第5話 どうやら、いろいろ問題発生のようです。
我ら西ノ宮高校には屋内プールが併設されている。
数多くの生徒が利用しており、今日は普段よりも暑いため人がいるかと思ったら、そうでもなかった。
というか誰もいない。
そんな更衣室。午前十時。
俺は一人でいる。
獅郎の野郎はドタキャンしやがった。
学校に着いた途端に、『わりぃ、どうしても外せない用事ができた。埋め合わせはピオネロでするから勘弁』と、スマホにメッセージが入った。
あいつには欲しい素材が出るまで、クエスト周回をしてもらうつもりだ。
獅郎がいないから帰ろうかと考えたのだが、今日は珍しく暑いし、ここまで来たからな、と思い単独でやってきた。
どうせ誰もいないし思う存分羽を伸ばせる。
屋内プールを利用するだけだが、一応学校所有のため、制服で登校しないとならない。制服をロッカーに詰める。替えの服を持ってきてよかった。背中が少し汗ばんでいるから。
時間をかけず学校指定の競泳水着に着替え、早速プールに向かう。ロッカーのある部屋を抜け、右手に個室のシャワールーム。左手にトイレ。最後に天井にシャワーが張り付いている通りを抜け、いざプールへ。
やはり誰もいなかった。
貸し切り状態はどこか浮き足立つものがある。
大体一時間ぐらい泳いだら帰るか。獅郎がいれば、会話しながらできるから長居出来るけど、いないからな。
……。
誰もいないし。
俺は思いっきりプールに飛び込んだ……!
「生温い……」
そうだとしても気持ちがいい。
とりあえず、50メートル泳ごう。
25メートルをクロールで泳ぐ。
こうして泳ぐのは久しぶりな気がする。中学の時は、学校指定の水着を購入したが、結局あまり使わなかった。主に体育館で行う種目を選択していた。
だけどこう泳いでみると、高校の体育の授業は水泳でもいい気がする。
残り25メートルは平泳ぎで泳ぎ切る。
「あ……」
50メートル。つまり、スタート地点である入り口に戻ってきたのだが。
水中から顔を上げると、花蓮がいた。
「あ、こんにちは…奏太」
「あ、ああ」
花蓮はやや目をそらしながら挨拶をした。
俺の返事もぎこちなくなった。
相変わらず今日も聖女様だ。スタイルがとても良いと、女子が話してたのを聞いたことがあったけど、まるでモデルみたいだ。
競泳水着の影響で身体の線が綺麗に出ており。出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。肌が白くて周囲がキラキラしている。
「一人ですか?」
花蓮が目を泳がせながら訊いてきた。
若干耳が赤い気がする。
男子相手に水着を見せる気恥ずかしさがあるのは、当たり前のことだ。見過ぎないようにしよう。
この状況、山本がいたら大喜びだな。
「まあな。本当は獅郎も来る予定だったんだが、ドタキャンしやがったんだ」
「私も同じです。美奈と来る予定だったのですが、急に来られなくなっちゃったみたいで。せっかく来たので泳ごうかな、と」
美奈は、俺の見る限り花蓮と仲がいい女子生徒だ。身長が低く童顔。花蓮が黒髪を肩口で揃えているのに対し、美奈は淡い栗色の長髪だ。見た目が、大人の真似をしているような子供なため、容姿のことを指摘するとめっちゃキレる。
俺と獅郎が小学生からの仲で、美奈は中学二年の時に知り合った。
「まったくもって俺と同じだ」
俺がため息を吐きながら獅郎に呆れていると、花蓮は苦笑した。
「二人揃ってついてないけど、プールは最高だよ。花蓮も入ったら?」
「そうですね。せっかく来たので、たくさん泳ぎます」
俺の隣に花蓮が滑り込む。
「気持ちいいですね。今日は暑かったので、ちょうどいいです」
「だな。急に暑くなったよな。……花蓮、25メートル勝負しないか?」
「クロールならいいですよ」
俺のいきなりの提案に、花蓮は快く承諾してくれる。
俺はゴーグルを装着しながら、
「スタートは、あのラップタイマーが60を指したらスタートだ」
「わかりました」
秒針は60秒まで残り20秒。
そこで花蓮は、ある提案をしてきた。
「もしこれで負けたら、相手の言うことをなんでも一つ聞くって、どうですか?」
「何でもって…いいのか?軽々しく男にそんなこと言って」
