九.
「そういえばお前、どこにいたんだ? 火消しにいったはずが、村のやつに聞いてもお前がどこに行ったか知らないと言われたぞ」
由良がフユを抱きあげて腕の中でその腹を撫でる。フユは嫌そうだったが、由良が離そうとしないので観念したようだった。
「おっと、獲物発見」
微妙に目を逸らされたと思うが、気のせいか。ハルは由良の目を追ったが、両側に野原の広がるだけの道にはなにもない。
「まあ待ってて。ちょいと仕留めてくる」
言うなり、由良はフユを連れて草むらを分け入ってしまった。
(どうもこう……考えが読めないな)
由良は、驚くほどひとの心の機微に聡く、かつ相手の心を解くのもうまい。ハルも何度となく由良のおかげで心を軽くしてもらっている。
だが一方で、巧妙に注意深く話題を変えられるときもあるのに、ハルは気づいていた。
ただそれがなぜなのか、考えても見当がつかない、そうこうするうちに由良たちは戻ってきた。
綺麗に結われていた由良の長い髪が、乱れている。
「お前はいったいなにをしてたんだ?」
「獲物を仕留めてきたんだって、なあフユ」
フユが一瞬だけハルを見あげると、一心不乱に「獲物」らしい鼠を貪る。どうやらフユは言ったとおりに食糧を調達したらしい。小豆ならハルも食べられたのにとちらと思う。
「そう言う由良は空手ではないか。失敗したのか?」
言いかけたハルは、由良の直垂の袖を見てぎょっとした。
「血が出てるではないか。なにがあったんだ」
「ああ、これ俺のじゃないよ。返り血」
由良がふっと笑って竹筒から水を飲む。いつもの、相手を脱力させる笑い。
しかしつかのまその笑みに影が差したのをハルは見逃さなかった。
「誰とやり合ったんだ? もしや神護りか?」
直截に尋ねる。変に遠慮して尋ねないでおくことをしないのが、ハルという娘であった。
ハルが由良を射抜くように見つめると、由良が竹筒に視線を落とした。
「心配しなくても、ただの身内だよ」
思いがけずこぼれ落ちたみたいな言葉。見れば、由良自身も自分に驚いた風である。
やはり、普段の由良と違う。ハルがさらに身を乗りだすと、由良がのけぞる。
よく見れば、袖だけでなく袴にも夥しい量の血がついている。相手は複数だったのかもしれない。
これが由良自身の血だったらと思うと、にわかに寒気が走った。藍色の直垂は血を目立たせないがゆえに、万が一、由良が怪我を負っても気づけないのではないか。
「私が心配したのは、相手が神護りかどうかではない。お前の傷だ」
ハルは由良を無理やり立たせ、ぐるりと回って血のついた箇所をたしかめる。
普段であれば軽口を叩くだろうに、由良はされるがままである。それもまた意外だった。
目の奥に疲れがひそむのも、それを軽口で隠さないのも珍しい。
「大した傷はないから、とりあえず早くここを離れよう。ハルが見つかるとまずいかな」
由良がさっさと先を行く。ハルもいったん質問をのみこんでフユを抱きあげると、由良に続いた。
あとで問いつめてやる、とひそかに心に決めつつ。
野原を縫うように続く細い道を、脇へ逸れる。由良の背中を追ってひたすら足を動かすと、いつしか、草木の丈が膝くらいから太ももくらいまでに変わっていた。
さらに足を進めれば、草木に埋もれそうな小さな祠が見つかる。木でできたそれは、屋根の色が風雨のせいで褪せていたが、誰かが頻繁に手を合わせにきているのか、こざっぱりとしている。
「主様を祀る祠だよ」
聞けば、祠は国じゅうにあるという。いずれも神護りが建てたもので、かつて荒ぶる神が曲島に移る前に祀ったものの名残らしい。
そのころは、荒ぶる神が各地で厄災をもたらすたびに、祠が建てられたのだという。荒ぶる神に鎮まってもらおうと懸命だったのだろう。
奇妙な感覚だった。ハルはここにいるのに、ハルと無関係の場所で、荒ぶる神に祈りを捧げるものがいるのだ。
一方、ハルが祠を前にしても、身の内の神気が反応する気配はない。
(この者たちよりも私のほうが、主様からずっと遠い。そもそも、私という存在はただの器。ないも同然なのだ)
苦いものが口に広がりかけ、ハルは目を閉じて由良の言葉を思い返す。
『「鎮めの巫女様」とも口にしなかったよ』
息を深く吸いこめば、あたたかな血の流れが戻ってくる。ハル自身にも、村の者との繋がりはあった。ハルは目を開け、祠を横目に見つつ進んだ。
草木はさらに丈を増し、ふたりは高木の密集する森に足を踏み入れる。
森の奥は、上分と下分の境となる山に続くという。木漏れ日がうっすらと足元を照らすなか、ハルたちは獣の足跡を辿るようにして奥へ進む。
