第7話 取り引き
三度目のゲームが幕を開け、現時点において加算されたポイントはKの0に対して、ハウザーは9ポイント……Kによるダウト成功、あるいはハウザーがミスダウトしてしまえば高確率で敗れてしまう最悪の状態である。
そんな首の皮一枚の状況で男に配られたカードは、彼を地獄に突き落とすようなあまりにも弱い手札であった。
(9……か)
3以上のカードを引けば次のヒットでバストする可能性が現れる、されどAがない限り三枚引かなければブラックジャックにならぬこのゲームにおいて、初手9は辛い始まりだ。
対してKは4という比較的低いカードをテーブルに添え、ハウザーのヒットを黙って待っている。
「……くッ!」
先手ハウザーに配られた二枚目は♦の8……。
合計17でヒットをするなど、確率的にも期待値的にも出来る行為ではない。それでも相手に合計数値を知らせぬ為にカード伏せ、弱々しくノットバストとKに告げた。
「二枚目で、か……」
「私は貴様のようにバスト覚悟でヒットを選択するような愚かな真似はしない……!」
「堂々と三枚目を引いてノットバスト宣言でもすれば、仮に二枚目が高目だったとしてもチャンスはあるだろ? まさか俺なんかが怖くて引けなかったか?」
「そんな事は……ないッ!」
ワナワナと肩を震わせ、Kを怒りの形相で睨み付けるハウザー。
もちろん、そんな顔だけで臆する事など一切ないKは二枚目のカードを眺めてから、悪魔の囁きを口にした。
「……なあ、アンタがこのままいいとこ無しってのも可哀想だからさ、取り引きしないか?」
「取り引き……だと?」
「ああ、アンタが金を払えば俺は一枚ヒットする。このゲーム、裏向きで置き続ける限りは置き放題だろ……? ま、こっちがバストしてもアンタの勝ち分はそこに置いた二枚だけだが……どうする?」
「うっ……」
たった二枚の勝ち──勝負の足しにもならない程度だが、未だ無傷な男に傷を負わせる絶好のチャンスであった。
もちろん、賢者が目の前にいる手前、そんな情けから生まれた勝ちは見せたくはない……しかし、このままの流れでは対峙する悪魔に一方的に蹂躙されて終わってしまう。そんなビジョンしかハウザーには見えて来なかった。
「その前に聞くが……一枚ヒットさせるのにいくら払わせるつもりだ? 金貨一枚か?」
「金貨一枚? まさか……」
ゆえにハウザーはあくまで不本意そうな態度を装い、取り引きの内容を尋ねた。
しかし、それは悪魔の取り引き……男の想像する金額の遥か上となる額をKは口にする。
「金貨“十枚”だ」
一敗ではなくたった一枚、たった一枚に対して日本円に換算し、250万に値する金貨十枚の要求……。
そんな馬鹿げた子供の戯言にハウザーは声を荒げ、強く反論の言葉を放った。
「ふざけるなッ! き、金貨十枚だと!?」
「このゲームのレートは一枚に金貨十枚だ……だったら同価値じゃないか。ま、別に嫌ならいいんだ、勝手に取引を持ち掛けたのはこっちなんだからさ」
「あ、う……ま、待ってくれ!」
思わずハウザーは敵である少年に対し、惨めにもそう叫んでしまう。
待ってくれ、それは相手より遅れを取っている事を自ら口にしているのと同意であり、懇願という確かな上下関係を築いてしまった瞬間でもある。
上下関係が出来てしまえば、主導権を握られる……それは日常であってもギャンブルであっても不利以外のなにものでもない。
少なからずその程度の事は理解しているハウザーは、自らが口走った言葉に深く後悔しながらも、震える手で財布の中から十枚の金貨を取り出した。
「ひ……引いて……くれ」
「ああ、わかった……ヒットだ」
ハウザーから投げられバラバラに転がる金貨を目で数え、少年は二枚目のカードを伏せ、取り引き通り三枚目のカードを受け取った。
取り引きが成立した以上、そこに文句や挑発は挟まない。
そんな事をせずとも、金貨を渡したハウザーは自らの行動に深い後悔を抱いているのだから……。
「それで……次はどうする?」
「次……?」
まだKの引いた枚数は三枚。
トランプならば1~Kの中間にある7が一枚あたりの期待値だが、字札が10扱いのブラックジャックにおいてはそこから少し下がり、概ね6~7。
ゆえに現在のKの合計は約16~18程となり、Kが確実にバストしている可能性は高くはなかった。
これで払い損になるぐらいならもう一枚引かせ、平均22~25となるようにするのが得策だと考えるハウザーは、苦い思いで財布から金貨を追加で取り出すと、それをKへと投げ渡す。
「ッ──引け! 金貨だ」
「わかった、じゃあヒットだ」
テーブルの縁に二つ目の金貨の塔を築き上げ、Kの手からカードが伏せて場に出された。
そして、余裕の表情のまま四枚目のカードをテーブルから排出する。
「これで四枚目……次は?」
Kはそれを焦る事もなく冷めた目で確認し、ハウザーに問う。
それもそうだ、Kが何枚引いたところで加算される枚数は二枚……当初は命というチップに対し慎重に構えていたが、相手の力量を踏まえてもこれは致命傷どころか掠り傷にもなり得ない。
一方、ハウザーは深く悩んでいた。
これで金貨二十枚──500万……いくらギャンブルを生業をしているハウザーとはいえ、確率と期待値によるローリスクローリターンを繰り返すだけの彼の収入は、一月で金貨二枚に到達すれば調子が良いと言える程度のもの……おいそれと払える額ではない。
そもそも、コツコツと小さな勝ちを何十年も繰り返し、ようやく金貨二百五十枚へと到達し、次に三百枚という目標を掲げた矢先でこの博打……。
このまま負け、運が悪ければ金貨二百枚以上が奪われれば、自分の貯蓄してきた大金の山は容易く瓦解し、崩れ去ってしまう……それだけは絶対に避けねばならない。
金だけではなく敬愛する賢者様の信頼も失ってしまうから、とハウザーは心中で付け足すが、賢者のハウザーに対する信頼が既に欠片も残っていない事など、彼は知るよしもなかった。
「引けッ、五枚目を!」
「はいはい……」
こちらが提案した事など関係なしに、ハウザーはキツい口調でKに金貨を投げ与えると、五枚目のカードを急かせるように引かせる。
切羽詰まった態度の男の事など気にも留めず、Kはゆったりとカードを引きゆっくりと伏せるだけであった。
「さて、次もか?」
「次だと……?」
ハウザーの眼下に広がる五枚のカード。
一枚は♠️の4で、残り四枚はCのカード……ハウザーの理論上ならば28以上が濃厚であり、バストしている可能性は最初に比べ、限りなく高くなっている。
それでもなおKは次の選択を仰ぐが、勝ちを目前にしてか、ハウザーはそれをフンと鼻で笑うと、Kの申し出を突っぱねた。
「どこまで強欲な奴だな貴様は……もういい、これで終わりだ!!」
「そうかい、わかった……それじゃ──」
金貨三十枚と引き換えに二枚の勝ち……これは正しい選択だったのだろうか?
