴な血筋の物が乗るものであるとわかる。
「主様には狭苦しいことと存じますが、宮に着くまでのご辛抱でございますれば」
宮とは水穂宮だろう。ハルは輿に押しこめられ、御簾が降ろされた。
浮遊感と同時に、輿が揺れる。輿が進むのに合わせて、ざっ、ざっ、と重々しい沓音がする。周りを神護りたちで固められているらしい。
ハルは御簾の隙間から由良の姿を探したが、見つけられなかった。
仰々しい行列に、屋敷の周囲が色めき立つ気配がする。
「百年を超える水穂国の歴史上、初めて主様が大君にお会いにいらしたものである。皆、道を空けよ」
鎮めの巫女が逃亡した事実はいまだ民に隠されている。神護りの口上は、ハルからすればふざけた話であった。
――どくり、と腹の底が熱をもってうごめいた。
ひと言でいえば、禍々《まがまが》しいなにか。
ハルはとっさに腹をきつく押さえる。どす黒い気の塊とでもいうものはそのあいだも膨らみ、喉をせり上がってくる。
輿は進む。
稀なる秘事をひと目見ようと、都じゅうの者があとをついてきていた。群衆の歓声と熱気が御簾越しに伝わってくる。
ハルを乗せた輿はとうとう大門をくぐり、央ツ道の突き当たりで止まった。
幅九間を誇る水穂宮正殿の真正面に広がる、白砂を敷きつめた祭庭である。
外から御簾を巻きあげられ、ハルは息をのんだ。
祭庭は、首をぐるりと左右に可能な限りめぐらせてやっと、端が見えるくらいの広大な場所であった。今しがたくぐった大門をふり返れば、その脇に官吏が定めた立ち見席があり、ひと目神事を見ようと、群衆があふれんばかりに詰めかけている。
空を見あげれば、どこにも欠けたところのない月が、この夜の行く末を判じるようなきっぱりとした明るさで、水穂宮を照らしていた。
ハルは輿を降りる。
民が詰めかけた後方と違い、ハルと正殿のあいだにひとの姿はない。
代わりに、そこには四方に柱を立て篝火を焚かれた、立派な舞殿が設置されていた。
周囲の白砂に篝火の朱が映りこんだ。火は春を迎える夜の風に煽られ、揺らいでいる。
視線を舞殿に戻せば、その向こうには舞殿よりもはるかに長く左右に延びた正殿がそびえる。正面の階の両脇にも篝火が赤々と燃えていた。
そしてその階の上、御簾越しに脇息に肘を置いて座す者の姿があった。
篝火に揺らめく影でしかその存在は捉えられない。しかし、誰に尋ねずともわかる。
「あれが、大君……」
血が熱を帯びて暴れる。
どこからか、す、と良峰が音もなくハルの前に進みでた。
「鎮めの巫女様。どうぞ舞われませ。楽の用意はございます」
それは神護りから初めてハル自身に向けた発言と見えてその実、荒ぶる神のためのものであった。
絶句するハルの前で、笛、箏、太鼓を持った神護りが、夜の帳が下りた宮の敷地を舞殿へと向かう。彼らは大君から見て後方、つまりは舞殿の手前に腰を落とし、楽を奏でるべく体勢をととのえた。
「私は舞わん。そなたらの言いなりにはならんわ。何度も言わせるな」
「では、代わりの者を舞わせましょう。……あの者を上げよ」
その声を合図に、白衣に朱色の袴――鎮めの巫女の装束を着た、ハルと歳のころの似た娘が舞殿に上がった。
遠目には、髪を切る前のハルと背格好が似ている。
「菫!?」
ハルの目の前で、菫がそろそろと舞殿の中央に進む。その顔に血の気はない。
「先日、鎮めの巫女様の逃亡を助けた罪で捕らえた娘です。殺すつもりでしたが、名波の山崩れで主様の示されたお怒りを鎮めるためにも、祈年祭を延期させてはならぬ、という大君の命が下りましたので、急きょ身代わりに立てました」
「お前たちは、大君をも騙すつもりか!」
「あの娘がここで舞えば、そうでしょう。ですが鎮めの巫女様が舞わないのであれば、いたしかたありません。主様をお鎮めしなければ」
良峰は淡々と続けた。冷え冷えとした視線が、舞殿の菫を射抜く。
「しかしあのように挙動不審では、大君には見抜かれるやもしれません。あの娘は断罪を免れない」
「そんなことをすれば、お前たちも同罪だ」
だから、と良峰が初めて眉を動かした。心外だと言わんばかりに。
「この場で、我々があの娘を断罪します。あの娘は偽物です。我々は主様をお護りしなければならない」
ハルは唐突に悟った。神護りは初めから、菫にすべての罪を着せるつもりでこの場に連れてきたのだ。
この筋書きなら、自分達が鎮めの巫女を取り逃した失態を隠せる。