「由良、休むぞ」
途中、せせらぎとおぼしき音を聞きつけ、ハルは由良をそちらに誘った。小川と呼ぶのも大げさなほどのごくわずかな水が、岩から岩へ染みだすようにして流れている。
岩のひとつに腰を下ろすと、ハルは改めて由良の体に傷がないか確認した。大した傷はないと本人が言ったとおり、由良自身の傷は一箇所だけだ。
左腕の袖口から覗く場所。中指ほどの長さの切り傷を見つけ、ハルは小袖の懐から薬の入った麻袋を取りだした。
「なぜ、ただの身内と斬り合ったんだ?」
団子状になったひとつを水で伸ばしながら、ハルは疑問を口にする。
「なんでだろうね?」
「のらりくらりとするのをやめろ」
ハルが苛立ちを声に乗せると、由良が溜めていた息を吐ききる風にして笑った。
「主様を宿してても、わからないことはあるんだ?」
「主様は、ただ私のなかに『おられる』だけで、手を貸してはくださらない。私は自力でお前の本心を読まねばならん」
「読む必要ないでしょ」
表面上は穏やかだが、その声はどこか冷ややかで、ハルは「ある」とむっとした。
「お前のおかげでほかの者の心に気づけたのに、肝心のお前をわかってやれないのは癪だ。お前が困っても弱っても、気づいてやれんではないか。私は村の娘ほど細やかではないが、気づけば対処もできる」
由良は返事をせず、水で伸ばした薬を練る。ハルはそれを横から指に取り、とろりとした液状になったものを由良の傷口に塗りたくる。
「っ、もう少し優しくしてくれる?」
「知るか。今も、私が見つけなければお前はこの傷の手当てもしなかったのだろう」
「……ハルって、実は情が深いね」
「情の浅い深いは知らんが、お前も君代も手当てしてくれたではないか。おなじだけのものを返したいだけだ。お前のほうがよほど情が深い」
「あはは。初めて言われたな。光栄だけど、俺のはまやかしだよ」
「まやかしとは、嘘だという意味か? 助けられたのは事実で、事実は変わらん」
由良がびっくりしたと言わんばかりに、目をぱちぱちとまばたく。
変なことを言っただろうか、とその様子を意外に思ったが、だからといって今回は引き下がるつもりはない。ハルは立て続けに質問を浴びせた。
「喧嘩にしては斬り合いは穏やかではないな? それとも、お前が悪さをして家を出たのか? お前の家はこの近くか?」
「悪さって、言いかた……くくっ」
ハルは思いきり薬を塗りこんでやった。由良が口元を歪める。
「笑うな。これでも真剣に考えたんだ。そりゃあ、私には込み入った事情は思いつかんが」
そもそも、思いつかないのは由良にはハルに本心を明かす気がないのが原因なのだ。
そう気づくや、胸の内がすうすうする。
ハルは由良の腕に古布を巻き終えると、その場に仁王立ちになって由良を見おろした。
「よし。由良、私にも太刀をくれ。もしも次が起きたら、私も加勢する」
都に着けば、由良とも別れなければならない。その先をひとりで切り抜けるためにも、武器は必要である。われながら名案だとハルは肩をそびやかす。
「え……なに言ってんの。加勢って、非が俺にあったらどうする気?」
「その場合は私が相手に取りなしてやる。なんなら書状を書いてもいい。読み書きも教えてくれ」
「……なにそれ」
由良の声にかすかに苛立ちめいたものがまじる。
しかし、その目は揺らいでいた。怯えにも似た、小さな揺らぎ。由良の心の奥には、なにがあるのだろう。
これまでひととの関わりがほとんどなかったハルには、相手の内心をその目から読み解くのは至難の業だった。そしてそのことが今はもどかしい。
「ハルこそ痛みはもうないんだ?」
「ん、ああ、無視すれば無視できる程度だ。もう、走っても問題ないだろう」
ハルは岩の上で片膝を立て、小袖をたくし上げると、あっけに取られた様子の由良に矢傷を見せた。皮膚が引き攣れたようになっているものの、傷の色そのものは薄い。薬のおかげだ。
「じゃ、もう加減しなくていいね。休憩終わり。さくさく行きますか。名波よりきつい山だけど覚悟して」
由良もまくっていた自分の袖を戻した。岩から腰を上げて、水の流れる源に向かって歩く。
またけむに巻かれたと気づいても遅い。由良は相当、手強い。いつかはその目の奥にひそむものについて、話してもらえるときがくるだろうか。
「太刀は? 戦いかたも教えてくれ」
「うーん。ま、めちゃくちゃに振り回されるよりは型を知ったほうがいいか」
由良がいいよと苦笑した。
「ハルには負けたよ」
由良のほうが一枚も二枚も上手だろう。肝心なことは話さなかったくせに、なにが負けた、だと思ったことは、言わずにおいた。