この勝負、どうすることが正しかったのかを反省しつつ、次の試合に備えて気持ちを切り替えようとするハウザーだが、この三回戦は“まだ”終結しなかった。
「ノットバスト」
「なっ、何を言っている……ノット……バスト?」
「ああ、ノットバストだ」
「そんな……バストしていないのか!?」
「俺がただの大嘘吐きか、それとも確率の下ブレで本当にノットバストなのか……それを判定するのはアンタだろう?」
何もおかしな事はない、Kは金貨十枚に対してヒットをする取り引きをしただけであり、その後バストを宣言するとは一言も言っていない。
そしてこのゲーム上、今の状況になんら不都合は存在しない。
このゲームは相手を騙し、そして嘘を見抜くゲームなのだから……。
(ノットバストだと……? 確かに五枚でノットバストしないわけではないが、その確率は非常に低い……ここで私がダウトを成功させれば七枚分のポイントが加算がされ、勝負をほぼ均衡状態にまで持ち直せる)
いつも通り数字に従うならば、ここはダウトが正解である。
しかし、もしもKが本当にノットバストだった場合ならば……。
(こちらに7ポイント加算され合計16の負け……奴に払った金貨三十枚を合わせて金貨百九十枚の損失……!)
ハイリスクハイリターン、それはハウザーが最も嫌悪する展開だ。
数字に従い安定の勝利を重ね、損失は小さく抑える、それがハウザー流のギャンブルなのだから。
対して損失など一切考えず、ハイリスクハイリターンで勝ちを重ねるKは、ハウザーの苦悶の様子を与えられた供物のように堪能するだけ。
「ダ……ダウ……っ!」
「五枚相手にダウトもまともに言えないのか? 適当に計算しても20後半だろ……? まあ、俺が四枚連続で4以下を引いてたらノットバスト……組み合わせ次第ではブラックジャックもありえるけどな」
「ッ──うるさいッ!!」
年下相手から煽りを受けながらも、ハウザーは確率という確率を計算し、Kがバストしている可能性の高さを何度も導き出す。
──が、ダウトの宣言を声にすることが出来ない。
間違いなくバストしているはずだが、この男がこちらの思惑通りの結果を素直に出してくる未来が見えなかった。
こちらがダウトと言えばノットバスト、スルーすればバスト……全てが裏目を突かれてしまうような悪い結果だけが脳裏を過り、彼の決断を鈍らせた。
こうして人間が長時間困難に対して迷い、悩んだ結果、ある思考が頭の中を支配し始める。
それは“逃げの思考”……勝ちを競うギャンブルにおいて最も勝利から遠ざかる考え方である。
ミスダウトをすれば確実に負けてしまうが“スルー”なら……スルーならばこの一戦を相手に取られても14ポイントで首の皮一枚は繋がる──次の勝負に挑めるのだ。
それに目の前の男が本当にノットバストしていたならば、合計17とはいえ、こちらにも幾分かの勝ちの目が現れる。
それならば──
「ッ……ス、スルーだ!」
「……はぁ、徹底して確率を信じるってなら志は立派だと思ったんだが、負けることに臆して自ら確率を手放すなんて、プライドも度胸もないんだな」
「黙れッ……! ここで、ここで負けるわけにはいかないのだ! 次の試合に確実に挑むため、ここはスルーだッ!!」
「ハハッ、じゃあ教えてくれよ、次に俺に勝てる確率は何パーセントなんだ? 今、俺がバストしている確率より高いのか? 残り1ポイントで負けるハウザーさんよ」
Kの神経を逆撫でする煽りと同時に三戦目のジャッジは終了し、彼の言葉通り軍配はKに上がる。
「くぅっ……やはりその手はバストか……」
「さぁ、見せる義理はないね」
未だに一敗もせず無失点のK、対してリミットの15を目前にしたハウザー。
彼の勝率は限りなくゼロに等しく、最初の頃にあった堂々とした立ち振舞いは完全に失われ、ハウザーはKのよく知る負け犬に相応しい顔立ちになり始めていた。