プロローグ:現代
……カチッ
人の価値と言うのは一体どの程度のものだろうか?
交通事故で人を殺した場合の慰謝料の相場は約2,500万円だが……それが人の価値というわけではないだろう。
そもそも2,500万円など臓器売買の相場的には心臓と腎臓を合わせた程度……確かに人として二つの臓器は必要不可欠ではあるが、二つだけが存在したところで人間とは呼べない。
先の長い赤子には価値があって、残り短い老人には価値がないのだろうか?
仮にその赤子が何の才能もなく、どうしようもない落ちこぼれで、将来働きもしない人間だとしたら?
仮にその老人は類い稀なる才能を持ち、今までも、そしてこれからも世界に貢献する人間だとしたら?
それでも赤子の親にとっては何よりも価値のある存在かもしれない。
それでも老人の子にとっては何よりも疎ましい存在かもしれない。
結局のところ優秀であろうが愚鈍であろうが、人の価値というのは自分ではない……他人が決めるのだ。
それでは七十億以上の有象無象の個体の内、自分には一体いくらの価値があるのだろうか?
……カチッ
(…………まあ、どうでもいいか)
母は“アル中”、父は“ヤク中”──絵に描いた最底辺の男女から産まれてしまった少年は、そんな考えてもキリのない哲学染みた事を考え、淡白で簡潔な結論を出すのだった。
自分の価値など知った事ではない。少なくとも今、この時、この場において、価値のわからぬ自分が自分の手によって散るかもしれないのだから……。
自分の耳元で二度目の引き金を引き終えた男──加賀峰繋は回転弾装式の拳銃をソッと机に置き、対面する男はガクガクに震えた手でそれを手に取った。
祈るように目を閉じ、半開きの口からは念仏のようにブツブツと声が発せられている。
“大丈夫だ”、“勝てる”、“死なない”……繋が男の口から聞き取れた言葉はそれぐらいであった。
「祈ったところで弾の場所は変わらないだろ?」
「うるせぇッ! わ、わかってんだよ!! わかってんだ……わかってる……!」
古くからある、単純明快なデスゲーム──ロシアンルーレット。
六つの内一つに装填された弾丸を己の頭に撃ち込んだ方が負け……死亡する。
もちろん最後の一発を自分ではなく相手に撃つ場合と、怖じ気づいて引き金を引かない場合があるため、介錯役の黒服が二人の後ろに沈黙を保ったまま存在していた。
四人が入るには少々手狭な血生臭い個室。一つしか存在しない出入り口は鍵によって施錠され、逃げ出すことも許されない。
負ければ死に、勝てば生存。そして、互いの賭けた賞金総額100,000,000──一億円が手に入る。
命懸けのギャンブル……それは繋にとっての生き甲斐、最高にして至高の娯楽なのだ。
身を、神経を、誰よりも削り、誰よりも研ぎ澄まし、死と隣り合わせというスリルを、勝利という祝福を数多と得て生きてきた……金などはそのオマケだ。
一億だろうと十億だろうと、それは繋にとって勝利の美酒を味わうために“手に入れてしまった”副産物でしかない。
カチッ……
「はぁっ……! はぁぁっ!! ッ! お前の……番だッ!」
「随分掛かったな……こんなの、弾を込めた時点で勝敗は決まってるんだ、もっと淡々と引けるだろ?」
「クソッ!! 噂通り狂ってやがる……死ぬんだぞッ!? わかってるのか!!」
「博打打ちが博打で死ねるなら本望ってやつだろ?」
まるで機械作業のように拳銃の先は自らの手によって繋のこめかみに向けられた。
弾装が一回転を迎えるまで残り二回……。
半分の確率によって命が散る……というのに、彼の手は一切震えず、呼吸に乱れもない。
狂気的なほどに冷静な少年は、今まで幾多の死線を掻い潜ってきた。この“ゲーム”だってその内の一つにすぎないのだ。
死線をただの娯楽に、そして生き甲斐のようにしてきた繋だが、その心身には知らず知らずの内に過度なストレスが蓄積され、気づけばその頭髪は死期を迎えた老人のように白く染まっていた。
そんな少年に着いた通り名は──“賭博の亡霊”
まるで既に命を落とした死者のように死を恐れず、逆に臆した相手を死神のように死へと誘う。まさに裏世界に住む悪魔……それがこの加賀峰繋だ。
カチッ……
引き金は引かれ、撃鉄が落とされる。
瞬間、緊張の張り詰めた室内に乾いた金属音が鳴った。
飾り気のない金属の衝突音……しかし、それは繋にとっての勝利の鐘の音──至福にして至高の金属音だ。
また勝った。勝利した。生存した。その事実が少年の心に莫大な快感と達成感を与え、今まで一定のリズムを刻んでいた鼓動を今になって激しく高鳴らせた。
「フッ……俺の──」
バァァンッ!!
笑みを浮かべ、勝利した繋が銃を手渡そうとする動作を取る前に、彼の耳元で本来まだ聞こえないはずの破裂音が空を震わせた。
それは繋に向けられた勝利の祝砲……と言えば皮肉以外のなにものでもないだろう。
(…………は?)
あろうことか彼の後ろに立つ黒服が、勝利したはずの繋の脳天を拳銃で撃ち抜いたのだ。
しかし、誰一人としてその男の行動に驚いた表情を浮かべてはいなかった。
まるで“最初からこうなる事が決まっていた”かのように……。
(……んだよこれ、出来レース? 嵌められたってのか? ふざけんなっての……勝ったのは俺だってのに……)
「は、ハハ……ハハハ! バカが! お前は勝ちすぎたんだ!! ハハ……ハハハ!」
対面する消沈していた相手が倒れていく繋に向かって、水を得た魚のように生気を取り戻し、勝ち誇ったかのような表情で罵声を浴びせている。
もちろん繋に詳細は聞こえない、聞きたくもなかった。
(そういやコイツ、組長の息子だっけか……? ったく、殺るなら博打で殺れよ……何でこんなつまんねぇ死に方しなくちゃなんねぇんだ……)
博打を打って、打って、打ち続け、息を引き取る。あるいは激闘の末、それか手も足も出ないような相手に敗れて死ぬ……それが繋の望む最期であった。
しかし、突きつけられた現実はあまりにも酷い……勝負も勝利も冒涜する突然の幕引き。
(こんな最期あるか……? てめぇらは厄介なガキ一人始末出来て満足ってか……?)
「…………」
普通なら即死するはずの一撃……そんな最中に繋の頭の中には未練や文句の数々が山のように積もっていく。
無論、もう声など出はしない。
この頭に浮かぶ言葉も死に際の走馬灯として浮かんでいるのか、それとも既に幽霊となって“浮かびながら”思っているのか……それは繋に知るよしもない。
最終的に浮かんだ言葉──いや、望みは三つ。
──こんなところで死にたくない。
──もっと博打が打ちたい。
そして……
バァァンッ!!
お前も死ね──である。
「がッ──……!?」
少年がパイプ椅子からゆっくりと崩れ落ちていく最中、彼の亡霊としての最後の使命か、単なる偶然か、引き金に掛かった右手の人差し指に力が入り、彼の手の中にある拳銃から一発の銃弾が発射される。
その銃弾はまるで鞘に戻る刃となって、本来向かうべき場所へと辻褄を合わせるように真っ直ぐ螺旋を描いて空を切り、嘲笑う男の眉間を見事に撃ち抜いた。
(ハハ……ざまあみろ……)
消え行く意識の中、即死したはずの少年は笑顔を浮かべて墜ちていく。
深く、深く……。