どうして君のそばを離れてしまったの(美樹視点)
俺は、慈のあたたかい手のひらが好きだった。慈と手をつなぐと、手のひらのぬくもりが伝わってきて、むずがゆいような気分になる。
稽古から解放されると、慈は俺の手を引いて、いっしょに空き地に遊びに行った。俺たちのお気に入りの遊びは当時人気だった特撮のヒーローごっこだった 。ちなみに悪役は不在。ふたりともヒーロー役をやりたがったからだ(慈は女の子なのに)。
逆に俺が慈の手を引いて、俺の家に連れていくこともよくあった。慈はマシュマロが好きで、キッチンのコンロで、マシュマロをあぶって食べるのが俺たちのあいだで流行った。俺も、熱で少し溶けたマシュマロをふたりで頬張るのが好きだった。母さんは慈が来るとはりきって、手づくりのフルーツタルトを焼いてくれることもあった。
俺たちはとても多くの時間を共に過ごした。俺たちは、ふたりでいっしょに大人への階段をのぼっていったんだ。
けれど、俺が中学三年生になった頃から、慈とのあいだに距離ができていった。その頃から俺は慈のことが好きだということをはっきりと自覚するようになり、俺のほうから慈から離れていった。とくに興味のない数人の女の子に言い寄られて、付き合ってみたりもした。でも交際期間は誰とも長くは続かなかった。
慈は俺にとって本命すぎて、どうしていいか分からなくなったんだと思う。思春期ってやつは困ったものだ。
柔道も辞めてしまい、道場に通わなくなって、慈とは距離のできたまま、高校生のときにこのまちから引っ越した。父親の仕事の都合で、ドイツはミュンヘンに渡ったのだ。
雨が降りしきるなか、俺は慈との思い出を懐古しながら、戸田道場を眺めていた。東京で秘書として就職するため、先週にドイツから帰国したばかりで、慈との連絡手段のない俺は、突然すぎるとは思ったが直接慈の家に行けば彼女に会えるかもしれないと思い立ち、ここを訪れた。俺はもう思春期の子どもじゃない、いちおう大人の男だ。しかし、この土地はすでに売地になっていた。なんとなしに戸に手をかけてみるも、もちろん戸は施錠されていて開かない。
俺は初めて慈と口をきいたときのことを思い描いた。その場所はまさしくここだった。
子どもの頃の俺は身体が弱かった。他の子よりも幾分か痩せていて、しょっちゅう風邪を引いて、見るからにひ弱だった。そんな俺の身体を鍛え、それから根性がつくようにと、両親が家の近所にあるこの戸田道場に俺を通わせた。厳しい師範が恐くて、俺は道場に行くことをぐずるようになったけれど、親が柔道をやめさせてはくれなかった。
その頃の俺は確かに根性がなくて、すぐに弱音を吐くような子どもだった。おまけに、同じ学年の子どもからいじめられていた。
少年たちからハブられ、いじめを受けた理由は今ならよく分かる。俺の容姿と性格だ。
俺の父親は日本人だが、母親はドイツ人だ。つまりハーフ。鳶色の髪と灰色がかった目、はっきりとした目鼻立ちのこの洋風の顔は、まだ外国人に慣れない子どもたちの目に少々異様に映ったに違いない。それに、自惚れではなく、俺はオトコマエだ。子どもの頃から周りの女の子の注目を浴びていたのは確かだ。同年代の少年たちにとっては嫉妬の対象でもあっただろうと思う。
彼らが俺をいじめたくなったのには俺の性格も一役買っていただろう。おとなしい気性だった俺は彼らに突き飛ばされても文句ひとつ言えなかった。
夏休みに入ったばかりのその日にも、俺は数人の男子に囲まれていた。
子どもは素直で、容赦がない。
「おまえ、おとこのくせに弱々しいんだよ」
「そうだ。弱いくせに、柔道なんかしてんじゃねえよ」
俺はそのときも唇を噛むだけで何も言い返せなかった。俺はランドセルを取られ、道場の玄関の前で突き飛ばされて尻餅をついた。
「それに、女みてえな名前だし。.......聞いてまちゅか、ミキちゃーん」
悔しいのに、行動を起こす勇気がない。そんなとき、俺には毎週日曜日の朝にやっていた特撮のヒーローを思い出す癖があった。いつか俺のことも助けにきてくれるに違いない。この悪いやつらに必殺技を繰り出しコテンパンにやっつけて、俺を救い出してくれるところを想像する。
「おい、なんか言ってみろよ」
悪ガキのうちの一人の足がのびてくる。蹴られる、と瞬時に感じた俺は思わず目をつぶり、身構えて衝撃に備えた――
しかし、想像した痛みは訪れなかった。
どさっ、と何かが倒れる音がした。目を開ける。俺の目の前には柔道着を着た髪の短い子どもの背中があり、俺に蹴りを喰らわせようとした少年が地面のうえに倒れていた。
「あんたたち、ここでケンカしないで」
戸田道場の一人娘だった。
「な、何だよ。女がでしゃばるな......!」
もう一人の少年が女の子に襲いかかる。
逃げて、と思ったのもつかの間、彼女はその男の子の向かってくる勢いを利用し、お手本のようにキレイな背負い投げをかましてみせた。
それまで俺を囲んでいた他の少年たちは、彼女には敵わないと思ったのか踵を返しその場を逃げていく。地面に倒れた少年たちも急いで立ちあがり、悔しそうな顔で走り去った。
あとには俺と少女が残された。
「あんた、戸田道場の門下生でしょ」
少女が俺を振り返る。彼女より身体の大きい二人の少年たちを投げたというのに、彼女は息ひとつ乱さず平然としている。
「う、うん」
「やられたら技でやり返しなよ」
そう言って彼女はため息をひとつ吐いたあと、俺に手をのばした。俺は呆然としながらもその手を取り、身体を起こしてもらう。彼女は言葉を続ける。
「ここの門下生なら、弱いままじゃダメなの。お父さんの名誉に関わるでしょ。稽古を積んで、早く強くなってよ」
そう言って立ち去る後ろ姿を見つめながら俺は、そのときこう思った。
(ほ、本物のヒーローだ......!)
俺はなんとなく、自分の居場所を見つけた気がした。それからは、練習は厳しくても道場に行くのが楽しみで仕方なくなった。あのとき俺を悪ガキから守ってくれた道場の一人娘、慈ともだんだん親しくなっていった。
とりあえず、彼女はもうここには住んでいないことは分かった。俺は慈との思い出のつまったこの場所を去る。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか。