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神依る巫女の反逆 水穂国事変  作者: 白瀬あお
一章 神依りの巫女
1/41

一.

 いつもは軽やかに、寸分の狂いなく着地するのに、今日は親指の幅ほどだけぶれてしまった。


 少女は顔をしかめ、足裏をたしかめる。ずれた着地点に転がっていたらしい、爪の先ほどの小石が足裏に貼りついている。身を屈めて取り除くと、腰に届く少女の黒髪が、春になる前の山を吹き抜ける風になびいた。


 昨日からずっと。違う、もっと前から。今日という日が近づくにつれ、心ここにあらずで、そわそわと落ち着かない。


「私も、まだまだだな」


 着地がぶれたのは、だからに違いない。舞には内心が如実に表れる。


 少女はきゅっと唇を噛み、意思の強さを思わせる目を空へと向けた。芯を通したように、すっと背筋が伸びる。

 舞う前は天頂にあった陽はいつのまにか水平線へ近づき、手を伸ばせば届きそうな低い位置にまで分厚い雲が垂れこめている。


「まだ早いが……濡れる前に山を下りるとしよう。今日だけは遅くなるわけにはいかん」


 晴れた日には潮の匂いが鼻をくすぐるが、今届くのはそれとは異なる濃い水の気配。

 雨が降る予感がする。地面がぬかるむ前に、山を下りなければ。


神護かみまもりは、今回も間違いなく来るだろうな?」


 これまで、雨だという理由で神護りが約ひと月に一度の務めを放棄したことは一度もない。しかし口にすると心配が膨れあがり、少女の喉元まで押し寄せる。


 いつもそうだ。神護りの訪問日が近づくたび、期待と不安にのみこまれそうになる。


「来るはずだ、そうだろう? しかし万が一、来なかったら……」


 少女はひとりごちると、今夜の食糧にと集めておいた木の実を麻布に包み、白衣を着た肩から提げた。朱色あけいろはかますそをさばき、足早に山の頂上をあとにする。


 舞を捧げる山と、神護りがやってくる島唯一の浜辺は、島の両端に位置する。


 山を下りるのにかかる時間は、およそ一刻弱。今からならば、雨が降らなければ薄い闇が空に被さるころには浜辺に着ける。

 鬱蒼とした獣道は少女の足に踏みならされ、今では、目をつむっていてもふもとまで下りるのはたやすい。気が急いても、少女の足取りに危うげなところはなかった。


 五年。


 少女はひとりで、荒ぶる神のいます島に住んでいる。


 ほかの者は、浜辺の奥へ足を踏み入れてはならない。それを外部に示すかのように、島の周囲は浜辺を除き、すべて切り立った崖に囲まれている。加えて周囲の海は海流が入り組み、船でたどり着くのはほぼ不可能といっていい。


 この島全体が、神域。

 だから少女はこの日を指折り待ちわびていた。


ぬし様。今日こそは私も、あの者たちと話がしたい。頼むから」


 腹の奥でもやともきりともつかないものがうごめく。主様――荒ぶる神の気配だ。


 肌をすりむいたときにその場所を熱く感じるのと同様に、体内の血がひりついた熱を帯びる。心臓の鼓動にも似た鼓動が腹の奥で起き、少女の胃のを叩く。しかしだくなのかなのか、少女には判別がつかない。


「頼む」


 少女がほかの人間に会える機会は、このときを置いてほかにない。たとえ相手が神護りでも。


 気が急くまま、少女は獣道を駆け下りた。雨が降るかもしれないという懸念は杞憂きゆうに終わり、浜辺へ出たころには、弓のような月が空に引っかかっていた。


 黒い海に、ほの白い糸のような道が浮かび上がる。白い砂の道は徐々に姿を現し、この島を地続きに沖へ繋げていく。


 少女は浜辺に仁王立ちになり、ぽっかりと暗い沖へ目をらす。まだか。まだか。

 やがて道が闇夜に溶けこむ境目に、ぽつりと黒子ほくろのような点が現れた。ふたつ。

 黒子はみるみる島に近づき、やがて少女の目にも、それらがひとの形をとって現れた。


 全身が黒く見えるのは、彼らのまとうほうも袴も薄墨うすずみ色だからである。腰帯に大刀たちいた、まるで武人のような出で立ち。


 神護りたちは島に上陸する手前で足を止め、少女に向かって深くこうべを垂れる。そのときにはもう、少女は指一本、動かすことができなかった。


「大いなる天神あまつかみの孫神であられますところの主様、これなるは神護りにございます。まこと水穂国みずほのくにたいらかにお鎮めくださり、深く御礼申し上げます。本日は、我々からの礼を捧げに参りました。心ばかりではありますが、ぜひともお納めください」


 少女は口を開かなかった。

 開こうにも、口は少女の意を汲むことをやめたかのごとく、ぴくりとも動かないのだ。


 まばたきすらできない少女の前で、神護りは馬から荷を下ろす。荒ぶる神に捧げる食事である神饌しんせんを、浜辺にしつらえた木の台に並べる。

 神饌の中身は御米、御神酒、御塩、干し魚におなじく干した肉、果物など。

 今回は神饌だけでなく夢心地を誘う手触りの布帛ふはくや、翡翠ひすい瑪瑙めのう珊瑚さんごなどでできたつややかなぎょく、繊細な草花が描かれた金銅細工などもあった。どれも、その年にできた最上級の品物。


「我らが尊き、しずめの巫女みこ様、どうぞ主様にお納めくださいませ」


 顔にはちらとも出なかったが、少女は心を弾ませた。神護りの捧げる肉や魚は、島での殺生を禁じられている少女にとって貴重な食糧である。

 これらは、少女が口にしてもかまわない。というより、少女に捧げられたものでもある。


【――受け取った】


 少女の口から、とうてい彼女のものとは思えない低い声が絞り出された。

 神護りが悲鳴をのみこみ、ひれ伏する。発せられる神気に当てられたのに違いなかった。

 彼らの額は砂にめりこまんばかりだった。肩も砂についた指先も震えている。こめかみには脂汗あぶらあせ


 そのあいだも、少女自身は身じろぎすらできない。


 少女の元に手足の自由が戻ったのは、神護りが来た道を引き返し始めてからだった。ぱちん、と指を鳴らすのに似た音がして、体が水面へ浮き上がったかのごとく視界が鮮明になる。


「待ってくれ!」


 少女は弾かれたように砂を蹴り、遠ざかる背中に向かって駆けだす。


「頼む、待ってくれ!」


 荒ぶる神が顕現けんげんしたあとは、ひどく体力を消耗する。少女の声はかすれて届かない。すぐに息が上がったが、それでも少女は走る。


(嫌だ。また取り残されてしまう!)


 月に一度だけ出現する道は、細い月の光の下で早くも端から消えつつある。

 袴の裾が、打ち寄せる波に濡れた。神護りはふり返らない。どころか明らかに先を急いでいた。

 神護りが来るたび、なんでもいいから話をしたいと願った。


 だが、叶えられたことはない。

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