十.
道すがら、太刀は扱いが難しいからと由良は小刀をハルに渡してくれた。さらには、基本的な扱いも教えてくれた。
「腕の力だけで振りかぶらない。舞を舞うのとおなじ、体の芯をしならせて――そう」
「できたか!?」
獲物に見立てた木に流れるように刃を立て、ハルは嬉々として由良をふり向いた。
「体の使いかたはだいぶよくなったよ」
目下のところハルが教わっているのは、相手を仕留めるのではなく身を守るための刀の扱いだ。だが防戦だけというのは面白くない。相手の呼吸を利用して、反撃する方法も教わりながら、小刀の扱いに慣れる。
由良自らが相手役となり、組手をとって筋肉の使いかたを体に染みこませることもある。骨格や筋肉のつきかたもあらかた覚えた。
「由良は武術の心得があるのか? 教えかたの筋がいい」
「お褒めに預かりどうも、偉そうだけど。ハルも呑みこみは早いほうだと思うよ」
「含みのある言いかたをする。ほんとうのところはどうなんだ」
「まあま、焦らないの」
山を登りながら、日中は由良と稽古に励む。
鹿や猪の気配を感じるたび、ハルは小刀を振るったが、素早さでは到底敵わない。逃げられて地団駄を踏むハルの前で、由良が仕留めた獲物を悠々とさばくことも少なくなかった。興味津々で覗くと、由良はさばきかたも教えてくれた。
「命をもらうという実感が得られるな」
生き物の腹を割くのは罪悪感を覚えつつも、新鮮であった。
「ハルは巫女様というより、深窓の姫君みたいだね」
「姫君とはなんだ?」
「貴人の娘だよ。姫君は狩りをしないし、たやすくひとに顔を見せない。屋敷の奥深くから滅多に出ないものなの」
「真逆だろう。私は外の世界のほうがよい。食い物も狩りをした分だけ食べられるではないか。じっとするのは好かん」
「ああそうだった。深窓の姫君は言い間違えたな。どっちかっていうと、暴れ馬ならぬ暴れ姫だね」
さばきかたが大雑把すぎるという指摘はされたが、火を熾すのはハルもお手の物だった。
ハルが火を熾し、由良がさばいた肉をその火で炙る。腹の虫が何度も鳴く。
「味噌をつけて食べてごらん。旨いよ」
由良の言うとおりにして食べれば、格別な味わいがした。フユもご満悦の様子。ハルよりも暴食なのではないかと思わされる。
本格的な春が近づいてきた山の中は、たらの芽やふきのとう、こごみなどといった山菜が瑞々しく顔を出しており、それらも同様にして食べる。いずれも頬がゆるむ美味しさだ。
由良が村で調達した餅も炙ればやわらかく伸び、口に含むとえも言われぬ恍惚が広がった。
「やはり、誰かと一緒に食べるのは楽しいものだな」
食材自体は、神饌のほうが贅沢であったと、島を出た今ならわかる。干し鮑を始めとした豊富な海鮮類、猪、鴨や雉の肉。それらは、村では見られない珍味であった。もっとも供物を献上される機会はひと月に一度だけであったが。
だが、今は粗末な食事でも満たされる。ハルは率先して食材を採り、フユと争うようにして腹に収めた。
しかしなんといっても、山越えにあたりもっとも活躍したのはフユだ。
フユは獣の気配を敏感に察知する上、耳をぴくりと震わせるだけで獲物の在処を知らせる。切り立った崖、脆くなった足場、狼の住処といった危険な場所も、フユが合図を送ればどれも事前に回避できた。
「みゃーあ!」
「偉いなフユ! よくやったよ。小豆食べる?」
「みゃう」
由良も惜しげもなく小豆でフユを称えると、フユは一心不乱に食べる。
「由良はフユに甘いな」
「フユは俺にけっこう厳しいけどね」
フユの危機察知能力は一級品で、いつしかハルたちは先頭をフユに任せるほどになった。
「こんな旅ならずっと続けていたいな、フユ」
追っ手さえなければなあ、と由良が欠伸しながら付け加え、フユを撫でる。フユが「みゃ!」と鳴く。愛らしい声がさらに愛らしくなったから、たぶん同意したのだろう。