何でもなんて聞いたら、ほとんどの男子は変に妄想してしまう。しかも、聖女様からの提案となると余計に。
しかし俺の心配は、花蓮には通用しないようだった。
花蓮は得意げに笑った。
「大丈夫ですよ?クロールなら私早いですから」
「そこまでいうなら……俺も運動が得意だぞ?後悔するなよ」
ラップタイマーが60秒を指し示し、俺たちは同時にスタートした―――
―――負けた。完膚なきまでに負けた。
最初は並んで競っていたものが、彼我の距離はひらき負けた。
成績優秀なのはもちろん。運動も得意とは聞いていたけど、ここまでとは。
水泳部に所属すれば、上を目指せるのでは。
何気負けたことに悔しい俺に対し、花蓮は得意げに笑った。それは聖女様ではなく、歳相応の女の子の笑みだ。
「ふふーん。どうですか?私、速くないですか?」
「速い…速すぎ…」
上がった息を整えながら、花蓮を一瞥する。
鼻を高くし、意気揚々とする花蓮はすごい嬉しそうだ。
「それでは、奏太には私の言うことを聞いてもらいますね」
一体どんな願い事をするのか。
俺は勝つつもりで泳いだけど、それでも願い事をするつもりはなかった。何も考えず、泳いでいたのだが…こうして女子から頼み事をされると、ドキドキするものがある。
「あの、私に泳ぎ方を教えてくれませんか?」
「泳ぎ方……?」
俺は怪訝そうに首を傾げると、花蓮は困ったように微笑した。
「実はですね…クロール以外泳ぐことができなくて」
「そうだったのか?運動が得意って聞いてたから。てっきり」
「いいえ。みんなは体育の時の陸上の姿を見て、そう言ってますけど。水泳に関してはそこまで得意ではなくて。クロールは簡単に泳ぐことが出来たので、極めてみたのですが、それ以外はめっきり駄目でして」
「なるほど。だからあんなにも速いのか」
「駄目でしょうか?」
上目遣いで聞いてくる。
その様子はとても可愛らしく。幼い少女のようだった。
約束は約束。
一度した事は破るつもりない。
のだが、
「いいが、俺でいいのか?こういったのは、女の子同士のほうがいいのでは?」
「そんなことはありません。是非お願いしたいです……!」
花蓮は前のめりになりながら近寄ってきた。
ぐいっと接近する花蓮と見詰め合い、俺は視線を逸らして頷いた。
「俺でよければ、教えるよ」
「やった……!」
花蓮は実に嬉しそうに微笑んだ。
この時の花蓮の内心はというと、
『むしろ、奏太に教わりたいです」
『やった!大好きです。奏太……!」
こんな感じに考えていた。
俺はプールサイドに寄りながら言った。
「まずは平泳ぎからでいいよね。花蓮、ここのふちにつかまって」
「はい。こうでしょうか?」
花蓮はプールの側面、段差の一番下のふちにつかまり、俺を見つめた。
この後は?と視線で促してきた。
「そしたら、下半身の力を抜いて、腰を浮かせることはできるか?」
俺の指示に通りに、花蓮は動いてくれる。
ほどなくして、足を伸ばしきった姿勢のまま身体が浮かんできた。
「そう、そんな感じ。花蓮には感覚を掴んでもらいたい。……足触るぞ」
「は、はい……」
「足は俗に言うカエル足をするんだが。足の出し方はこうで……」
花蓮の足を触る。
それは細くて柔らかくて、水の中でも女性の肌の質感が感じられ、変に意識してしまう。
それのせいか、足を握る手に力がこもり、花蓮のふくらはぎを揉む形で足を前方に押し出してしまった。
「ひゃっ―――!」
「うわっ、びっくりした。ごめん、変なことしたか?」
驚きのあまり足から手を放すと、背を向けていた花蓮はこちらをジトーっと見てきた。頬が紅潮している。
「あの…ふくらはぎが弱いので、優しく触っていただけると…」
「そうだったのか…出来る限り軽く触れるよ」
「そうしていただけると、助かります」
水中なのに変に暑いし、汗かいてる気がする。
どうにか心を落ち着かせよう。
「足はこんな感じで……」
今度は握り締めないよう、優しく足を掴みカエル足を繰り返す。
花蓮は俺の教えをしっかりと聞いている。
そう。これは水泳を教えているだけだ。
だから変なことではない。
だけど、絵面的にはなんかエロい。
誰もいなくて本当に良かった。
こんな状況、しかも聖女様と二人っきりというのは、男子たちが見たら羨む光景。
