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片隅

終電

作者: 酒月沢 杏

別作品、「始発」と対になっているのでそちらも読んでいただけると嬉しいです。

「お疲れ様です」


俺は最後の人間を送り出してパソコンに向き合い、ため息をついた。


しばらくして自分のデスクの列以外の電気が消え世界から俺だけが切り取られたような錯覚になる。


誰もいなくなったことをしっかりと確認した後、ゆっくりと声を漏らしながら長時間のデスクワークで固まった体を伸ばした。


「・・・コーヒーでも淹れるか」


数時間ぶりに立ち上がり、少し先の給湯室で自分のためだけのコーヒーを淹れる。


ここはいつも会社の女性方が占領していて俺のような平社員には使うことができない。


だが、一人会社に残る日なんかは話が別だ。


誰も咎めることはないし、荒らしたり茶菓子に手を出さなければ次の日も基本何も言われることはない。


そんな肩身の狭い思いをしながら淹れるコーヒーは一層苦く感じる。


でも、それが目を覚ますにはちょうどよかった。


一息ついて手に入れた僅かな生気を燃料に俺は残された仕事を消費する。


少し経ち、やがて横に積んであった会計書類の山が消えた。


ひどく乾いた眼球を何度かの瞬きで潤し、目頭をつまんで労わってやる。


もう一度、今度は帰るための伸びをして身体に起動命令をかけた。


ショボショボとする目に鞭を打って時計を見ると、なんと十一時を過ぎようとしていた。


まずい。


そんな言葉が俺の頭を高速で過ぎり意識を思い切り覚醒させる。


なんと、この街の終電は十二時十四分の普通列車だ。


俺は慌てて身支度を整え、嫌がらせに切らなかったタイムカードを切って電気を消し、戸締りをして会社を飛び出した。


走りはしないがそれなりの速さで歩いた。


このスピードならなんとか終電には間に合うだろう。


少しだけ寒くなった街を、ぎらぎらと光る看板を、横目に流しながら俺は帰路を急ぐ。


・・・学生の頃ならば、俺はこんな風景だけでも胸を躍らせられただろうか。


夜の街とは彼ら健全で一般的な学生にとって未知の場所だった。


終電近くならなおのこと、そこまで街に残る人間なんて俺のような残業人間以外はそういないだろう。


なんとか駅へと辿り着き、電子マネーカードで改札をパスして少なくなった四番ホームで電光板を見た。


本当にギリギリ、あと一本だった。


結局終電になってしまったと、軽くため息をつく。


電車を待つ間、少しだけ口元が寂しくなってくる。


おしゃぶりでもあればおとなしくなるのかもしれないが生憎立派な社会人なのでそんなものに頼ることはできない。


俺は目についた自販機で缶コーヒーを買った。


開くとカシュッという音と何とも言えない、少し安っぽいコーヒーの香りが広がった。


それをちびちびと口に運び込み肌寒さと口の寂しさを紛らわした。


そんな哀愁が漂う駅のホームに最後の電車が来た。


悲しく、レールと車輪が擦れる音が響いている。


そういえば、哀愁列車という歌があった気がする。俺が生まれる前の曲だったか・・・


などとくだらないことを思い浮かべている間に車両はホームの線を完璧に合わせて止まり、ため息のような音とともにその扉を開いた。


乗り込むと、本当に伽藍洞な車両内だけが広がっていた。


びっくりだ。久々に乗ったが、前はもう何人か人がいたような気がする。


俺は疲れているのにもかかわらず、なんだか自然と反対側の扉の横に立った。


なぜって聞かれてもわからない。ただ何となくで、本当に気まぐれだった。


電車が動き出し、フラフラと身体が揺れる。


ふと、外の方を眺めた。


白いビルの光と、ベタ塗りのネオンが街を彩る。まだまだ寝る気はないと、都会は輝く。


なんだかそれが死ぬほど眩しくて目を細めた。


それを拍子にして自分の顔が車窓に映った。


深い隈、深淵のような瞳、窶れて白くなった顔。


その姿はまさに幽霊だった。


どうしてだか、その姿を見て俺は過去に思いをはせた。


学生時代の自分がふと車窓に映る。


友人と遊び、将来の希望なんてなかったけれど、毎日が物語の一ページとして相応しい。


ただただ優しい夢に浸ろうとする自分を冷や水をかけるように淀んだ眼が俺を見つめた。


「なんだよ、こっち見んなよ」


どこか懇願するような、いや、嫌悪も含む、そんな言葉が漏れた。


そんな俺を乗せた電車は空気一つ読めずに揺れる。


完璧な沈黙は訪れることはなく、ビルの光が少なくなって窓の外が黒に染まっていく中でも揺れと音は収まらない。


「とても、ひどい顔をしていますね」


後ろから投げかけられた言葉に、俺は振り向く。


そこに、セーラー服に身を包んだ女学生の姿があるだなんて夢にも思わなかった。


黒く染まった窓に映っていたはずなのに、全く気付かなかった。


「・・・いつのまに」


意味の分からない言葉を発してしまい、少し恥ずかしくなる。


彼女は笑って「さっきの駅で乗ったんですよ」と言った。


そりゃそうかと笑って誤魔化す。笑えてる気はしないが。


「あの、とても辛そうな顔をしてます。仕事帰りなんですね」


