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神依る巫女の反逆 水穂国事変  作者: 白瀬あお
二章 にわか夫婦の逃亡
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七.

 時間がなかったとはいえ、なぜ外の草むらで水を流さなかったのかと唇を噛む。男の足元まで染みだしてしまったらしい。水はハルの背にまで染みてきていた。


「それは、ここで寝起きすることともあるからで。子が腹にいると、些細ささいなことで苛々したり泣きたくなったりするんだ。そういうときは、家じゃなくてここで作業をするんだよ。あんたも奥さんの腹に子ができたら労ってやりな」

「心得ておこう」


 そのやりとりに胸を撫でおろしたのもつかのま、続いたひと言にハルは凍りついた。


「しかし藁の積みかたが雑ではないか?」


 神護りが言いながら藁に手をかける。ハルの心臓がぎゅっと縮んだ――が。

 外から別の声がして神護りが手を止めた。


「君代さーん、ハルが出発したってほんとう? 別れの挨拶くらいしたかっ……」

「ハル? 誰だそれは」


 神護りの声の温度が下がる。間がいいのか悪いのか。


「誰って、旅の途中で追いはぎに遭ったって言って村に」

「いやね、私の知り合いですよ。結婚したからって挨拶に寄ってくれたんだ」


 娘の言葉に被せるように君代がひと息に言うと、神護りの声に険しさがまじった。


「その女は、ここに泊まったんだな?」

「え? あ、そうですけど――」


 君代が「ちょっと!」と娘をたしなめたが遅かった。


「倉庫だと偽って女を泊めたことを隠したのか? 女はどこへ行った?」

「待ってくれ! なんだってあんたたちはハルを探してるんだい?」

「お前たちが知る必要はない。女はどこへ行った?」

「知らないよ! ほんとうだよ、あの子はなんにも言わずに行っちまったんだよ!」


 声を震わせた君代に舌打ちして男が出ていく。表で男たちの鋭い声の応酬が始まり、やがて静かになった。村を出たとされるハルの行方を追うのに違いない。


 この瞬間の危機は逃れられたが、この村に来たのが知られてしまった。ここからの逃亡はいよいよ難しくなると予想された。


「君代さん、ハルは……神護りの方々に追われているんでしょうか?」


 静けさの戻った薄暗い家の中で、娘がぽつりと呟いた。

 君代の返事はない。


 ハルは出ていくのをためらった。神護りもまだ遠くまでは行っていないだろう。村に残っている可能性もある。通報されればハルはひとたまりもない。


 しかしそのとき異変が起きた。

 どさりという物音が響いたのだ。


「君代さん? ……君代さんっ?」


 上ずった声が家の内を揺るがす。悲鳴が上がった。


「君代さん!?」

「君代!?」


 ハルも藁の中から飛びだした。 

 