背徳感みたいなものはあるけど、もう少し続いてほしい。
「足の感覚はなんとなくわかりました。なので、少し足を軸に泳ぎたいです。いいですか?」
「もちろん。だけど少し待って。今、ビート板持ってくるから」
俺はプールから出ると、倉庫の方へと向かう。
周囲を見渡す限り、ビート板らしきものはないから、この用具入れの中だろう。
そう推察して扉に手をかけたが、ガチャリと音が鳴るだけで、開くことはなかった。
「どうやら開かないみたいだ。ビート板なしでやるしかないけど、いいか?」
「その場合はどうすれば?」
「俺の手を握って泳ぐしかないけど…やっぱ嫌だよな」
「あ、全然ですよ。それで大丈夫です」
花蓮は微笑みながら了承してくれた。
これ以上過度な密着は、躊躇われると思ったが、そうでもないらしい。
ま、男の身である以上、ここで断られても傷つくものがあるけど。花蓮みたいな可愛い人に。特に、好きな人に言われるのは。
奏太がプールの中央まで向かう中、花蓮は一人緊張していた。
『さっきはびっくりしちゃったけど、まさか奏太と手をまた握れる日が来るなんて。えへへ。今日、私死んじゃうのかな』
花蓮はにやけきっていた。
奏太がこちらを振り向く前に、頬をつねりなんとか平常心を取り戻す。
俺は中央で振り向き、花蓮を見据え、両手を突き出した。
「ゆっくりで大丈夫だからな」
両の手のひらに花蓮は自分の手も重ねて、確かに優しく握ってきた。
花蓮は何だか嬉しそうだ。
「顔は水面から出して、足だけやってみて」
どうやらカエル足は完璧だな。
次は手の形と手と足を交互に動かすやり方を教えれば完璧かな。
運動神経がいいから、教えがいもあるしすぐに習得できるかもしれない。
「結構大変です」
「その調子だ。いい感じ」
あの時、花蓮が他校生徒に絡まれているのを助けて良かったと、今は心の底から思える。
こうして、好きな人の手を握ることが出来るほどに、また仲良くなれたのだから。
「どうしたのですか?ニヤニヤして」
「いや何でもない。花蓮が頑張ってて俺も嬉しくなってさ」
俺は誤魔化すように微笑んだ。
あれから二時間後の正午。
「見てください、奏太!平泳ぎが出来ました!」
思ったよりも時間はかかってしまったが、花蓮が嬉しそうに泳いでいるので、手間をかけた甲斐がある。
当初は一時間で帰宅予定だったけど、もう少しここに残ろう。花蓮と一緒にいたいと思ったからだ。
「俺は飲み物飲んでくるから、待っててくれ」
「わかりました……!」
一人更衣室に戻っていき、ロッカーからお茶を取り出して喉を潤す。
バッグからスマホを取り出して見た。
その後、獅郎から連絡はきていない。
そういえば、美奈がドタキャンするのは珍しいことだ。何かあったのだろうか。
いや、考えるのはよそう。嫌な予感がする。
もう戻ろうとロッカーに私物をしまった時だった。
「あの…奏太?」
扉の向こう側、奥のシャワーから花蓮が恐る恐るといった感じに、可愛らしく顔を覗かせていた。
「誰かそこにいますか?」
「誰もいないが?」
周囲には誰もいない。
だけどもし学校関係者に聞かれたらまずい気がするんだが。
花蓮はちょこちょこ寄ってきた。
「どうしたんだ?というか、ここ男子更衣室だぞ。誰かきたらまずいと思うんだが」
「あ、すみません。迂闊でした。プールが開放されてから随分時間が経っているので、気が緩んでました」
花蓮は反省するように項垂れた。
「ごめん。別に責めてるわけじゃ…」
そこで、花蓮が何かを持ってることに気づく。
「これですか?奏太に作ったんです。受け取ってくれませんか?」
可愛らしくラッピングされたクッキーだった。
「…!いいのか?」
「はい、奏太のために作りましたから。是非受け取ってください」
愛でたくなるような笑みとドキッとするような台詞とともに、おいしそうなクッキーを貰った。
クッキーをロッカーに置きながら、
「でもどうしてだ?まさか、他校生の件でのお礼か?別にあれぐらい…」
と、その時だった。
「何でプールがあることに気づかなかったんだろうな!俺たち」
「マジでそれな」
外から男子と思われる大声が耳朶に届いた。
俺たちは同時にギョッとする。
人が来た…!