「そうだね。こんな時間まで残業で、終電に乗って誰もいない家へ帰る。辛くないって言ったら、確実に嘘になってしまうよ」


「座らないんですか}


「なんだかね、外を眺めていたくて、立って外を眺めていたんだ」


「真っ黒ですけど、何が見えます?」


「・・・幽霊」


俺の言葉に彼女はおかしそうに笑った。だが、事実だ。正体は俺だが


「そうですか、幽霊・・・確かに、こんな時間に電車なら出てもおかしくないですね」


「そうだろう?、とても暗い顔をして、周囲に呪いを振りまくような、そんな悪霊がいるんだ」


「本当に悪霊ですかね」


「わかんないけど、見た目はまんまだったかな」


車窓越しに彼女の顔を見ながら喋る。


なんとなく、彼女と顔を合わせて喋るのは恥ずかしかった。


「お兄さん、幽霊っていると思いますか?」


唐突にそんなことを聞いてくる。本当になんの脈絡もない。


「いると思えばいるんじゃないかな。ただ、人あっての幽霊ってだけで」


「意外です。信じてないと思ってました」


彼女はポニーテールを少し嬉しげに揺らして笑いながら言う。


そんな彼女の行動に俺は心の中で首を傾げるが、いくら考えたところで答えは出ないだろうと、思考をそこで切った。


「君は、いると思うか?、幽霊」


「いますよ」


妙に強く断言されてしまった。


「それは、どうして?」


「それがわかる環境に身を置いているから・・・ですかね」


帰ってきた理由はほんの少しだけ弱くなって返ってくる。


彼女が何を考えているのかいよいよわからなくなってきた。


ふと彼女は顔をこちらの方から逸らし横を見た。


つられそうにもなったが、それ以上に彼女の横顔に魅入る。


儚げで青白い整った顔は、まるで絵の中の少女だった。セーラー服が映える。


そんな二人の空間を電車の揺れる音だけが支配していた。


「お兄さん」


少し経って、会話の沈黙を破ったのは少女の方だった。


「・・・どうした」


我ながら随分無愛想な声が漏れた。


彼女はこちらを見ずに続ける。


「お兄さんは、死にたいと思うことってどれくらいありました?」


「・・・本気で思ったことは少ないかな。ないかと言えば否定はできないけど」


数秒の迷いの末、本音を言う。


軽く過去のそう言う記憶を指折り数えてみたが、言うほど多くはなかった。


「私は、いっぱいあります。それはもう、祈りに近いくらい」


「祈り・・・」


「はい、祈りです。神様に私を殺してくださいとお願いするんです」


そう話す言葉の端々は、内容とは合わずどこか明る気だ。


そんな彼女のを姿に、俺は既視感を何度も覚える。


「大丈夫、大丈夫って自分に言い聞かせてるんですけど、やっぱりそれってキツイんですよね」


俺は言葉が出ず黙り込む。


「大人に近づくたびに、言い訳と逃げ方が上手くなる、そんな気がしませんか?」


笑顔が陰り、少しずつ声が落ちる。


泣きそうな、悲痛な声でポツポツと呟いた。


「私は・・・私はこの街に溶けたいんです」


彼女は窓の外にある燦然と輝く街を見下ろして、涙を零した。


この時はじめて、彼女の顔をしっかりと見つめた。


その今にも壊れてしまいそうな、そんな少女に、俺は同情をしてしまう。


嫌でも、彼女の言葉一つひとつに胸が共鳴する。


気がつけば彼女を胸に抱いていた。


傍から見たら完全に犯罪だろうが、今の俺にそんな考えはまわってこない。


彼女はびっくりしたのか身体を強張らせたがすぐに力が抜けて腰に手が回ってきた。


「失ったものが多すぎたから、こんなに辛いのかな」


俺は縋るように口を開く。


それは俺のことでも、彼女のことでもある。


「大人になるとは、そういうことなんだと思います。だから、お兄さんは立派な大人になれたんですよ」


「全然、嬉しくないな。こんなのほしくなかった」


「それでも、生きるために必要なんです。私たちは受け入れるしかないんです」


最後の、目的の駅を目指す中で、俺たちは誰もいない車両の中で呼吸を合わせていく。


外にあったネオンも燦然と輝く白もやがて消え、世界が断裂される。


彼女は俺の首に手をまわして顔を近づけた。


「忘れてしまった夢や願いは、私が持って行きます。だから、歩いてください」


そっと、吸い取るように口づけをした。


「憧憬はいつだってあなたのそばにいるんですよ」


瞬きとともに彼女はいなくなった。


消えた、と言ってもいいだろう。


俺は頬を伝っていた涙をそっとぬぐって窓の外を見た。


電車に、飛び込もうとしていた、疲れ切った幽霊が映る。


駅に着き、その扉が開いた。俺の降りる駅だ。


その足を確かめるように俺はしっかりと踏み出す。


夢、だったのだろうか。


だが、失い続けてきたものの総合意志に触れ、またそれを抱くことができた。


まだ少しだけ、もう少しだけ俺はこの街で生きていたい。


たとえそれが生き地獄だとしても。


彼女のために生きていたいとそう思う。


街灯が照らす細い道を、誰もいない家に帰るために、俺は歩を進めた。

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