三.
顔が曇る。すると、その理由に気づいたかのように由良が先回りした。
「主様のなさることはひとの営みの外にある。お心など、はかりようがないよ。気にするだけ無駄だって」
それもそうかとハルは思い直した。今になって腹が鈍く痛む。肌には青あざができたかもしれない。
「とにかく、問題は祈年祭だな」
「都でも大々的な祭祀が執り行われるよ。遠坂家の当主が祝詞を捧げ、舞楽を奉納する。大君を曲島に上げるのが祈年祭の『本番』としたら、都での祭祀はその『前座』だね」
前座という言葉そのものの意味は判然としないが、つまりは都と曲島の祭祀の二段仕立てになっているということらしい。
「では、今年は前座だけを執り行うのか」
ハルの問いに由良は辺りの様子を探るように見回してから言った。
「名波の山崩れの件は、都にも届いていた。ここの民にも不吉な影を落としてる。神護りが主様の不興を買ったのではないか、というもっぱらの噂だよ。神護りはその噂を払拭したいはずだ」
自分たちの威信に関わることだから、と由良が声を落とす。
「ハルの逃亡で延期していた祈年祭を催すと決めたは、まず間違いなくその噂を払拭するためだろうね。主様と神護り――大君の関係は良好であり、大君は主様をよく鎮め祀っていると示すため、かな」
ハルはそこまで聞いて、嫌な予想にたどりついた。
「では主様が不在のまま、祈年祭をやるのか?」
「さあ、それはどうかな」
「待て、いつのまにそんな情報を仕入れたんだ?」
「耳を澄ましていれば、聞こえてくるものなんだって」
そうだろうか。けげんに思ったが、由良はひょうひょうと笑う。
「いずれにせよ、菫の父親に話を聞けるのはまだ先だ。その前に祈年祭について探ろう。ぴったりの場所がある」
明くる日、由良に連れられてハルがやってきたのは、小路と小路のあいだを埋め尽くす数え切れないほどの店、店、店――市であった。
「万人に開かれた買い物の場だよ。都に住む者もそうでない者も、ここに買いにくる。情報だって国じゅうから集まる」
由良の言うとおり、ハルの行く手には露台にあふれるほど売り物を置いた露店が左右にひしめく。布を張った庇が、風が吹くたびにはためく。
庇の下には店主と思われる者がおり、声を張り上げて商品の宣伝をする。立ち止まった客が商品の値段を尋ねれば、交渉の始まりだ。
商品は様々。素焼きの皿、椀、箸、壺、水瓶などの日用品、鍬、鋤といった農具。
米、アワ、ヒエ、大豆、小豆などはもちろんのこと、野菜や果物、干した魚といった食材に、酒、味噌、塩などといった調味料も並ぶ。
絹や麻の糸、紐、反物、帯といったものから櫛に鏡、玉飾りなどの高級品を扱う露店もあった。
目に飛びこむ品物のなんと多いことか。人々の活気あふれるやり取りも、目が回りそうである。ハルはしばらく立ち尽くした。
「夢か幻を見せられているようだ。あるいは術でもかけられた気分がする」
「放心するのは早いよ。ひともものも、これだけ集まれば情報だって集まる。けど、さしあたって要るものはある?」
なにが必要なのか、判断できない――と言いかけ、ハルは待てよ、と思い直した。
「刀がほしい。お前が貸してくれたものではなく、自分のが必要だ」
ハルたちはさっそく刀を扱う店に向かい、小刀を物色する。適度に持ち重りがして、ハルの手でも扱いやすいものがいい。
「奥方は威勢がいいね。狩りでもするんすか?」
「ああ。根こそぎ狩ろうと思ってな」
「おやおや、旦那の立つ瀬がなくなりそうっすね」
由良に見つくろってもらい、ハルは柄の部分に彫りの入った小刀を買い求めた。
祈年祭についても探りを入れる。店主は由良とおなじ年ごろの若い男で、都外の住まいから店を出しにきているらしい。
「祈年祭といや、去年までは都で祝詞と舞楽を奉納なさったあと、大君が供物を捧げに曲島へ向かいなさったが、今年は都だけで執り行われるらしいっすよ」