「か、花蓮戻ろう…!」
「そそ、そうですね…!」
急いで出口に向かう。
のだが、
「今日は、暑いね~。学校に屋内プールあって、助かったよ」
出口からはそんな女子生徒の声が響いてきた。
俺が前に出て、出口を確認すると、数人の女子生徒の影があった。
これ詰んだぞ。
「どど、どうしましょ。奏太!」
「やばいなこれ。早く出ないと男子が来る…!」
出口の女子はなかなかいなくならないし、それどころか増えてきている。
今まで寒かったものが突然と気温が上がり、忘れていたプールの存在に気がついて、生徒がたくさん来たとでも言うのか。
考えてる暇はない。
「人が退くまで、シャワールームに隠れよう」
「わかりました。そうしましょう」
二人で一目散にシャワー室に向かい、個室に入った。
ギリギリのところで男子更衣室の扉が開き、男子生徒が出てきた。
「早く行こうぜ」
「俺、汗ばんでるから。シャワー室で念入りに洗って行く。女子も来てるみたいだし」
人の気配が近づいてきている。
狭い個室のシャワー室。花蓮が抱きついてきた。
どうしてこうなった。
「もう少し詰めることは可能ですか……!」
生暖かで艶かしい吐息が、俺の背中を撫でた。
「いや、無理だ。一人用のシャワールームは流石に無理がある。というか、もう少し下がれないか?」
花蓮の胸が当たって、もうこっちはいろいろとヤバイんだ!
「こっちも無理です!」
花蓮は俺に抱きつきながら、小声でそんなことを言ってきた。
「そもそも何で同じ所に入ってきたんだ。個室はまだあったろ……!」
俺の必死な問いかけに、花蓮もまた焦りながら返してきた。
「別の個室に入って、男子に話しかけられたらどうするのですか?私、この日を境に痴女扱いされてしまいます!」
「だからって、これもこれでまずいだろ!見つかったら、社会的に死ぬぞ!」
「現に、隣の個室に人が入りました…!」
水着姿の男女が抱き合ってる姿なんて見られたら最後、学校中のみんなから白い目で見られる。
「わ、私だって恥ずかしいんですよ…!」
「そもそもなぜ、男子更衣室に入ってきた」
花蓮はギュッと抱きつきながら、
「先ほども言ったように、お礼を言いたくてですね」
「お礼はいいと言ったろ!前にも言ったんだし」
「それはそうですけど。気分の問題といいますか……」
花蓮は頬を紅くして、目を逸らした。
俺は俺で、緊張で息苦しくてしょうがない。
早く離れないと窒息しそう。
「不毛な争いはよそう。問題はここからどう脱出するかだ。見つからないで出るには至難の業だぞ」
「私もそう思います。人の気配が増えてきてますから」
「何かいい案はないか?」
「そうですね…」
二人で小声でやりとりをする。
何か方法はないだろうか。
「一番いい案としては、外にいる人達がいなくなるまで待つことです」
「ああ。だけど、長時間ここで待機しなくてはならない。その場合、怪しまれてここの扉を強制的に解錠されてしまう可能性がある」
「そうですね……」
できるだけ早く脱出してしまいたい。
花蓮が外に出る、もしくは女子更衣室に戻る方法を考えないとならないし、簡単にはいかないだろう。
「一つ案が浮かびました。…私が奏太の服を着るのはどうでしょう?」
「……」
俺は口を開けて固まった。
「何ですか?その顔は」
「こんな非常時に何を言っているんだ。見かけによらず、スケベなのか…?」
「違いますよ!」
奏太の見当外れな回答に、思わず花蓮は大声を出してしまった。
「なんか今、女子の声が聞こえなかった?」
「いやー?」
「気のせいかな?」
隣の個室からそんな声が聞こえてきた。
俺は口もとに人差し指を当てる。
花蓮は説明を始めた。
「私が上手く男装して、更衣室から撤退しようと考えたんです。なので、変態発言したわけじゃないんです」
なるほど。いい案ではあるかもしれない。長時間待機は最終案だとして、変装というのは上手くカバーすれば、誰かに素性がバレる可能性は大きく下がる。
俺はある程度の道筋を立てる。
しかし、
「服は余分にありますか?」
「制服と替えの服はある。だけど、どこで着替えるつもりなんだ?更衣室は人がいる。個室の着替え室はあるけど、カーテンだから隙間からバレる可能性を含んでるぞ?」
俺の指摘に、花蓮が気づいていないはずもない。
案を考えた本人は、見るからに顔を赤くして、
「えっと…一緒に着替えるしか方法は……」
「………」
またも開いた口が塞がらない。
「また、なんですか。その顔は…」
「聖女なんて呼ばれてますけど、まさかど淫乱?」
「ちち、違いますよ!」
花蓮はまたも声を上げた。
怒るたびに抱きつく手に力を込めるのはやめてほしい。胸が当たってるから!