与えられた供物を口にし、禊と舞が日課で、ただ漫然と日が沈むのを待つだけの日々。なにも知らなかった日々。
それが今はどうだろう、常に背に刃を突き立てられているような焦燥はある。先を手探りで進む不安もある。しかし。
「たしかに、存外心地よいな。お前たちと一緒にいると、目にする光景がどれも驚くほど色鮮やかに見える。ふしぎだ」
由良がハルを見、ふしぎにやわらかい目でまたたいた。
ややあってから苦笑する。
「ま、仮の平穏だってことを忘れないようにしないとね」
「そうだな」
だが、このまま……にわか夫婦のままで旅をする日々が少しでも長く続けばいいのに、とハルはひそかに願わずにはいられなかった。
川の源流に沿って足を動かし続けて三日、ようやくハルたちは頂上に辿りついた。
肩で息をして、開けた場所から春先に特有のくすんだ空を見あげるハルに、由良が「あっち」と別の方向を指さす。ハルもそちらに視線を転じた。
「なんだ?」
遠く遠く。
視線を地平に向ければ、眼下に太い道がいくつか走るのが見える。
少しのブレもなくまっすぐに延びる先を見れば、これまで目にした茅葺きの家とは趣の異なる建物が整然と並んでいる。
「あれが、都だよ」
広い。
それがハルの抱いた最初の感想だった。
山の上からでは家の構造まではわからないが、一軒一軒が村の家よりはるかに広そうで、しっかりした造りのようである。それが小豆を並べたかのように密集している。
道の広さも、大人が軽く三十人は横に並んで歩けるのではないか。
「真四角に整えられた外郭のいちばん手前を見て。鮮やかな丹塗りの門があるのがわかる?」
ここからでは石ころのようにしか見えないが、由良によればハルの背丈の三倍はあるらしい。大きさの想像がつかない。
その外郭門が、都への出入り口のひとつで外門というらしい。
外門を一歩入れば、手前に市井の民が暮らす区画が広がる。その奥には、大君に仕える貴族たちの屋敷が並ぶ区画。そしてまた門――大門という――があって、内側に大君のおわす広大な敷地を誇る水穂宮――という構造らしい。
神護りの一族である遠坂家の屋敷は大門のすぐそばだという。
山を下りれば、都も、神護りもいよいよそこだ。
「まずは、神護りも立ち入りを禁じられた場所とやらの情報だな。君代の言っていた親子を探す」
「そうだね。もしかすると眉唾の可能性もあるし」
「お前はどう思う?」
「さあね。そんな場所、曲島のほかには水穂宮くらいしか思い浮かばないけど。でもいきなり水穂宮に乗りこむわけにはいかないしね。ハルも目立たないように注意してよ」
ハルももちろんだとうなずく。
眼下の景色に飽きたのか、フユが一足先に頂上から降り始める。ハルたちもあとを追って歩みを進める。
(都に着いたら、逃走した鎮めの巫女の話がどこまで広まっているかも知らねばならんな)
神護りだけを警戒すればいいのか、それとも民草にも心を閉じなければならないのか。
情報を握るらしい親子を訪ねるにしても、このまま由良に夫として同行してもらうほうが好都合だが、さて。
ハルは先をいく由良の軽い足取りに目をやる。
(由良まで神護りの敵にさせるのは、本意ではないしな)
ここまではさいわい、神護りに見つからずに逃げのびている。とはいえ、この先は国じゅうに散らばる神護りの本家がいるのだ。
その規模は各州に在所する神護りとはわけが違うだろう。張り巡らされた監視の目も格段に厳しくなるだろう。さらには民がこの件を知っていたら――。
(なんだかんだ言っても、由良といるのは心地よかったのだがな)
しかしいつまでも連れまわすわけにはいかない。
どの時点で由良と別れるか、それが問題だった。