「やはり、山崩れで道が塞がったからか」
「違う違う。なんでも、今年は主様が大君の元に足を運ばれるらしいっすよ」
にわかには信じがたい情報に、ハルは由良と顔を見合わせた。神護りはあらかじめ、ハルが都に来ると予想しているということだろうか。そうだとしても、ハルが見つからなければ祈年祭を執り行うのは不可能ではないか。
神護りの意図がつかめずぽかんとするハルと反対に、由良が難しい顔で考えこむ。ハルが声をかけても顔を上げない。
ハルはしかたなく、隣の店も物色することにした。ひとりで考えていても、妙案は出ないだろう。それよりはほかにも情報を集めるべきだと思ったのだ。
ところが、ハルが豆類を扱う店先を覗いてまもなく。
「おい! 今、升を途中でこっそり取り替えたな?」
「なんだと? ガキ、言いがかりはやめて早く金を出しな!」
驚いて声のするほうを見れば、二軒向こうの米屋の店先で、諸肌を脱いで米を売る男と十三の成人を迎えるか迎えないかくらいの男児が言い争っている。
しかしここではもめ事など日常茶飯事なのか、周りの人間はちらとそちらを見ただけで、気に留めずに買い物を続ける。ハルはなんとなしに子に近づいた。
「でもおれ、見てたぞ! ほんのちょっと小さな升で量るなんて、インチキめ!」
大人相手にも怯まない。こましゃくれた物言いの子だ。その言いぶりから察するに、店主が米の量を実際よりも多く偽って売ろうとしたらしい。
「ガキ、これ以上難癖つけるんなら、どうなるかわかってんだろうな?」
店主が露台を回りこんで子の胸ぐらに伸びる直前、ハルはとっさに子を庇ってふたりのあいだに体をねじこんだ。
「ほう。大の大人が子に手を上げるのか。大人とは子を守るものだと思っていた」
「なんだお前! 邪魔すんじゃねえ!」
小袖の胸ぐらをつかまれ、ハルの体がわずかに宙に浮く。喉が圧迫され、息が苦しくなる。が、ハルは店主をまっすぐ見据えた。
「怒鳴る暇があったら、インチキでないことを証明したらどうだ? できないから怒鳴り声でごまかすのだろう」
「うるせえ!」
ハルの体がさらに浮く。突き飛ばされる、と覚悟する。
ところが、なぜかハルではなく店主のほうが突き飛ばされていた。店主の手が離れてその場に倒れこみそうになったハルを、うしろで支える者がいる。
由良だった。
「はいはい、そこまでね。俺の奥さんにこれ以上手を出したら怒るよ?」
ところが店主は、地面に倒れこんだのもつかのま、立ち上がって由良に向かってきた。
「ふざけんじゃねえ……!」
大男が殴りかかってくる。しかしその直前、由良は体を沈めると流れるような仕草で男の懐に入り足払いをかける。男がたたらを踏むと、すかさずその腕を捻りあげた。一瞬の出来事であった。
「痛っ、痛いっ、やめてくれ……!」
「ふざけてるのはどっち? このまま出るとこに出てもいいんだけど。お上の検品を通った升を使おうね?」
由良が涼しい顔で男の腕を放すと、男は無様に地面に転がった。辺りから拍手が起きる。
男はそそくさと店に戻ると、別の升で米を量った。一件落着、らしい。
「由良、助かった。強いなお前」
特段、大柄というわけでもないのに、無駄のない流れるような動きで相手をのしてしまった。身内を返り討ちにして帰ってきたときもそうだったが、ハルはまたしても感心する。
「姉ちゃん、ありがとな。兄ちゃんも、かっこよかっ……って、由良! やっぱり市にいたんだ。いつもと違う格好じゃん!」
駆け寄ってきた子が、由良を見あげて目を丸くする。親しそうな雰囲気があるのに、由良のほうはといえば気まずそうにする。
「あ……、豆か。また見つかったな」
「知り合いか? 由良」
「ってか由良、いつ結婚したんだ!?」
ハルと豆から同時に質問を浴びた由良は、参ったなと頭を掻いて豆が手にした麻袋を代わりに担いだ。