「なー、やっぱ聞こえるよ」
「お前、幽霊でも見えるんじゃね?」
しーっ!静かに、花蓮。
焦る俺に、花蓮もコクリと頷く。
「なら俺は更衣室で制服に着替える。その後、俺の替えの服を持ってくるから。花蓮はここで着替えればいい」
「制服姿でシャワールームをうろつくのは、逆に怪しい気がします。それに個室の前で立っているのは、それも怪しいですし、個室の着替え室に移動するのにもリスクが高いです」
万事休す、か。
緊張のせいでいい案が浮かばない。
視線を彷徨わせ、歯噛みをする思いだった。
「本当にいいのか?その、個室で異性と裸の状態になるんだぞ?状況が状況でも、嫌だろ。そんなの」
「奏太が言うように、状況が状況です。こんな姿を誰かに見られるほうが、死に近しいです。それならまだ奏太個人のほうがいいです。それに、奏太を信用してますから」
花蓮の顔を見なくてもわかる。
彼女は、輝きに満ちた瞳で微笑みながら俺を見ている。花蓮の温もりがしっかりと伝わってきた。
どうしてここまで信用してくれるんだ。
「そこまで言うなら。花蓮、ちょっと場所を交換してくれ」
「わかりました」
のそのそと、現在の位置から反転して俺が扉側に立つように変わる。
「俺の影に隠れてくれ。外に誰かいるか確認して、いなかったら、荷物を取りに行ってくる。扉には鍵を閉めておいて」
花蓮は無言で頷いた。
「取りに戻ったら、ノックするから。アナ雪みたいな感じに」
普通のノックでは、別の人が来たときにも開けかねない。
コクコクと花蓮は頷いた。
その様子を少しに、俺はゆっくりと扉の外を確認した。
よし、誰もいない。
外に滑りぬけるように出る。
五個ある個室のうち花蓮のを含め、四つ埋まっていた。もし誰か来たとしても時間は稼げるな。
俺は周囲に怪しまれない程度に、足早にロッカーへ向かい、荷物を全て取り出した。
続々と人が増えている。やっかいな。
脇目をふらず、ばれない程度にシャワールームへ。
―――トン。トットットン。トン。
「雪だるま作ろう~」
隣の個室からそんな声が。
やかましい!
恐る恐る開いた扉に、身を滑り込ませる。
「このタオル使ってくれ。それと、こっちの服も」
「ありがとうございます…」
花蓮の声がくぐもっている。
こんな状況、緊張しないほうがおかしい。
獅郎との日常の中で心臓は鍛えられていると思っていたけど、どうやらそうでもないらしい。こういったことには、心臓が警鐘を鳴らしている。
「俺はあっちむいてるから。焦んなくていいからな」
「はい……」
制服を下に置く。床が濡れてなくて助かった。
「んっ…脱げない…」
花蓮の艶かしい声が背後で聞こえる。
ここで変に妄想してはいけない。
花蓮が肩の紐に手をかけて、ゆっくりと身体の一部一部が露わになっている所など、想像してはいけない。
俺は俺で、壁に接するように着替える。
「………!」
「す、すみません。足が滑りました」
今右手に、ものすごく柔らかいものが当たったのだが。
一体どこの部位が接触したのか、知りたいけど、我慢しよう。
ムンムンとした状態で着替えを進めていく。
もう今の俺は、物事を顧みることなど出来ないだろう。
常軌を逸したこの事態から早く抜け出さねばならない。
「着替え終わったか?」
「はい、終わりました」
振り返ると、俺の持ってきた、白のパーカーと黒のスキニーを着用した花蓮が屹立している。
全体的にぶかぶかしている。
女子が自分の服を着ているのは、なんとも心がくすぐったい。
速まる鼓動の音には聞き耳を立てずに、
「着替え中、身体がぶつかってすみません」
「俺もぶつかったし、気にするな。…あと、このベルト使ってくれ。それじゃ、動きにくいと思うから」
制服のベルトを花蓮に渡す。
着用を見届けると、パーカーのフードに俺は手を伸ばした。
「深々と被ってくれ。これから出るけど、きっと視線が集まるから下を向いててくれると助かる」