 家の中はにわかに騒然とした。

 炉に火がかけられ、たちまち炎が赤々と燃え上がる。さながら真昼のように煌々《こうこう》と照らされたなか、女たちがひっきりなしに出入りする。


 男たちの運んできた水が鍋でぐらぐらと煮立つ。女たちは清潔な布をかき集められるだけかき集めてきた。君代は、敷き直した筵の上に横たえられた。

 緊迫した光景であった。


 君代は腹を押さえて呻き続ける。異常事態が起きたのは明らかだ。


「なあ、君代はどうしたんだ」


 慌ただしく動き回る女たちと反対に、ハルはその場に突っ立ったままおろおろした。


「お産が始まったのよ!」

「だが、たしかまだふた月は先だと聞いたぞ」

「だから大変なの、こんなに早く出てくるなんて! どうしよう、赤子も君代さんも……」

「縁起でもないこと言わないの!」


 年上の女に一喝いっかつされ、誰もがはっとしてまた動き回るなか、ハルだけがなにをすればよいのかわからなかった。


「あんたは邪魔だから、隅にいて!」


 とうとうそう言い放たれ、ハルは隅で片膝を立てて小さくなった。

 呻き声が止まない。


 それはやがて獣の咆哮ほうこうにも似た切実さを帯びた。額には玉のような汗が浮かんでいた。君代が歯を食いしばり、苦痛に満ちた表情で荒い息を繰り返す。


「頭が見えてきたよ! 君代さん、踏ん張って!」


 女たちが君代の背中をさすり、汗を拭い、必死に声をかける。

 しかし、君代の声がしだいに細くなった。ハルの目にも、君代が弱ってきているのが見て取れる。ひとりが悲鳴を上げると、女たちが次々に泣き叫びだす。


「主様……! お願いです、君代さんと赤ん坊を助けてくださいまし!」


 ひとりがひときわ蒼白な顔で叫んだ。


「主様! どうかお怒りをお納めください……お鎮まりください!」

「どうぞ、お恵みを……!」


 女たちが次々に叫び、その場で手を合わせて一心に祈る。君代の予定より早すぎる出産の無事を願う祈りがハルの胸に迫った。


 しかし、荒ぶる神がハルの内でうごめく気配はそよともしない。ハルが女たちと一緒になって、心の内に声をかけてもだ。

 聞いているのかいないのか、それすら定かではない。


(私はここで皆の声を聞いているのに、なにもできないのか!?)


「ひうぅ……っ」


 胃の奥から引き絞られた声が君代から洩れたとたん、ハルはたまらず家を飛びだした。

 一歩駆けるごとに、ふくらはぎの奥から傷みが走り抜ける。だが杖を忘れたのにすら気づかなかった。

 星が今にもこぼれ落ちそうな空の下を、ハルはひた走る。


 水田からは、かえるの鳴き声が大合唱になって響き渡った。しかしそのほかは、風の音さえ君代に遠慮するかのようにひっそりした夜。


 ハルは、村の中央の開けた場所まで来るとようやく足を止めた。そこは四方が一軒の家ほどの広さで、地面から一段分、土を盛り固めてある。村長が、村からの供物を神護りに献上する際に使用する場所だ。

 ハルはその上に立つと、中央で目を閉じた。


(主様!)


 ひと呼吸して小袖の裾をひるがえす。ハルは思い切り地面を蹴った。





 ひとつ、松明の明かりが視界の端に見えた。

 やがてもうひとつ。

 さらにひとつ。


 ハルが荒ぶる神に捧げる舞を踊り、内から湧きあがるものを押しだすようにして歌に乗せるたび、松明が増えた。気づいた村の者が集まってきたのである。


 高く伸びやかな歌声。それはよく聴けばひたすら君代と赤子の無事を求める祝詞のりとであった。

 ハルは、村人にも気づかずに舞い続けた。君代が無事に赤子を産むまで舞を止めるつもりはなかった。

 女たちの願いを荒ぶる神に届けるようにしてうたう。


 体の隅々、指の先まで祈りを行き渡らせる。


(主様! 頼む)


 自分が島から逃げだすときでさえ荒ぶる神にすがらなかったハルは、今初めて荒ぶる神に心からの祈りを捧げていた。


 自分が追われていることも、ここで神楽かぐらを披露すれば捕まるかもしれないことも頭になかった。


(君代と赤子の命を取りあげないでくれ。どうか怒りを鎮めてくれ!)


 松明の明かりに浮かび上がるハルの髪は、いつしか白銀に輝いていた。村人たちのどよめきは、ハルの耳に入らない。

 一心に舞を捧げ続ける。


 やがて、空が地平のほうから徐々にほの白くなってくる。


 とうとう、そのときがきた。


「君代さんの赤ん坊、産まれたって! ちいこいけど、ちゃんと産まれたよ! 君代さんも弱ってるけど大丈夫そうだよ!」


 華やいだ声が、夜明けの村に響き渡った。まるで、村に一足早い春が来たかのようだった。

 意識がふつりと切れ、ハルはその場に崩れ落ちかける。しかし、ハルの体は硬い腕によって抱き留められた。


「周りは皆、敵だと忠告したのに無茶するね。さっさとずらかるよ。……でも」


 ハルを支えた由良の足元を、フユがくるくると回る。金色の目が、畏怖いふと賞賛を宿して輝いた。


「普段、雑なくせにね。この世のものとは思えない、天上の舞だったな」


 まとわりついたフユが、みゃあ、と同意を示すように鳴いた。

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