俺は花蓮の手を握った。
「しっかりと掴まってくれ」
「わわ、わかりました……!」
出遅れると大変だからな。
扉を少し開け、周囲を窺う。
誰もいないな。
更衣室に向かうとまばらに人がいて、それぞれが着替えに集中しており、入り口から出てきた俺たちの存在には見向きもしていない。
急いで出口に向かう。
「お、奏太じゃん。お前も来てたのか。もう帰るのか?」
出口付近のロッカーで、同じクラスの林に声をかけられる。
俺は咄嗟に花蓮を出口に押しやった。
「ああ。今日はいとこを連れてきてたんだ。もう充分遊んだから帰るよ。じゃあな」
「そうか。また明日な」
林を尻目に頷き、帰路を急いだ。
もう少しだ。
下駄箱から靴を取り出し。
もう少し。もう少しで出口だ。
「おっ!ひらいっちじゃん。こんにち~」
「こんにちわ」
後もう少しだったのに!
よりにもよって、ちょっとギャルっぽい三上と感情希薄な那戸が現われた。
めんどうな。
「ああ…」
「ん?どうしたん?顔色悪いけど」
「いや、全然大丈夫だ」
「後ろの子はどなたですか?」
三上と俺が攻防していると、那戸が早速禁忌に触れてきた。
花蓮は素性がばれまいと、俺の背後に隠れた。
「きゃー何この子!?可愛い!」
「友達の方ですか?」
「俺のいとこだ。人見知りなところがあるから、あまり構わないでくれると助かる」
「えー。反応がちょー可愛いんですけど」
「りな。行きましょう。いとこさんも困ってます」
「仕方ないなぁ。ひらいっち。今度、ぜぇーったい紹介してね」
「機会があったらな」
那戸のおかげで、問題の三上と共に引き下がって行った。
「助かりました…」
花蓮が安堵する。
だが学校の敷地内から出るまで油断はならない状態だ。
駅の裏側。南口から出たところにて。
「今日は本当に疲れたな。いろいろ起きすぎた……」
「本当にそうですね。いろいろとありました……」
二人の視線が一度交差する。
次の瞬間には、お互いの頬が紅潮した。
一気にシャワールームでの出来事が、自身の脳内を巡る。
それは花蓮もだったのだろう。耳が真っ赤だ。
俺は頭を切り替えるように、口を開いた。
「その服、後で返してもらえればいいからな。花蓮は荷物を取りに学校にもう一度戻らないとならないだろ?」
「確かにそうですね。そうさせていただきます」
しばしの沈黙が流れ、花蓮がふと何かに気がついたように話した。
「そういえばここまで着いてきても大丈夫なのですか?確か電車通だとか…?」
俺は首を横に振り、自分の住むマンションを指差した。
「実はあのマンションに引っ越したんだ」
「え……」
「どうしたんだ?変な顔して」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
花蓮は誤魔化すように苦笑すると、
「あそこのマンションに、私も住んでいるんです」
「え……」
今度は俺が面食らう番だった。
「凄い偶然です。こんな事ってあるんですね……!」
花蓮は感激するように微笑んだ。
今日は本当にいろいろな事が起きた。
今まで経験したことのない内容で、でも、悪い気は全然しない。
青春ってものをしているような気がする。
「早く行きましょう……!」
今日は花蓮に振り回されている気がする。
花蓮は俺の手を握り自室のあるマンションに駆け出した。
なぜ花蓮はこうも嬉しそうなのか?
どうして俺に絶大な信頼を抱いているのか?
普通、男子と密室で着替えなんてしたら、冷え切った目で、『あんなことはありませんでした。いいですね?』みたいな感じで記憶から削除するものでは?
「……」
確か恋は人を盲目にすると聞く。
もしかしたら。もしかすると花蓮は……
「どうしたんですか?ニヤニヤして?」
「いやなんでもない」
どうやら、花蓮は俺の隣人さんのようだ。